第四話:変わりゆく心模様
慧の言葉は、騒がしい部室の中に静かに響き渡り、結衣の動きを止めた。
詩織もまた、慧の洞察に息をのむ。
「結衣ちゃん、もしかして、ラブレターがなくなる前から、渡すのが少し怖かったんじゃない?」
図星を突かれたように、結衣の肩が小さく震えた。
しかし、すぐに顔を上げて激しく否定する。
「そ、そんなことないもん! 私は本気なんだから! 望月くんに、この気持ち、伝えたかったんだから!」
語尾が震えているのを、詩織は聞き逃さなかった。
慧は何も言わず、ただ静かな眼差しを結衣に向けている。
その視線は、まるで彼女の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
結衣は次第に言葉を詰まらせ、俯いてしまう。
その時、詩織がふと気づいた。
「結衣ちゃん、さっきお茶を淹れに行った時、何か他のものも持っていかなかった? 例えば、読んでた雑誌とか…」
「え?」
結衣はハッとして顔を上げた。
「雑誌…? ああ、そういえば、さっきまで読んでたファッション雑誌、給湯室に持っていったかも…」
結衣は慌てて自分のカバンや、部室の隅に積んであった教科書の束を漁り始めた。
そして、ややあって、くしゃくしゃになったファッション雑誌の間から、一枚のピンク色の封筒が顔を出した。
「あ…あった…」
呆然と呟く結衣。ラブレターは盗まれたのではなく、彼女自身が無意識のうちに雑誌に挟み込み、そのまま置き忘れていただけだったのだ。
ラブレターが見つかったことに安堵するのも束の間、結衣の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「うわーん! やっぱり私には無理なんだ! 望月くんにこんなの渡せないよぉ!」
彼女はその場にしゃがみ込み、子供のように泣きじゃくり始めた。
「望月くん、すっごく人気者だし…サッカーも上手で、かっこよくて…私なんかが相手にされるわけないもん…振られるのが怖いの…手紙、書いたけど…渡す勇気なんて、本当はなかったんだ…」
嗚咽混じりに吐き出される本音。
犯人捜しに躍起になっていたのは、この臆病な心と向き合うことから逃げるためだったのかもしれない。
麗華は呆れたように、しかしどこか心配そうにその様子を見守り、航はそっと視線を逸らした。
クマさんはオロオロしながら、
「結衣ちゃん、元気出せよぉ…その、なんだ、きっと大丈夫だって!」
と的外れな励ましの言葉をかけている。
慧は、静かに結衣の隣に歩み寄り、彼女の目線に合わせてそっとしゃがみ込んだ。
「そっか。怖かったんだね」
その声は、責めるでもなく、諭すでもなく、ただ結衣の気持ちに寄り添うような温かさを持っていた。
結衣はしゃくり上げながら、こくりと頷く。
「でもね」
慧は続けた。
「その怖いって気持ちも、望月くんのことが、それだけ好きだってことの裏返しかもしれないね」
結衣が少し顔を上げる。
慧の言葉は、彼女の心の琴線に優しく触れたようだった。
「気持ちって、ずっと同じじゃないと思うんだ。今はすごく好きで、でもすごく怖くて、不安でいっぱいかもしれない。でも、明日になったら、ほんの少し勇気が出るかもしれないし、また次の日には、やっぱりダメだって思うかもしれない。そういうふうに、人の心って、天気みたいに変わっていくものなんじゃないかな。だから、今の気持ちを無理に抑えたり、偽ったりしなくてもいいと思うよ」
慧の言葉は、まるで呪文のように、結衣の荒れた心を少しずつ鎮めていく。
「ラブレターを渡すことが、ゴールじゃないかもしれない。大切なのは、結衣ちゃんが自分のその揺れ動く気持ちに正直になれたかどうか、そして、その気持ちをこれからどうしたいか、結衣ちゃん自身が決めることじゃないかな」
詩織は、そっと結衣の肩を抱いた。
「私もね、そういう気持ち、分かる気がするよ。すごくドキドキするけど、同じくらい不安で…」
結衣は詩織の顔を見上げ、小さく頷いた。
詩織は、慧の言葉に静かに耳を傾けながら、彼の温かさ、人の心の深層に優しく寄り添おうとする姿勢に、改めて胸を打たれていた。
ただ謎を解くだけではない、その奥にある人の心を見つめようとする慧の横顔を、詩織は尊敬と、そして確かに芽生え始めた淡い恋心とともに見つめていた。
慧の言葉と詩織の温もりに、結衣は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
涙はまだ止まらないけれど、その表情には先ほどまでのパニックはなかった。
「私…どうしたいんだろう…」
消え入りそうな声で呟く結衣。
ラブレターは、彼女の手の中で少しだけ湿っていた。
「もう少し…考えてみる…」
結衣がそう言った時、彼女の顔には、自分の心と真正面から向き合おうとする、小さな決意のようなものが微かに浮かんでいた。
最終的に結衣がラブレターを望月くんに渡すのかどうか、その答えはまだ風の中だ。
けれど、ミステリー研究会の部室には、一人の少女が自分の臆病さを受け入れ、ほんの少しだけ前に踏み出そうとする、切なくも温かい空気が流れていた。
そして詩織は、慧がただの変わり者ではなく、人の心の「縁」を静かに見つめる特別な存在なのだと、改めて感じていた。