記雨 終章【門へ】
「ようやく、着いたね」
シルが息を切らしながら、山頂を見上げる。すぐ後ろにはユール、ルクシアと続く。
「この裂け目、近づいても先が何も見えないね」
ユールは、ガルトから借りた外套のフードを掴み、深々とかぶる。山を登るにつれて、雨は強まっているようにも感じられた。
目の前には空を覆う巨大な亀裂が広がり、山頂を闇が覆っている。
「……」
洞窟で休んで以来、彼女は口数が減り、シルやユールが話しかけても、気のない返事をするばかりだった。
「ユール」
シルが振り返り、夕闇を宿した瞳の少年を見る。
「ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
シルの言葉に、ユールはかぶりを振る。
「ううん。僕もこの先に行く」
「工房の周辺や、ここまでに見つけた石碑は写したからね」
ユールは外套越しに、鞄に手を添える。
「もしかしたら、元は僕も、別の世界に生きていたかもしれないし」
ユールは躊躇いがちに続ける。
「見届けたいんだ、シルの旅を」
驚いた様子のシルをよそに、ユールは視線をルクシアへ移す。
二人の視線を感じ、ルクシアは口を開く。
「私は……ここに残るわ」
ルクシアは、二人へ視線を合わせずに話す。
「また誰かが、この世界にやってくるかもしれない。安全な場所を見つけて、体を休めるのには、助けが要るでしょう?」
シルは眉をひそめ、彼女を見つめる。
「…その誰かも、こうして山を目指すかもしれない」
ルクシアは、言い訳を並べるように言葉を継ぐ。
「ここで、この世界でじっとしていても、何も変わらないよ……。一番大切なことは、心を一番動かすから、疲れるんだ」
「忘れていくことを嘆いて――楽なんだ。大切なことから目を背けて、雨に身を任せてさ」
「記録の中には、この世界に絶望して、諦めてしまった人もいる。自分から、雨に溶けてしまうことを選んだんだ」
ユールは、外套のフードからルクシアを覗く。
麓の洞窟で、ルクシアは娘たちのことを思い出した。それは彼女にとって、素直に喜べるものではなかった。
あの世界に、子供たちを置いてきてしまった。長い間、どんな辛い思いをさせたか知れない。
シルの話を思い出す――なぜ、二人のそばに私がいないのか。シアリスとアリシアが酷い目に遭ったのは、自分が消えたからだ。
今更、会わせる顔がない。
こんな事なら、思い出さなければ良かったと――。
「……ガルトの話し相手も、要るだろうから」
ルクシアは、震える声を絞り出すと、刀をシルへ差し出す。
刀を手放すということは、彼女自身の存在――ルクシアであることを、母親であることを諦めるという事だ。
目貫に加工されたブローチ、そして刀を持つ生身の右手に、雨粒が当たる。傘を持つ機械の左腕は、だらりと下がり、彼女の全身が雨に濡れる。
シルは一瞬、差し出された腕を見ると、その燃える瞳でルクシアを見つめた。
泣きそうで、壊れそうな、母親の顔を。
「……アタシは、アリシアとシアリスを助けたい」
シルがゆっくりと言葉を紡いでいく。
「でも違ったんだ」
「アリシアと、家族になりたかったんだ」
「アリシアには、笑顔でいて欲しい」
「アリシアの喜んだ顔が見たい」
「アリシアを幸せにするために、あなたが必要」
シルは、刀を持つルクシアの腕を掴むと、彼女の手に刀の柄を握らせる。
「それが、アタシの願い」
「ルクシア、あなたの本当の願いは何?」
シルの問いに、ルクシアの瞳が揺れる。
「選んで!」
刀を手放し、雨に身を委ねる。過去を忘れ、現実を忘れ、安息の中で空洞の殻となる。
または、娘たちとの絆を握りしめ、雨に抗う。記憶を手繰り、未知の闇へと飛び込む。
その先にある再会を信じて。
シルが目的を忘れずに旅を続けられた理由――
それは、この世界に落ちてすぐに、ルクシアが傘を差し出して雨を防いだこと。ガルトの工房で濡れた身体を拭き、忘却の力が薄められた水を飲んだこと。
なによりも、シルが探し求める親友の血縁者がずっとそばにいたことが、彼女の記憶を留めていた。
「私は……」
ルクシアは顔を歪ませる。
「アリシア、シアリス……」
身体が熱い。
選ぶのが、怖い。
誰かに任せている方が楽だ。
雨の所為だと、世界の責任だと。
握られた、娘たちとお揃いのブローチの感触。その手を包むシルの両手。
「あの子たちに、会いたい」
理想の母親ではいられなかった。いるべき時にそばにいて、守ることができなかった。
それでも、また彼女たちに会いたい。
――家族として、母親として。
全身に浴びているはずの雨の冷たさは、右手から広がる熱によってかき消されていた。
「行こう!」
シルの力強い声に、二人は頷く。
三人は互いの手を握り、先の見えない闇の中へ足を運ぶ。
***
雨の降る世界で、唯一熱のこもる工房。
ガルトが窓から、薄く影だけが見える山を見つめていた。
――門に導かれ、三人の物語は続く。
『GateFragments』第三巻『記雨』
——完——




