第十九話:最後の事件、そして芽生える恋
新学期を迎え、ミステリー研究会は新たな一歩を踏み出していた。
慧が実質的なリーダーとなり、詩織がそれを支える。
数名の個性的な新入部員も加わり、部室には以前にも増して賑やかな声が響いていた。
慧と詩織の間にも、言葉にはしないが、お互いをより深く意識し合うような、穏やかで温かい空気が流れていた。
そんな日常に、静かに、しかし確実に忍び寄る影があった。
最初に異変を訴えたのは、かつて大切な万年筆を巡る事件でミステリー研究会と関わった佐伯美緒だった。
彼女が大学受験のために必死に書き溜めていた研究ノートが、厳重に管理していたはずの自宅の部屋から忽然と消えたのだ。
警察に届けるほどではないが、彼女にとっては大きな痛手だった。
続いて、SNSでの誹謗中傷から立ち直りつつあった航の元に、再び差出人不明の脅迫めいたメッセージが届き始めた。
その文面は、以前の中傷犯Cの手口を巧妙に模倣しつつ、より悪質さを増していた。
さらに、クマさんが助けたカルガモたちが巣を作っていた中庭の茂みには、再び動物用の罠が仕掛けられ、あわやというところで発見された。
そして、あの「開かずの間」だった第三音楽室からは、深夜、誰かが激しくピアノの鍵盤を叩きつけるような不協和音が響き渡り、警備員が駆けつける騒ぎとなった。
これらの事件は、一見するとバラバラに見えた。
しかし、被害者や関係場所の多くが、過去にミステリー研究会が関わった出来事と深く繋がっていることに、慧はすぐに気づいた。
「これは偶然じゃない…」部室に集まったメンバーたちを前に、慧は静かに告げた。
「誰かが、意図的に、僕たち、あるいは僕たちが関わってきた人たちをターゲットにしている可能性が高い」
新入部員たちは不安げな表情を浮かべたが、詩織、結衣、航は、慧の言葉に真剣な眼差しで頷いた。
「まるで、過去の事件の亡霊みたいですね…」詩織が呟く。
「許せない!誰だか知らないけど、私たちの思い出を汚すような真似は絶対にさせないんだから!」結衣が拳を握りしめる。
ミステリー研究会は、総力を挙げてこの連続する不可解な事件の調査に乗り出した。
新入部員たちも、先輩たちの指示を受け、情報収集や聞き込みに奔走する。
卒業した麗華からも「何か不穏な動きがあるようね。データベースのアクセス権限はそのままにしてあるから、必要な情報があれば遠慮なく使いなさい。
私も、元部長として黙ってはいられないわ」
と力強いメールが届いた。
クマさんも、心配して毎日のように部室に顔を出し、手作りのお菓子(今回はなぜかプロテインバーだったが)を差し入れながら、自分にできることはないかと気を揉んでいた。
慧は、一つ一つの事件の関連性を丹念に洗い出し、犯行の手口や残された僅かな痕跡から、犯人像をプロファイリングしていく。
犯人は、ミステリー研究会の過去の活動を詳細に把握しており、極めて頭脳明晰で、かつ強い執着心を持っている人物である可能性が高い。
そして、その目的は…?
詩織は、被害に遭った人々を一人一人訪ね、彼らの不安な気持ちに寄り添いながら、事件当時の状況や、何か心当たりがないかを丁寧に聞き取っていった。
彼女の誠実な態度は、固く閉ざされがちな被害者たちの心を開かせ、慧の推理だけでは得られない、人間関係の中に隠された貴重な情報を引き出していった。
捜査は困難を極めた。犯人は巧妙に痕跡を消し、時には偽の情報を流して慧たちを混乱させる。
その手口は、まるで慧の思考を先読みしているかのようだった。
「この犯人は…僕のことをよく知っている…」
慧は、ある種の既視感と、言いようのない焦燥感に駆られていた。
そんな中、事態は急変する。
犯人からの新たな挑戦状が、ミステリー研究会の部室に直接届けられたのだ。
それは、一枚のタロットカード――「運命の輪」の逆位置――と共に、こう記されていた。
『君たちの絆も、所詮は移ろいゆく運命の一コマに過ぎない。
本当に大切なものを守りたければ、今宵、月が満ちる刻、全ての始まりと終わりの場所へ来たまえ。
ただし、招待するのは、相田慧、君一人だ』
「全ての始まりと終わりの場所…?」
詩織が息を呑む。
それは、慧がかつて自身のトラウマと向き合った、あの古い天文台のことを指しているとしか思えなかった。
「罠だ…絶対に罠だよ、相田先輩!」結衣が叫ぶ。
慧は、タロットカードをじっと見つめていた。
彼の脳裏には、過去の断片と、現在の事件のピースが、目まぐるしく回転していた。
そして、ついに、一つの恐るべき可能性に思い至る。
「…そうか…そういうことだったのか…」
慧の口から、か細い声が漏れた。
彼が突き止めた犯人の正体、そしてその歪んだ動機は、あまりにも意外で、そしてあまりにも悲しいものだった。
「僕が行く」慧は、静かに、しかし揺るぎない決意を込めて言った。
「これは、僕自身がケリをつけなければならない問題だ」
「行かせるわけないでしょ!」
詩織が慧の腕を掴んだ。
「私たちも一緒に行く!もう、相田くんを一人にはしないって決めたんだから!」
その瞳には、恐怖よりも強い、慧への信頼と愛情が宿っていた。
結衣も、航も、そして新入部員たちも、黙って詩織の隣に並び立つ。
慧は、仲間たちの顔を一人一人見渡し、そして、深く頷いた。
「ありがとう。でも、これは本当に危険かもしれない。それでも…一緒に来てくれるか?」
「当たり前じゃないですか!」
「僕たち、ミステリー研究会ですから!」
力強い言葉が、部室に響き渡った。
月が冷たく夜空を照らす頃、慧と詩織、そしてミステリー研究会の仲間たちは、固唾を飲んで、あの古い天文台の重い扉の前に立っていた。
そこには、最後の、そして最も難解な「謎」と、犯人の歪んだ「正義」が、彼らを待ち受けているはずだった。
慧のポケットの中で、スマートフォンが静かに震えた。表示されたのは、未知の番号からのメッセージ。
『さあ、始めようか、相田慧くん。君が本当に、過去から現在へと続く全ての「縁」を見抜き、そして未来を掴むことができるのかどうか…最後のテストだ』
慧は、隣に立つ詩織の手を、そっと強く握りしめた。