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第十二話:過去からの旋律


古い楽譜を手にした瞬間、詩織の世界は激しく揺れた。


脳裏に、陽だまりのような笑顔の少女と、軽やかに鍵盤を踊る小さな指、そして、耳を塞ぎたくなるような金属音と悲鳴が、洪水のように押し寄せてくる。


「ちーちゃん…ごめんね…私が、私が悪いの…!」


意味不明な言葉を繰り返し、詩織はその場に崩れ落ちそうになった。


慧とクマさんが慌てて両脇を支える。


彼女の呼吸は浅く、焦点の合わない瞳は深い混乱と苦痛に満ちていた。


「詩織先輩!しっかり!」結衣が泣きそうな声で呼びかける。


部室に戻り、温かい飲み物で少し落ち着きを取り戻した詩織を、部員たちは心配そうに見守っていた。


慧は、詩織が手にしていた楽譜を改めて慎重に調べた。


表紙に書かれた「ちーちゃん」という愛称。


いくつかのページに記された日付。


そして、最後のページに近い余白に、子供らしい丸文字で書かれた「いつか詩織ちゃんと一緒に、大きなステージでこの曲を弾きたいな!」という希望に満ちたメモ。


麗華と航は、その名前と日付を手がかりに、学校の過去の学籍簿や地域の古い新聞記事のデジタルアーカイブを徹底的に洗い直した。


「ちーちゃん」は、本名を「白石千尋しらいしちひろ」といい、詩織とは小学校時代の同級生で、非常にピアノの才能に恵まれた少女だったこと。


そして、小学4年生の秋、コンクールを数週間後に控えたある日、交通事故に遭い、帰らぬ人となっていたことが判明した。


事故現場は、学校のすぐ近くだったという。


「…ちーちゃんは、私の、たった一人の親友だったの」


詩織は、震える声で、ぽつりぽつりと語り始めた。


それは、彼女が心の奥底に長年封印してきた、痛ましい記憶だった。


幼い頃、詩織と千尋はいつも一緒で、特に音楽の趣味が合った。


放課後、二人でこっそり第三音楽室に忍び込み、千尋がピアノを弾き、詩織がそれに合わせて歌うのが、何よりの楽しみだった。


千尋の夢は、いつか詩織と一緒にステージに立つこと。


あの日も、コンクールで弾く曲の練習を終えた千尋と、詩織は一緒に下校していた。


「私が…私が、道路に飛び出した猫を追いかけて…それに気づいた千尋が、私を庇って…」


詩織の言葉は嗚咽に変わった。


彼女の不注意が、親友の命を奪ってしまった――詩織は、そう強く思い込み、自分を責め続けてきたのだ。


以来、彼女にとってピアノの音も、音楽室も、そして楽しかったはずの千尋との思い出さえもが、耐え難い苦痛を伴うものに変わってしまっていた。


「夜中に聞こえるピアノの音…誰もいないはずなのに聞こえる歌声…」慧は静かに言った。


「それは、詩織ちゃんの心の奥底にある、もう一度ちーちゃんのピアノが聞きたい、一緒に歌いたいという強い願いや、ちーちゃんがまだどこかにいるんじゃないかという思い…そして、深い罪悪感が、長い年月をかけて生み出した幻だったのかもしれないね」


あるいは、当時の事故を知る人々が、千尋のことを忘れまいとする気持ちや、幼くして才能を絶たれた彼女への同情が、いつしか噂話となり、学校の怪談として形を変えて語り継がれてきたのかもしれない。


閉ざされた第三音楽室は、詩織にとって、そしてこの学校にとって、「封印された悲しい記憶の場所」そのものだったのだ。


「詩織ちゃん」慧の声は、優しく、そして力強かった。


「君は何も悪くない。事故は誰のせいでもない、ただただ悲しい出来事だったんだ。ちーちゃんも、君のことを責めたりなんか、決してしていないはずだよ。むしろ、君が今も自分のことをこんなに大切に覚えていてくれて、彼女のために涙を流してくれることを、きっと…喜んでくれていると思う」


慧の言葉は、まるで温かい光のように、詩織の凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。


「過去の出来事そのものを変えることはできない。でも、その出来事をどう受け止めて、これからどう生きていくかは、詩織ちゃん自身が決めることができるんだよ。ちーちゃんとの楽しかった思い出は、決して罪悪感と一緒に封印しなくちゃいけないものじゃない。大切な宝物として、心の中にそっとしまっておいて、時々取り出して眺めてあげればいいんだ。そうすれば、ちーちゃんも、きっと詩織ちゃんの心の中で、ずっと一緒に笑っていてくれるから」


翌日、慧は教頭先生に事情を話し、ミステリー研究会の部員たちと共に、特別に第三音楽室の鍵を開けてもらった。


埃っぽく、ひっそりと静まり返った音楽室。中央には、白い布がかけられたグランドピアノが、主を失ったまま静かに佇んでいた。


詩織は、仲間たちに無言で背中を押され、震える足でピアノへと歩み寄った。


そっと布をめくると、象牙色の鍵盤が現れる。


「弾いてみないか。ちーちゃんが、君と一緒に弾きたがっていた曲を」


慧の言葉に、詩織はこくりと頷いた。


震える指で、彼女は鍵盤に触れた。


そして、ゆっくりと、千尋が好きだった、あの楽譜に記されていた優しい旋律を奏で始めた。


最初は拙く、何度も音が途切れた。


しかし、弾き進めるうちに、指は次第に滑らかに動き出し、音楽室には、切なくも美しいメロディーが満ちていく。


詩織の頬を、止めどなく涙が伝い落ちた。


それは、悲しみの涙だけではなかった。長年抱え込んできた罪悪感からの解放、親友への追悼、そして、そばにいてくれる仲間たちへの感謝の気持ちが込められた、温かい涙だった。


一曲弾き終えた時、詩織は鍵盤に突っ伏し、声を上げて泣いた。


そして、嗚咽の合間に、絞り出すように言った。


「ちーちゃん…ありがとう…そして…さようなら…」


その涙は、過去からの旋律が奏でた、長い苦しみの終わりと、新しい始まりのファンファーレだった。


怪談は、もうそこにはなかった。


ただ、親友を偲ぶ優しいピアノの音が、いつまでも詩織の心に、そしてミステリー研究会の仲間たちの心に、温かく響き続けることだろう。



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