記雨 第3章【物語の観測】
シルが振り返ると、すでに工房は白い空気に溶け、見えなくなっていた。
今どの方向を向いているのかさえ定かではない。そのなかで、目指すべき山の影だけが道標だった。
幸いにも、かつて生活していた人間が施した舗装路が、かろうじて役目を果たしていた。
ひび割れた石や崩れた木の板を頼りに、三人は歩みを進めた。
「そういえば、思っていたよりも雨殻に遭遇しないね」
シルが訊ねる。
「目的を失った雨殻はそのうち、停滞という安心と共に、この世界に溶けてしまうの」
ルクシアが短く答え、それ以上は何も言わなかった。
***
「あれは……」
ルクシアが呟く。
霞の向こうに、ガラスで出来た建築物が現れた。
ユールが、チラリと二人の様子を窺う。
ルクシアがユールの視線を感じたのか、
「ちょうど良いわね、あそこで少し休憩しましょう」
と提案する。ユールはその言葉に嬉しそうな表情を浮かべたが、すぐにふいと顔を逸らした。
***
建物の入り口は、入館受付や物品販売が行われていたであろう、エントランスだった。
崩れた屋根から落ちる雨が、建物内に反響している。壁には蔓が伸び、床には割れたガラスが散らばっていた。
シルは、埃を被ったベンチへ腰掛け、吐息を漏らした。
ルクシアは、澱んだ空気の漂うエントランス内を見回した――雨殻の気配はない。今はただ、湿気と腐敗の匂いがする静かな箱庭だった。
ルクシアはシルの隣に静かに座った。硬いベンチと、隣に座る少女の熱が、張り詰めていた彼女の神経を解いていく。
よれた施設案内を開き、歩き回っていたユールが、奥への扉を指差して声を上げた。
「ここ、もともとは植物園だったみたいだよ。……ちょっと見てくる」
ユールは温室へと消えた。
「アタシたちも行ってみようよ」
シルとルクシアは立ち上がり、ユールの後を追った。
「……あまり居心地はよくないね」
土が雨に染み、泥濘からは異臭がする。
降り続ける雨に、多くの植物は枯れ、カビが生えていた。
かつては、植物園の目玉だったであろう温室の中心部に、ユールはいた。
中央の展示空間には、植物ではなく、代わりに大きな石碑がいくつか並んでいる。
ユールは、静かに手帳へ記録していた。彼の手帳に留められた紙束は、湿度の高いこの世界でも崩れることなく、深い青のインクを吸って文字を刻んでいる。
「これ……」
シルが石碑のひとつに近づき、凹凸に指を沿わせた。
『植物園の石碑』――
物語は私自身だ。
紡ぐ文字に――の答えを求め、この世界を共有したかった。
だが、多くは私の物語、世界、求める答えに興味などなく、即物的な快楽と、利益のために利用しようと近づいてくる者ばかりだった。
私の言葉が――に届くことはなかった。
物語は私のためのものであり、得られる答えが、唯一私を救ってくれるのだと思っていた。
だが同時に――誰にも知られず、評価されないことで、価値を見出せなくなっていく自分もいた。
裏切られ、傷付けられた。だが、何度他者を諦めても、彼らに期待すること――信じることを止めることができなかった。
ここに、私の最も大切な『物語』を記す。いつか、降り続ける雨により削られ、世界が失われるまで。
――名前は書かれていない。
横に並ぶもう一つの石碑には、石碑を刻んだ者の『物語』が記されていた。
『――利益のために利用しようと近づいてくる者ばかりだった』
シルは、機関がアリシアの姉――シアリスを、人類の進化のために実験体として利用し、その事実を嘘で隠していたことを思い出す。
「この石碑を刻んだ人は、自分自身や大切な物語に息づく人たちを、傷付けられたんだ」
『――だが、何度他者を諦めても、彼らに期待することを止めることができなかった』
シアリスは、彼女を資源として扱った機関の人々を、最後まで守った。しかし、彼らは個の判断を放棄し、集団心理に身を委ねた。
「アタシも、選ぶことを放棄して、他人の決めた善悪に判断を任せてた。友達と、その子にとって大事な人が傷付いて、ようやく気付いたんだ」
『私の言葉が――に届くことはなかった』
ルクシアは、工房で長い間孤独に、届くかも分からない誰かのため造る手を止めなかった――ガルトのことを考えていた。
「この石碑の主とガルトは、少し似た孤独を抱えていたのね……届くことのない祈りを、形作ることで捧げ続けた」
彼女は、口下手な機械工から贈られた刀の柄に右手を添える。
石碑の言葉、そして物語を書き写し終えたユールが立ち上がる。
『――誰にも知られず、評価されないことで、価値を見出せなくなっていく自分もいた』
「面白いのかつまらないのかは、僕にとっては重要じゃない」
ユールは筆記具を鞄へ入れ、石碑を見上げる。
「僕たちが見つけた」
「この世界に生きた人の記録、そのどれかは僕のものかもしれない。なら、その全てに価値がある」
「この石碑の書き手にとって最も大切なもの――物語。そこに生まれた全ての命に、価値がある」
***
植物園を出発した三人は歩き続け、山の麓へと辿り着いていた。
山へ近づくにつれ、足元は泥が薄くなり、代わりに硬い感触が足の裏へ伝わりはじめた。鉱物のような地表は、降り続く雨に削られることなく、深い緑色の光沢を宿していた。山の地質が、周辺まで影響を及ぼし、雨に流される世界で異質な存在を放っている。
「無事に、山の麓まで来れたね」
シルは、ガルトから贈られた笠の縁を片手で持ち上げ、山頂を仰ぐ。
ルクシアが、隣で傘を差しながら頷く。
「この辺りで一度、休みましょう。雨には注意が必要だけれど、この地質なら足場が崩れる心配はないわ。一日かければ、頂上の『裂け目』まで辿り着けそうね」
濃い霧の中で、昼夜の境界が不確かな世界では、一日の認識も曖昧になる。
ユールは、二人の少し後ろで立ち止まる。
「……あそこが良さそうだよ。ほら」
ユールが指差す先には、人の手によって削り取られたような浅い横穴があった。入り口のそばには、かつて誰かが整備した狭い山道が残っていた。
***
雨音が反響する中、山へ備えるために各々が準備を行う。
ユールは、道中で書き留めた手帳の内容を読み返している。
ルクシアは右脚の装束を解き、義肢の雨を拭き取る。
その様子を見つめていたシルが、彼女に歩み寄る。
「アタシに手伝わせて」
「え、ええ」
ルクシアは戸惑いつつも、義手を差し出した。シルはこれまで機関の支援部隊として、親友であり、機関のバディでもあったアリシアの装備を調整し、点検し続けてきた。その経験が彼女の指に宿り、ルクシアの腕に触れる。
シルは丁寧に、そしてルクシア本人と遜色のない手際で、その身体を取り扱った。
シルが作業を進める傍らで、ルクシアは手持ち無沙汰を埋めるように、そばに置いた刀の水を布で拭き取り始めた。
ふと、至近距離にいたシルの目に刀が留まり、動きを止めた。
刀の柄と、それを巻く革のわずかな隙間に、小さな金属の装飾が挟み込まれていることに気付いたのだ。
その形には、見覚えがあった。
「……それ」
シルの指す金具を見たルクシアは、布を持つ手を止める。
「これは目貫という金具よ。といっても、ガルトの作ったこの機械の刀には、本来の用途ではもう必要のないものだけれど」
ルクシアは金属の装飾に優しく触れる。
「私がこの世界に来る前から、持っていたものなの。ガルトが『自分を忘れないように』と、常に触れていられるように、加工してくれたの……」
シルは、懐から小さな装飾品を取り出す。それは金属で出来た、歪な菱形のブローチだった。
あの日――アリシアが、シアリスを追って門へ落ちた時……。閉じた門の前で崩れ落ちたシルの足元に落ちていたものだ。
「――」
ルクシアの口が微かに震える。
刀の柄に取り付けられた金具も、同じ歪な菱形をしていた。
シルが差し出したブローチに、ルクシアの指が触れる。凹凸をなぞる指先から、彼女の奥へと熱が流れ込む。
「――アリシア、シアリス」
ルクシアの頬に、涙が伝った。




