第十三話:慧、自身の悩みと向き合う
詩織の心の傷も癒え、第三音楽室の悲しい旋律が過去のものとなった頃、ミステリー研究会にはようやく穏やかな日常が戻ってきたかに見えた。
慧もまた、いつものように窓際の席で静かに本を読み、時折、仲間たちの賑やかな会話に微かな笑みを浮かべていた。
しかし、その平穏は、小さな波紋から始まった。
ある日の放課後、慧が部室で使っていた愛用の万年筆――彼が尊敬する祖父の形見で、いつも大切に胸ポケットに差しているはずのものが、忽然と姿を消したのだ。
最初は単なる置き忘れかと思い、部室中を探したが、どこにも見当たらない。
慧は表情には出さなかったが、内心では微かな不安を覚えていた。
その不安は、数日後、より明確な形となって現れた。
慧の個人ロッカーに、一枚のカードが挟まっていたのだ。
そこには、彼が幼い頃に熱中していた、今では絶版となった推理小説の一節が印字されており、その下には「君はまだ、本当の謎を解いていない」という、挑発的なメッセージが添えられていた。
その小説のことは、ごく親しい数人しか知らないはずだった。
さらに数日後には、ミステリー研究会のメールアドレス宛に、慧個人を名指しした匿名のメールが届いた。
そこには、彼が過去に解決したとされるある出来事について、「君の見立ては甘かった。真実はいつも、君が見ようとしない場所にある」といった、彼の洞察力を試すような、あるいは嘲るような言葉が綴られていた。
いつもはどんな難事件にも冷静沈着に対処する慧が、明らかに動揺し、何かを隠そうとするそぶりを見せ始めた。
詩織や他の部員たちは、彼のその微細な変化を見逃さなかった。
「相田くん、最近何か変だよ。顔色もあまり良くないし…私たちに何か隠してること、ない?」
詩織が心配そうに尋ねても、慧は「大丈夫、何でもない。少し考え事をしているだけだ」と曖昧に微笑むだけだった。
「もしかして、相田先輩、誰かに狙われてるんじゃ…!? ストーカーとか、ライバルの探偵とか!」
結衣が目を輝かせ(半分は不謹慎な好奇心からだったが)、的外れな推理を展開し始める。
麗華は眼鏡の位置を直しながら、鋭い視線を慧に向けた。
「これは単なるいたずらでは済まされないかもしれないわね、相田くん。あなたに何か心当たりがあるのなら、正直に話すべきよ。私たちも、他人事ではないのだから」
クマさんも心配そうに、「慧、一人で抱え込むなよ。俺たち、仲間だろ?」と彼の肩に手を置いた。
慧は、仲間たちの温かい言葉に感謝しつつも、心の奥底で渦巻く不穏な感情を打ち明けられずにいた。
これらの不可解な出来事が起こるたびに、彼の脳裏には、封印していたはずの過去の記憶が、断片的に蘇ってくるのだ。
それは、幼い頃の、ある友人との交わした約束。
そして、その約束を守れなかったことに対する、消えない後悔。
彼がなぜ物事の「なぜ?」をこれほどまでに深く追求し、人の心の奥底にある真実を見つめようとするようになったのか、その原点ともいえる、苦い経験の記憶だった。
詩織は、慧が一人で何かと戦っていることに気づいていた。
彼がかつて自分の心の闇に寄り添ってくれたように、今度は自分が彼の力になりたいと強く願っていた。
「相田くん」ある日、二人きりになったタイミングで、詩織は意を決して声をかけた。
「無理にとは言わない。でも、もし話せるなら、私たちを頼ってほしいな。私たちは、いつでも相田くんの味方だから」
その真っ直ぐな瞳と言葉に、慧の心の壁が少しだけ揺らいだ。
しかし、まだ彼は、重い口を開くことができなかった。
それは、あまりにも個人的で、そして彼自身にとっても未解決な「謎」だったからだ。
そして、決定的な出来事が起こる。ミステリー研究会の部室のドアに、一枚の封筒が貼り付けられていたのだ。
宛名は、はっきりと「ミステリー研究会 相田 慧様」と記されている。
中には、一枚のカードが入っていた。
そこには、慧が過去に経験した、あの後悔の念に苛まれる出来事を正確に指摘する言葉、そして、彼が見落としていた「真実の欠片」を示唆するような暗号めいた文章が並んでいた。
最後に、こう結ばれていた。
「過去からの挑戦状だ。君が本当に真実を見つめる者ならば、今夜、月が最も高く昇る刻、始まりの場所へ一人で来たまえ」
「始まりの場所」――その言葉に、慧の表情が凍りついた。
そこは、彼にとって忘れられない、そして忘れてはならない場所だった。
「これは…俺自身の問題だ。君たちを巻き込むわけにはいかない」
慧はそう言って、一人でその場所へ向かおうとした。
しかし、詩織が、そして他の部員たちが、彼の前に立ちはだかった。
「私たちも一緒に行く!」詩織の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「相田くんが私たちを仲間だと思ってくれるなら、一人で行かせたりしない!」
麗華も、結衣も、クマさんも、航も、同じ思いだった。
慧は一瞬ためらったが、仲間たちの強い眼差しに、小さく頷いた。
それは、彼にとって、重い過去の扉を再び開ける覚悟の瞬間でもあった。
指定された「始まりの場所」――それは、慧が幼い頃に祖父とよく訪れた、今はもう使われていない古い天文台だった。
月明かりだけが頼りの薄暗いその場所で、彼らを待ち受けていたのは、一体何なのか。
慧の過去と、現在の挑戦状が、今、交錯しようとしていた。