第三話:消えたラブレターと臆病な恋心
佐伯美緒の万年筆の一件から数日後。
ミステリー研究会の部室には、いつものように怠惰で平和な時間が流れていた。
はずだった。
「できたーっ! 私の渾身のラブレター! 今世紀最高の出来よ!」
桜木結衣が、ピンク色の便箋を高々と掲げ、勝利宣言のように叫んだ。
その声に、麗華は読んでいた推理小説から顔をしかめてみせる。
「桜木さん、またですか。先月の今頃も、確か同じようなことをおっしゃっていませんでしたか? 相手はバスケ部のキャプテンでしたかしら」
「ぶ、部長! それは言わない約束でしょ! 今回は違うんです、今回は本気と書いてマジなんです!」
頬を赤らめながら力説する結衣に、クマさんが人の良さそうな笑顔で尋ねる。
「お、結衣ちゃん、今度は誰にだい? 応援するぞ」
「それはまだ秘密ですー! でも、クマさん、応援ありがとうございます! 今度こそ、この想い、届けてみせます!」
そう言って、結衣は完成したばかりのラブレターを自分の机の上に置き、満足そうに眺めた後、「ちょっとお茶淹れてきまーす!」とスキップするように給湯室へ向かった。
その数分後。
「ないっ! ないっ! 私のラブレターがなーーーーいっ!!」
部室に響き渡ったのは、結衣の悲鳴に近い絶叫だった。
給湯室から戻ってきた彼女は、自分の机の上を何度も確認し、パニックに陥っている。
「え、ラブレターって、さっきの?」
詩織が驚いて尋ねる。
今日はたまたま慧と一緒に部室を訪れていた。
「そうだよぉ! あんなに頑張って書いたのに! どこにもないの! うわーん、絶対誰かが盗ったんだわ!」
結衣は床にへたり込み、本気で泣き始めている。
麗華はため息を一つついてから、冷静に状況整理を始めた。
「桜木さん、落ち着いてください。まず、あなたが席を外していたのは何分くらいですか?」
「えっと…3分…いや5分くらい?」
「その時、部室にいたのは…」
麗華が室内を見渡す。
「相田くんに深町くん、それから熊井先輩…私は少し遅れて入室しましたから、この3人の誰か、ということになりますね」
途端に、結衣の涙が止まり、疑いの眼差しが三人に向けられた。
「さては…この中に私の恋路を邪魔しようって輩がいるのね!」
「おいおい、人聞きの悪い」
航は読んでいた論文から顔を上げずにつぶやいた。
「俺はさっきからこの一篇の恋愛心理学に関する考察と格闘してる。現実の恋愛沙汰に構ってる暇はない」
「わ、わしじゃないぞ、結衣ちゃん! そんな乙女の大切な手紙を、わしがどうこうするわけなかろう!」
クマさんが慌てて両手を振る。
慧は、ただ静かに結衣の様子を見つめていた。
「それで、桜木さん。そのラブレター、誰に宛てたものだったんですか?」
詩織が優しく尋ねる。
「それは…サッカー部の…一年の星、望月くんなの…」
結衣はもじもじしながら答えた。
「明日、練習試合が終わった後、直接渡そうと思って…うぅ、もうお嫁に行けない…」
「まだ告白もしてないでしょうに…」
麗華がこめかみを押さえる。
「とにかく!私のラブレターを返してよー!」
部員たちが半ば呆れながらも部室内を捜索し始めたが、ピンク色の封筒は見当たらない。
結衣は床を転げ回りながら、「私の青春が!」「悪魔の仕業だわ!」と騒ぎ立てている。
そんな中、慧が静かに口を開いた。
「そのラブレターって、どんなことを書いたの?」
ピタリ、と結衣の動きが止まる。
「え? そ、それは…もちろん、望月くんの素敵なところとか…私の燃えるようなこの気持ちとか…とにかく、すっごく頑張って書いたんだから!」
結衣は早口でまくし立てたが、その目は泳いでいた。
「ふーん…」
慧は小さく頷いた。
「渡すのが明日なのに、今日完成させて、ここに置いておいたんだね」
事実を淡々と確認するような慧の言葉に、結衣は「うっ…」と何かを言い淀んだ。
捜索は難航した。
ゴミ箱の中も、本棚の隙間も、クマさんの巨大なリュックの中(本人の許可を得て)も調べたが、ラブレターの影も形もない。
「やっぱり誰かが隠したんだ! 私の純粋な乙女心を弄んで! もう許せない!」
結衣の怒りは頂点に達し、普段の彼女からは想像もつかないような剣幕だ。
詩織が「結衣ちゃん、落ち着いて…」と声をかけるが、もはや聞く耳を持たない。
慧は、そんな結衣の姿をじっと見つめていた。
彼女の過剰なまでの犯人捜しへの執着。
ラブレターの内容を具体的に語りたがらない曖昧な態度。
そして、時折見せる、怯えにも似た表情。
慧は、隣にいた詩織にだけ聞こえるような小声で呟いた。
「結衣ちゃん、本当にラブレターが“盗まれた”ことを怒ってるのかな…それとも、何か別のことを恐れてるんだろうか…」
詩織が慧の顔を見る。
「別のこと…?」
「うん。例えば…ラブレターが誰かに読まれることかもしれないし…もっと言えば、そのラブレターを、望月くんに“渡すこと”自体に、何かためらいがあるとか…」
慧の言葉に、詩織はハッとした。
言われてみれば、結衣の瞳の奥には、怒りや悲しみだけでなく、もっと複雑な感情が渦巻いているように見える。
それは、不安、戸惑い、そして、ほんの少しの…安堵?
まさか、とは思う。けれど、慧の言葉はいつも、物事の隠された一面をそっと照らし出すのだ。
詩織は、ヒステリックに騒ぎ続ける結衣の横顔を、改めて見つめた。
本当に大切なのは、消えたラブレターの行方だけなのだろうか。
それとも…。