第十一話:閉ざされた音楽室の怪談
副部長・熊井権蔵の一件も無事に解決し、ミステリー研究会には束の間の平和が訪れていた。
秋も深まり、文化祭の熱気もすっかり落ち着いたある日の放課後。
「あーあ、何かこう、ゾクゾクするようなミステリー、起きないかなー!」
結衣が大きなあくびをしながら、部室のソファにだらしなく寝転がった。
「あら、桜木さん。そんなに刺激が欲しいなら、自分で謎でも作ってみたらどうかしら?」
麗華がいつものように冷静に返しつつも、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「そういえば、うちの学校にも古くから伝わる『七不思議』があるわよね。そのうちの一つくらい、私たちミステリー研究会が解明してみるのも面白いかもしれないわ」
麗華の言葉に、結衣がガバッと起き上がった。
「七不思議!いいですね、それ!どんなのがあるんですか!?」
「有名なのは、『午前零時の鏡合わせ』とか、『理科室の人体模型が動く』とかかしら。
でも、一番ミステリアスなのは、やっぱり…」麗華は少し声を潜めた。
「『開かずの第三音楽室と夜ごと聞こえるピアノの音』じゃないかしら」
その言葉が出た瞬間、部室の空気が変わった。
いや、正確には、橘詩織の雰囲気が一変したのだ。
彼女は手にしていた読みかけの本を落としそうになり、顔からサッと血の気が引いた。
その瞳はどこか一点を見つめたまま、微かに震えている。
「詩織先輩、どうしたんですか? 顔、真っ青ですよ?」
結衣が心配そうに声をかけると、詩織はハッとしたように我に返り、慌てて笑顔を作ろうとした。
「う、ううん、何でもないの! ちょっと、その…そういう話、苦手で…はは…」
しかし、その乾いた笑いは、明らかに何かを隠しているように見えた。
「よし!決まりね!ミステリー研究会、次のターゲットは『開かずの音楽室』よ!」
結衣は怖がりながらも、持ち前の好奇心が勝ったようだ。
麗華も「まずは情報の整理と、第三音楽室がなぜ『開かずの間』になっているのか、その経緯を調べる必要がありそうね」と、すでに分析モードに入っている。
「お、お化けとか…ピアノが勝手に鳴るとか、そういうのじゃないよな…?」クマさんは大きな体をさらに小さくして、不安げに呟いている。
航は既にノートパソコンを開き、学校の公式サイトや過去の資料データベースにアクセスし始めている。
「第三音楽室…確かに、ここ数年使用された記録がありませんね」
慧は、詩織の尋常ではない様子が気にかかっていた。彼女は、ただ怖い話が苦手というだけではなさそうだ。
しかし、同時に、その怪談そのものにも、彼の知的好奇心は静かに刺激されていた。
「確かに興味深いね。閉ざされた場所には、何かしら理由があるはずだ」
慧がそう言うと、詩織は一度ぎゅっと目を閉じ、そして何かを決意したように顔を上げた。
「…私も、行きます。その…真相を、確かめたいから」
ミステリー研究会の調査が始まった。
まずは、問題の第三音楽室の現状確認だ。
旧校舎の最も奥まった場所に位置するその部屋は、分厚い埃に覆われ、窓は固く閉ざされ、ドアには「使用禁止」の古い札がぶら下がっているだけだった。
鍵は教頭先生が管理しているという。
次に、学校の古い資料室で、過去の学校新聞や卒業アルバム、沿革史などを漁った。
教師たちや、古くから学校に出入りしている用務員、さらには近隣に住む卒業生にも聞き込みを行った。
集まってきた情報は、断片的で、時に矛盾し合っていた。
「昔、あの音楽室で、ピアノの天才と呼ばれた女の子がいたらしいよ。でも、コンクールを目前にして、突然…」
「夜中にね、誰もいないはずの音楽室から、悲しげなピアノのメロディーが聞こえてくるんだって。私も一度だけ、聞いたことがあるような…」
「あそこは呪われてるんだよ。だから誰も近づかないんだ」
様々な噂や憶測が飛び交い、謎は深まるばかりだった。
調査が進むにつれて、詩織の心の揺れは顕著になっていった。
音楽室に近づくだけで呼吸が浅くなり、ピアノの話題が出るたびに指先が冷たくなる。
時折、遠い目をして何かを思い出そうとしているかのような、あるいは、何か恐ろしい記憶の断片に襲われているかのような表情を見せた。
慧は、そんな詩織の様子を注意深く見守っていた。
彼女が単に怪談を怖がっているのではないこと、この「開かずの音楽室」が、彼女自身の心の奥深くにある何かと強く結びついていることを、彼は確信し始めていた。
「詩織、無理しなくていいんだよ。辛いなら、いつでも…」
「ううん、大丈夫…大丈夫だから…」
詩織はそう言って首を振るが、その声はか細く震えていた。
彼女は何かから必死に逃れようとしているようで、同時に、何かを確かめずにはいられないという強い衝動に駆られているようにも見えた。
数日後、聞き込みを続けていた慧と詩織は、長年この学校に勤めているという年配の用務員から、重要な情報を得た。
「第三音楽室かい? ああ、あそこはもう何年も使われとらんよ。昔は立派なピアノがあって、よう練習の音が聞こえとったがねぇ…。そういえば、あの部屋で使われとった古い楽譜の束なら、本館の地下にある倉庫の、奥の棚のどこかに仕舞ってあるかもしれんが…もうボロボロだろうな」
その言葉に、部員たちは色めき立った。
早速、埃っぽい地下倉庫の探索許可を得て、懐中電灯を頼りに、段ボールの山と格闘すること数時間。
ついに、奥の棚の隅から、古びた紙の束が詰め込まれた木箱を発見した。
箱を開けると、カビ臭い匂いと共に、変色し、端が欠けた楽譜が何冊も現れた。
その中の一冊、子供向けの歌曲集のような装丁の楽譜を、詩織が手に取った瞬間だった。
彼女は息を呑み、その場に立ち尽くした。その手はわなわなと震え、顔は蒼白になっている。
「この…この曲…まさか…あの子の…好きだった…」
詩織の口から、途切れ途切れにか細い声が漏れた。
その楽譜の表紙の隅には、幼い、少し拙い文字で、小さな花のイラストと共に、ある名前が記されていた。
そして、いくつかのページには、楽しげな音符の落書きや、短い日記のような言葉が、鉛筆で書き込まれていた。
それは、閉ざされた音楽室の怪談と、詩織の秘められた過去を繋ぐ、最初の鍵だった。