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読影の魔女  作者: さと
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出会い

大神殿のステンドグラスから差し込む光が、聖女の背を流れるたおやかな銀糸と白いドレスを彩る。聖女のお披露目と継承の儀のため、国中から集結した神殿治癒師たちは、呼吸すら忘れて見つめていた。光の祝福を一身に受けたかのような佇まいを、ほっそりとした人差し指から深紅の血がワインへと滴るさまを。


居合わせた者は等しく、聖女の血を含んだワインが振る舞われる。周りに倣い、俺もワイングラスに恭しく口をつけると、自分の中に新たな力が宿るのを感じた。言い尽くせぬほどの喜びをも。

(ああこれで、あの苦々しい嘘から解放される)

地方の神殿治癒師に就任し1年にも満たない俺でさえこうなのだ。重鎮らの思いたるやひとしおだろう。


100年に一度、異界の知識をもつ聖女が誕生し、新たな魔法を授けるとされる聖女信仰。その中でも稀代の聖女とうたわれた少女セラスは、この国に光魔法をもたらし、既存の神殿治癒の限界をたやすく打ち砕いた。彼女はまさしく神殿治癒師たちの希望そのものを体現していた。そのアメジスト色の瞳を我々へと向け、許されざる失言を機に更迭される、その時まで。


***


「……治らない……?」

母親が愕然とした表情で赤ん坊をかき抱く。小さく握られた右手の指は6本。俺が山火事に行き会い、小さな村でやけどを負った者たちの治癒をあらかた終えたのちに、この子もと望まれたものだった。

「ええ、おそらくは信心不足によるものか、何か殺生をされたかでしょう。聖女様は無益な殺生を厭いますから」

「そんな! ルーク様はさきほど、この子と同じ歳の、姉の子のやけどを治してくださったではありませんか。……まさか、私が姉を置いて逃げたせいでしょうか。けれど、あのときこの子たちを救うにはそうするしか……」


魔法を使える者のいないこの小さな村では、火から逃げるだけで精一杯だったろう。決して罪に問えるものではなく、殺生などと呼べるはずもない。けれど、俺は肯定も否定もなく、ただこの母親の巡らす思考に任せた。

生来のものは治せない。ほかの怪我や病気にも治せないものは多い。万能ではない神殿治癒を、そうと知られぬための方便だ。怒りの矛先が神殿へ向かぬように、為せぬ治癒の責任を当人に負わせるのが常だった。

赤ん坊が瞼を開いた。偶然にも俺と同じ、夕焼け色の無垢な瞳が投げかけてくる。おまえはこれでいいのかと。


「じゃあ、この子は私の罪を背負い、一生、このまま……?」

「篤い信仰心をもってのぞめば、いつか治ることもありましょう。聖女様は行いを見ておられます」

やりきれない思いで、もう何度口にしたか知れぬ文言を舌に乗せる。心と体がバラバラになりそうだというのに、貼りつけた笑みは少しも崩れはしない。俺が神殿治癒師となって2年と少し、嘘ばかりがうまくなっていく。


「隣町に腕の良い医師がいると聞きました。いつかを待てぬのであれば、そちらを尋ねてみては」

「この子の指を切り落とせとおっしゃるのですか? ああどうか、この子を見放さないでやってください」

夜ごと掘り起こした遺体を切り裂き、治療と称して歪な縫い痕を残す、人の倫を外れた医師を頼るのは最後の手段だ。当代の聖女セラスはあの日、我々神殿治癒師へ『医師に倣え』と告げたが、ありうべからざることだった。


泣き崩れる母親を村人に託し、出立の準備に向かう。馬にまたがる俺を村の長が引き留めにかかる。

「本当に何も召し上がられないのですか? ルーク様には山火事を消していただいたばかりでなく、貴重な神殿魔法で多くの住民を治していただいたというのに」

焼け出された者も多い、村のわずかな貯えを奪うことはしたくない。

「お気になさらず。こうして行き会ったのも聖女様のお導きでしょう。ではすみません、先を急ぎますので」


大やけどから生還し感謝を述べる住民たちの背後で、神殿治癒が効かなかった何人かが、その家族が、俺を見ている。彼らにこそ言いたかった。ただただ、申し訳ないと。



長へと告げた、先を急ぐというのもあながち嘘ではない。俺は次の任地へと向かう道すがら、とある医師の元を訪れる手はずになっていた。神殿に知られぬよう評判の良い医師を探し、何度か手紙のやり取りをしていたのだ。当代の聖女が諭した、医師から体の構造と機能を学ぶために。


日の高いうちに街へ着く予定だったが、消火のためにと降らせた雨を地面が吸い、馬の足を鈍らせていた。あまり遅くなるのは先方に失礼かと、迂回路を使わず山を抜ける。足場の悪い崖下に差し掛かった時、絶壁をパラパラと小石が転がるのが見え、そこで俺の意識は途絶えた。


***


日差しに瞼を焼かれ、眩しさに意識が浮上する。ぼんやりした視界が像を結ぶと、アメジスト色の瞳がのぞき込んでいた。夕日に照らされ輝きを増す、紫の瞳と銀の髪。半年前の光景のつづきかと思われたが、髪はくすんで短く、眼光はもっとずっと鋭い。聖女とは似ても似つかない、俺と同じ年頃の青年だった。


「っ、……!」

覚醒とともに全身を走る痛みに、きつく眉根を寄せる。現状を把握すべくそろそろと視線を巡らせると、崩落した崖面が上方に見えた。大小の岩や土砂が辺りを覆いつくし、あおむけに倒れた俺の足も土砂に埋まっている。傾いた日が、約束の時間をとうに過ぎていることを示していた。

さきほどの眩しさは、頭上を覆っていた岩をこの青年が退けてくれたのだろうか。よく頭が無事だったものだ。俺が乗ってきた馬も無事のようで、2頭の馬が少し離れた木に繋いである。

青年の身なりはよく、このあたりの村で生活している者ではない。山道を外れたこの場所で、この土砂の中、よく見つけ出せたものだ。俺のこのブルネットの髪は目立ちにくかったろうに。


「気がついたか。手を貸そう、抜け出せそうか?」

青年が頭上から手を伸ばす。その手を取るべく鈍い動きで上体を起こそうとするが、思うようには動けなかった。

「ああ……足が、挟まっていて」

土砂に埋まった脚の感覚がなく気づけずにいたが、ちょうど太ももの辺りから下を大岩が押し潰している。


「いつからだ」

抜け出すよりは障害物をどかそうと掌に魔力をこめかけると、青年が問いかけてきた。『大丈夫か?』でも『今、助ける』でもなく、『いつから』を問うのか。

「たしか、昼過ぎに」

山火事被害の村を出た後、崖崩れに巻き込まれたのだ。神殿治癒師が自分の身も守れぬとあっては恥でしかないが、他者を危険な場所に留めて巻き込むなどもってのほかだ。青年は難しい顔で何やら考えているようだったが、早めにここを離れた方がいい。


「お恥ずかしい限りですが、ご心配には及びません。ほらこのとおり」

風魔法で足の上に陣取っていた大岩や土砂を浮かせると、太もものあたりがえぐれた両足がお目見えした。繊細な刺繍が施された紺色のローブはところどころ擦り切れ、挫創からの出血で赤黒く染まっている。歪にえぐれた太ももとは裏腹に、ローブから覗く足首は腫れて紫色に変色している。自分の足の悲惨な変わりようを目にしたことで、痛みが実感を伴って押し寄せ、また気が遠くなりかける。


「失礼、見目の良くないものを」

若干青くなった顔に笑顔を乗せ、潰れた箇所に両手をかざして治癒魔法をかける。たちまちのうちに挫創は消え、歪だった脚の形は元に戻った。打ち付けた背中や脛から下も多少痛むが、打ち身や足の腫れなど、数日もすれば収まるだろう。何の支障もなく動くようになった膝を立て、力の入り具合を確かめる。


(神殿治癒が効く類の怪我でよかった)

悟られないよう心のうちで息をつき、青年に笑みを向けた。

「お騒がせしました。ここは危ない、離れましょう」

腹に力を込めて立ち上がり、俺よりやや低い青年の背を押してみるが、一向に動こうとしない。おおかた、奇跡だと脚を見ているのだろう。

魔法を使える者は貴族のみ、その中でも治癒魔法の使い手はごくわずか、神殿に属する者に限られる。生涯、目にする機会のない者も多いのだ。

いつもの反応が返ってくるとばかり思っていたが、青年の視線は膝ではなく、ローブの裾から覗く足首に注がれていた。治癒を後回しにしたため紫色に腫れたままだが、わざわざ立ち止まるようなことではない。そこから青年の視線が移ったかと思えば、ちょうど俺の下腹部を見るなり、眉を顰め舌打ちをした。


「し、失礼をっ」

舌打ちされるような状態にでもなっているのかと、思わず下腹部のローブを手繰り寄せる。擦り切れていたローブも膝と同時に戻したし、命の危機にあらぬ場所が誤作動を起こしてもいない。一体何だというのか。

「半端な真似を」

苦々しく零した青年は、夕日を背にしていた。陽を受けず宝石のように煌めく瞳に、ようやく違和感を覚える。


「昼過ぎからと言ったな。少なく見積もって3時間、岩に押し潰されていたわけだ。長時間圧迫された先には毒がたまる。骨折部位だけ元に戻したせいで、足先から全身に毒が回った状態だ。毒入りの血液が体を一周するのに1分とかからない。すでに兆候が出始めている。今こうしている間にもあんたの体は蝕まれ、近いうちに死ぬ。治療を受けるか?」


突如告げられた死亡宣告への動揺ももちろんある。けれど、この射貫くように『魔力を通して』煌めく紫色の瞳。彼は骨折部位を『元に戻した』と言った。神殿治癒師の証たるローブはまとっていないが、外部に秘匿されているはずの神殿治癒の理を知っている。

夕日だと思ったあの眩しさも、俺の頭部を『視て』いたためだとしてもつじつまが合う。今も光魔法を使いこなし、俺の腹を『視て』何らかの兆候を見て取った。

こんなことができる人物はこの世に二人といない。かつて稀代の聖女とうたわれ、異端審問の末に忽然と姿を消した──

「……読影の、魔女」


動揺のあまり口をついて出た呟きを謝罪する前に、青年が眉をしかめる。

「あんたの眼には俺が女に見えるのか?」

見えない。シャープな頬も目鼻立ちも、骨格も男性のもので、一度だけ見た彼女の輪郭とは重ならない。

「っですが、ほかに、あなたのような方は……っ」

「俺は大神殿でセラスの付き人をしていた。まあ、弟子みたいなもんだ」

「もしや、あなたがあの方を救い出されたのですか?! 今、どちらに」

身を乗り出して思わずつかんだ腕を、すげなく振り払われる。

「事故で死んだ」

「……そう、ですか」


落胆に、力が抜ける。立ってなどいられなかった。半年前、神殿は偽りの聖女を秘密裏に据え、セラスには魔女の烙印を押し、『光魔法を悪用した神殿治癒師』として神殿を追放したのだ。

人の住めぬ北の果てに幽閉されるところをお救いしようとしたが、馬車はもぬけの殻だった。行方は知れずとも誰かに保護されていればと……どこかで楽観視していたと痛感する。烙印を押された身では薬師にも頼れなかったろう。


「おかしな奴だな」

「あなたこそ」

俺よりもはるかに身近な存在だったのだ。何者にも代えがたい方を亡くし、その原因である神殿治癒師を治そうなどと、俺が彼の立場なら思うまい。


「それで、どうする?」

問われるまでもない。光魔法を授けられてもなお、彼女のようにできた神殿治癒師はいなかった。仕組みがわかっても使いこなせないのだ。ずっと知りたかった。聖女が起こした『本当の奇跡』を、この目で見てみたかった。


「お願いします。できうることならば、解説もいただきたく」

「ハッ、その意気や善し」

恥も外聞もない俺の返答に、青年は満足げに笑む。本当に変わった人だ。今度こそ彼の手を取る。


「あんたの名前は?」

「ルーク」

「俺はセナ。せっかくだ、叩き込んでやろう」

セナは俺の腕を引き、後悔の渦からも引っ張り上げた。




落石現場から少し離れた大木の洞に腰を落ち着けると、セナは俺が治療を後回しにしていた足先から治癒を施していく。腫れて変色している箇所がなくなるまで、場所を替えて掌をかざすセナを見ながら、過去の神殿治癒例を悔やむ。


「手足の腫れなど数日で治ると、誰も気に留めていませんでした」

「腫れがひどい場合は手足が腐り落ちるぞ。痛みがひどいか、逆に感覚がなくなっているときは特に」

ゾッとするようなことを淡々と語る。過去の治癒例は、自分の足はどうだったか、巡りそうな思考を振り切る。


「あの、毒はどこから侵入したのでしょう。傷口からでしょうか?」

「悪くない考えだ。土壌の毒が傷口から入ることもあるからな。口が開けにくいとか、体が反り返るようにこわばる症例を見たことは?」

「っ! あります。口の治癒後、弓なりにのけぞる形で固まり、亡くなったとの報告が」

「土壌の毒で、全身を動かす神経が傷つくとそうなる。ルークの傷からも入っているかもな。だが、その症状が出るには最低でも3日はかかる。あんたを殺すのはもっと早い、別の毒だ。外部からでもない。圧迫が2時間を超えると、壊れた筋肉から出てくる。圧迫が解除され、せき止められていたそいつらが一気に流れると毒になる。ようは薬や食べ物と同じだ、体に必要なものでも量が過ぎれば毒になる」


セナは足の治癒を終えると今度は俺の胸元に手を当て、胸中に目を凝らしながら治癒魔法をかけ始めた。

「なぜ胸に?」

「……体中をめぐる血は必ずここ、心臓を通る。心臓は通常、一定のリズムで血を送り出すが、圧迫の毒に侵されるとリズムが乱れ、動きを止めることがある。中の血と同時に、毒に侵された心臓も治せば手間がない」

「毒が見えるのですか?」

「見えない。だが、リズムの狂いと、それによって生じる血の塊はわかる」


空間がひずみ、突如現れた『像』に目を剥く。俺の反応が見ずともわかったのか、セナの声が得意げに弾む。

「便利だろう。水魔法と組み合わせて、俺の視たものを投影している」

仲間内の体で視たことのある心臓が、空中で動いていた。透明度の低い、赤い液体が光魔法で照らされる。まるで口をぱくつかせる魚のように、薄い蓋が開け閉めを繰り返している。

投影そのものにも驚いたが、精度が段違いだ。視るべきものを知り、より視やすいように調整された光魔法だとわかる。


「向かって左上、左心耳に血の塊ができやすい。それが血流に乗り、狭い箇所の血をせき止めてしまう。多いのは脳、つまり頭だ。血の塊が見えたら頭にも治癒をかけておけ」

「はい」と答えながら、俺は心中穏やかではなかった。どれほど彼女に師事すれば、彼のようになれるのだろう。


「リズムだけなら、中を覗かずともわかる。自分のここを、指先で触れてみろ」

そう言ってセナは、治癒魔法をかけ続けている自身の手首を指さした。促されるまま、俺自身の親指側の手首へと触れてみる。指先に拍動が触れた。宙に浮かぶ心臓と同じ速さで、少しだけ感動した。体の各部が繋がっているのだと。

そのせいだろう、セナの暴挙への反応が遅れた。


「ほかにも、圧迫の毒に侵されたかを知る場所がある。さっき俺が確認した場所、膀胱だ」

セナは胸元に視線を向けたまま、空いている方の手で──こともあろうに、俺のきわどい箇所をぐっと押したのだ。


「ちょっ、何を……⁉」

とたんにこみあげる尿意と羞恥に、とっさにセナの手を外し、大木に預けていた背が浮く。セナから「動くな」と諫められたが、今ので責められるのは釈然としない。


「自分でこの中を視たことは?」

心臓に治癒をかけ続けるセナはいたって真剣で、俺一人で動揺しているのが馬鹿らしくなってくる。

「〰〰っ、あります」

「なら『読影』してみろ。普段と何が違うか視るといい」


元聖女は光魔法のことをもっぱら『読影』と呼んでいたと聞く。体内を透視し、見たものから判断するのだと。透視だけなら何度もした。自身の、同僚の、あらゆる場所を。

瞳に魔力を集中させ、セナに押された箇所に目を凝らす。皮膚の奥へ、さらに奥へ、体内に光を灯すように。

セナほどの精度がなくとも、この奥は透明な水だからよく見える。押された時の感覚から察するに中身は尿なのだろう。たしか周囲は薄い桃色の壁をしていた。


「っ! 血が見えます」

「正しくは血じゃない。毒の一種だ」

桃色の壁に開いた小さな穴からじわりじわりと血のように赤黒いものが染み出し、全体を茶色く濁らせている。毒と聞いてすぐ「こちらは俺が」と掌をかざし、治癒魔法をかけようとしたが、その腕を掴まれた。


「そこはただの貯蔵庫だ。放っておいても支障はない。毒に侵されているのはこっち……、腎臓だ」

心臓の治癒を終えたらしいセナは背中側の骨を探り位置を確かめると、俺の手を右のわき腹に当てさせた。

「腎臓は背中側に二つある。片側は頼んだ」


左側に治癒を施し始めたセナに倣って俺も治癒をかけてはいるが、理解の範疇などとっくに超えていた。魔法の速度と範囲拡大だけでは到達しえない、全く別物の境地。

体の構造と機能を知れと言った彼女の意図を痛感する。奇跡の源泉は、異界で培われた圧倒的な知識量なのだと。


***


治癒を終える頃には、辺りは薄暗くなっていた。俺が飛ばした小さな光源が洞の中を淡く照らしている。

「動く対象に治癒をかけたことがなくてな。すべての血をもとに戻せたか、不安がないわけではない。自分で手首に触れてみてリズムが乱れるようなら、心臓と血に治癒魔法をかけるといい」

「そのくらいはできるだろう」と立ち去ろうとするセナの袖を引き留める。


「今も大神殿にお勤めですか? セナのほかにも、弟子はいらっしゃいますか? 俺を、あなたの弟子にしていただくことは可能でしょうか? 俺は本日、医師の元を訪ねる予定でした。けれど医師に倣えども、独力ではきっとあなたのようにはなれない。俺は、もうこれ以上嘘を重ねて生きていきたくはありません」


矢継ぎ早に言い立てる俺にセナは面食らったようだった。何かを言いかけ口を開いたセナが、突然膝の力が抜けるように崩れた。

とっさに抱えると、見た目の体躯からは想像できない軽さと柔らかさに驚く。セナの表情が苦痛に歪み、それと時を同じくして『像』が乱れる。鋭い目や頬の輪郭が丸みを帯びたかと思うと、束ねられた艶やかな銀の髪が現れた。首にぐるりと施された烙印は、腕の中の人物が魔女であることを示している。


「……な、にが…?」

向こうも自身の状況を呑み込めていないようだが、俺の方が驚いていた。腕の中にいるのはセラスその人なのだ。


(……生きて、おられた……俺は今、稀代の聖女から直々に教えを乞うていたのか)

言い尽くせないほどの喜びがこみあげてくるが、それどころではなかった。

おそらく、自身にかけていた光魔法が意図せず途切れたのだ。彼女は四肢に力が入らず、額に汗が滲み、目の焦点も合っていない。


「魔力枯渇か……!」

直ちに魔力を供給しなければ、本当に彼女を喪ってしまう。一刻を争う状況に、俺は自分の血を飲ませるべく彼女を上向きに抱え直す。親指を嚙みちぎろうとして、寸前で思い留まった。

動く対象への治癒は初めてで不安だと言っていたのだ。万が一、解毒が済んでいなければ、毒入りの血を彼女に取り込ませることになる。しかし、別の方法となると……。

みるみる血の気を失い、今にも意識を手放しそうな彼女を前に、逡巡は一瞬だった。


「……っ、すみません」

ぐいと顎を引き、唇を合わせた。浅い呼吸を繰り返す唇を割り入って、互いの舌が触れるまで深く口づける。魔力を舌先に乗せ、染み出す唾液を彼女の口内に送り込む。

(この方だけは絶対に喪ってはならない。今度こそ、何に代えてもお救いする)


どれほどそうしていただろうか、くたりと力の抜けていた舌が俺を押し返すようになり、腕の中の身体がこわばり始めた。

顔を上げると、紙のように白かった頬に血色が戻っていた。通常の頬の色以上に。


「お飲みください」

有無を言わせぬ声で告げると、セラスは困り顔でごくんと、口内の唾液を飲み下した。セラスがむせずに、全てを腹の内に収められたことにほっとする。

姿を変える光魔法にどのくらいの魔力が必要かは知れないが、2回分の読影と神殿治癒程度は補填できたはずだ。

「どこかお体に不具合は?」

「ない、……と思う。助かった。魔力が切れるとこんな風になるのだな」


セラスは俺の腕に預けていた身を起こし、おずおずと俺から距離をとる。さすがに気まずいのだろう、心なしか視線が合わない。

セナの時の様子から、もしや羞恥心の類を持ちえないのかと思っていたが、少女らしい一面もあるのだと認識を改める。命の危機を脱した安堵もあいまって、じわじわと照れが伝染してくる。


「許可も得ず、失礼をいたしました……」

「……いや、救命措置と心得ている。ルークにも酷なことをしたな、男同士でこんな」

今度はこちらが目を丸くする方だった。セラスは光魔法が途切れていると気づいていないのだ。言わないという選択肢はなかった。彼女にとって命取りになるからだ。


「その、言いづらいのですが、烙印に魔力生成を阻害する作用が組み込まれています」

ぱん、と大きな音を立て、セラスは自身の首元に手を当てた。烙印について触れたことで、俺に本当の姿を知られたことを悟ったのだろう。顔にはしくじったと、ありありと書かれている。


「誓って、あなたに害をなすようなことはいたしません」

「それは心配していない」

青年として聞こえるよう作られた声でも、大勢に届くよう張り上げてもいない、彼女本来の肉声を初めて聞いた。こちらへの疑心も虚勢もない。ただ、どこか後ろめたさの滲む声だった。


「偽っていたことでしたら、心苦しく思う必要などございません。あなたの境遇を思えば当然のことですから。よろしければ、倒れられる前の質問にお答えいただいても?」

「弟子はいない。セナという付き人も実在していない。だが、私の弟子になったことが神殿に知られれば、ルークまで異端審問にかけられるぞ」

ああ、この方は俺の身をも案じてくださるのか。魔力生成が十分でない以上、いつまた魔力が尽きるともしれないのに。


「医師に倣うつもりでしたので、もとより危ない橋は渡っております。神殿の妨害が入る前に、光魔法はかくあるべきと世論を味方につければよいのです。俺の身で証明すればいい、あなたの考えが正しいのだと」


大木の洞の中、淡い光源の下。何も知らない者が見れば、魔女の密事のように映っただろう。

実際は真逆だった。そんなことが可能なのかとうろたえ揺れる紫の瞳を前に、俺は柔和な笑みを向ける。


「それに、その烙印がある限り、お一人では満足に魔法を行使できないでしょう。光魔法を使われるあなたはとても生き生きとしていらした。光魔法を使わず過ごせますか? 魔力供給のあてはおありですか? あなたの烙印が外れるその日まで。魔力の補填要員としても、どうぞこの身を存分にご活用ください」


嘘偽りない忠心を告げたのだが、彼女の眼には違うものに映ったのかもしれない。きっと俺と同じように感じたことだろう。


まるで俺こそが、契約を持ちかける悪魔のようだと。


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