第二話:見えない糸を手繰って
慧の言葉が小さな波紋を広げる中、ミステリー研究会一行は、詩織の友人・佐伯美緒がいるという二年B組の教室へと向かった。
放課後の教室には、まだ数人の生徒が残っていたが、その一角で、美緒は机に突っ伏して泣いていた。詩織がそっとその背中を撫でる。
「美緒ちゃん、ミステリー研究会の人たちが来てくれたよ」
美緒はゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした目が痛々しい。
「橘さん…みんな、ありがとう…でも、もう…」
「諦めるのはまだ早いですよ、佐伯さん」
麗華がきっぱりと言った。
「まずは、その万年筆について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
美緒は、途切れ途切れに話し始めた。
「おばあちゃんが…作家になりたかったおばあちゃんが、ずっと大切にしていた万年筆なんです。私が小さい頃、『この万年筆で、いつか美緒も素敵な物語を書いてね』って…。古いけど、インクの出も良くて、手に馴染んで…」
話しながら、また美緒の目に涙が浮かぶ。
クマさんがハンカチを差し出すと、小さく「ありがとう」と呟いた。
「最後にその万年筆を見たのはいつですか?」
麗華が尋ねる。
「昨日の…最後の授業が終わった後、ペンケースに入れたのは確かです。それで、今日の昼休み、作文の課題で使おうと思ったら…なくなってて…」
「誰かと言い争ったり、恨みを買うような心当たりは?」
航が冷静に質問を重ねる。
美緒は力なく首を振った。
「ううん…特に、そういうのは…」
一通りの聞き取りを終え、麗華の指示で部員たちは手分けして美緒の机周りやロッカー、教室のゴミ箱などを調べ始めた。
「名探偵結衣にお任せあれー!」
結衣は虫眼鏡を取り出し(いつの間に用意したのか)、床を這いずるように捜索を始める。
「結衣、邪魔。あと、その虫眼鏡、ただの拡大鏡だろ」航が呆れたようにツッコミを入れる。
「いいの!雰囲気、雰囲気!」
クマさんは、不安げな美緒の隣にそっと寄り添い、「大丈夫だよ、きっと見つかるからね」と優しい声をかけている。
詩織も美緒の手を握り、励ましていた。
しかし、いくら探しても、万年筆に繋がるような手がかりは見つからない。
詩織は、ふと慧の姿を探した。彼は、美緒の机の周りをゆっくりと歩きながら、何かを観察しているようだった。
その目は、床や壁、他の生徒たちの机など、様々な場所に注がれている。
「相田くん…何か、気づいたことある?」
詩織が小声で尋ねると、慧はゆっくりと顔を上げた。
「うーん…」彼は少し首を傾げた。
「盗むとしたら、どうしてこのタイミングだったんだろう。もっと前に盗むチャンスはあったかもしれないし、もっと後でも良かったかもしれない。どうして『昨日から今日の昼休みまでの間』だったのかな」
その言葉は、犯人の動機や機会といった、ミステリーの基本的な要素を改めて問い直すものだった。
そして、慧は美緒に視線を移した。
「美緒さん、その万年筆のこと、最近誰かに話したり、見せたりした?」
美緒は少し考えてから、ハッとしたように顔を上げた。
「えっと…そういえば、昨日、休み時間に、クラスメイトの広瀬さんに…作文の課題で万年筆を使うんだって話をしたら、『どんなの?』って聞かれて、少しだけ…見せたかもしれない…」
「広瀬さん…」詩織はその名前を知っていた。
大人しくて、あまり目立たないタイプの女子生徒だ。
すぐに広瀬さんからも話を聞くことになった。
彼女は、美緒の万年筆を見たことは認めたものの、盗んではいないと強く否定した。
「すごく素敵な万年筆だなって思ったのは本当です。でも、私、取ってません!」
そう言う広瀬さんの目は少し潤んでいて、何かを隠しているような、言いづらそうな雰囲気も見て取れた。
詩織は、彼女が嘘をついているようには思えなかったが、何か引っかかるものを感じた。
部室に戻り、これまでの情報を整理する。
「広瀬さんが怪しいけど、決め手がないわね…」
麗華が腕を組む。
「でも、あの子、何か知ってそうだったよね?」
結衣が言う。
慧は、黙って窓の外を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「美緒さんが言ってた、『作文の課題で使う』って言葉…それと、広瀬さんの少しおびえたような態度。もしかしたら、万年筆は盗まれたんじゃなくて、『作文』に何か関係があるのかもしれない」
「作文に?」詩織が聞き返す。
「うん。ただの偶然かもしれないけど…点と点が、何か別の形で繋がるような気がするんだ」
慧の言葉に、詩織は心の中で何かがカチリと音を立てるのを感じた。
バラバラに見えていた情報が、慧の言葉によって、一本の細い糸で結ばれようとしているような感覚。
慧の提案で、改めて国語の担当教師に話を聞きに行った。
作文の課題について、そして昨日提出された作文について。
教師は少し驚いた顔をしたが、事情を話すと協力してくれた。
「佐伯さんの万年筆ですか…そういえば、昨日、広瀬さんから預かった作文の束の中に、一本、古い万年筆が挟まっていたような…ああ、これですかな?」
教師が机の引き出しから取り出したのは、紛れもなく、美緒が話していた特徴と一致する万年筆だった。
「あっ…!」詩織と美緒は同時に声を上げた。
広瀬さんにもう一度話を聞くと、彼女は泣きながら真相を語った。
昨日、美緒に万年筆を見せてもらった後、どうしてもその万年筆で作文を書いてみたくなったのだという。
美緒が席を外した隙にこっそり借りて作文を書き上げ、提出する際、急いでいたため、誤って万年筆も一緒に作文の束に挟んで提出してしまったらしい。
そして、そのことを美緒に言い出せず、万年筆がなくなったと騒ぎになったことで、ますます言い出せなくなってしまったのだと。
万年筆は無事、美緒の元へと戻った。
「よかった…本当によかった…!」
美緒は万年筆を胸に抱きしめ、涙を流して喜んだ。
広瀬さんも何度も頭を下げて謝り、美緒も「ううん、見つかったから大丈夫だよ」と彼女を許した。
二人の間には、雨上がりの空のような、少しぎこちないけれど晴れやかな笑顔が戻っていた。
事件が解決し、夕日が差し込む部室で、詩織は慧に話しかけた。
「相田くんって、すごいね。どうして、作文が関係してるって気づいたの?」
慧は、いつものように少しぼんやりとした表情で、窓の外を眺めながら答えた。
「別に、すごくないよ。ただ…いろんなことが、目に見えないところで繋がってるんじゃないかなって、時々思うだけ。万年筆がなくなったのも、美緒さんが悲しんだのも、広瀬さんが悩んだのも…全部、何かの理由があって、繋がってたんだと思う」
その言葉は、詩織の心に温かく染み渡った。
慧の独特な視点と、物事の奥にある優しい真実を見つけ出そうとする彼の姿に、詩織は知らず知らずのうちに強く惹かれ始めているのを感じていた。
ミステリー研究会の日常は、こうしてまた一つ、小さな謎と、それに伴う人々の心の機微を解き明かしたのだった。