第一話:ミステリー研究会と最初の依頼
放課後の喧騒が遠ざかり始めた頃、旧校舎の一室、ミステリー研究会の部室は、相変わらずの空気に満たされていた。
「あーあ、今日も平和だねえ」
丸テーブルに突っ伏しながら、桜木結衣が気の抜けた声を出す。
手元のスナック菓子の袋はすでに空に近い。
「平和なのは良いことだが、ミステリー研究会としては些か刺激が足りないな」
部長の竜崎麗華は、分厚いハードカバーの推理小説から顔を上げずに言った。
トレードマークの眼鏡の奥の瞳は、活字の迷宮に没頭している。
副部長の熊井権蔵、通称クマさんは、そんな二人を微笑ましそうに見守りながら、慣れた手つきでインスタントコーヒーの準備をしていた。
その大きな体躯とは裏腹に、彼の淹れるコーヒーは部員たちから妙に好評だった。
「まあまあ、麗華ちゃん。事件なんてそうそう起こるもんじゃないって」
「そうですよ、部長。そんなに事件が好きなら、自分で起こしてみるとか?」
深町航が、ノートパソコンの画面から視線を移さずに、冷静にツッコミを入れる。
「航くん、それは物騒だよ!でも、確かに何か面白いことないかなー」
結衣が身を起こした、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音。
「どうぞー」と結衣が返事をするより早く、ドアが少しだけ開いた。
「あの…ミステリー研究会って、ここで合ってますか?」
不安げな声と共に顔を覗かせたのは、同じ二年生の橘詩織だった。
胸の前でぎゅっと握りしめられた両手が、彼女の緊張を物語っている。
「はい、そうですが…何か御用ですか?」
麗華が本を閉じ、きりりとした表情で詩織に向き直った。
詩織は一度ごくりと唾を飲み込むと、意を決したように口を開いた。
「実は…友達のことで、相談したいことがあって…!」
詩織に促され、クマさんが淹れたばかりのコーヒーを差し出すと、彼女は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう、ございます…」
一口飲んで落ち着いたのか、詩織はぽつりぽつりと事情を話し始めた。
「クラスメイトの…佐伯美緒ちゃんのことなんですけど」
「佐伯さん?」麗華が聞き返す。
「はい。彼女が…大切なものを盗まれたって、すごく落ち込んでて…」
「盗まれた!?」結衣が目を輝かせた。「詳しく聞かせて、詩織ちゃん!」
詩織は頷き、続けた。
「美緒がいつも大切に持っていた、万年筆なんです。昨日までは、確かにペンケースに入っていたって。でも、今日の昼休みになくなっていることに気づいたみたいで…」
「万年筆、ですか」麗華が腕を組む。
「何か特別なものなのでしょうか?」
「はい…美緒のおばあ様の形見なんだそうです。古いもので、たぶん、高く売れるようなものじゃないと思うんですけど…でも、美緒にとっては、おばあちゃんとの思い出が詰まった、かけがえのないものだって…」
詩織の声が少し震える。
友人を思う気持ちが伝わってきた。
その間、部室の隅の窓際で、ぼんやりと校庭を眺めていた相田慧は、ゆっくりと詩織の方へ視線を向けた。
彼はミステリー研究会のメンバーでありながら、普段はあまり積極的に発言するタイプではない。
だが、彼の言葉は時折、事件の思わぬ本質を突くことがあった。
「ふむ、教室での盗難となると、内部犯の可能性が高いな」
航が冷静に分析する。
「美緒ちゃん、かわいそう…絶対見つけてあげようよ!」
結衣が拳を握る。
「まずは佐伯さん本人から、もっと詳しい話を聞く必要がありそうね。それから、現場である教室の状況も確認しましょう」
麗華がテキパキと指示を出す。
詩織は、騒がしくも真剣に話を聞いてくれる部員たちを見て、少し安堵したようだった。
だが、ふと慧に目が留まる。
彼はじっと詩織を見つめていたが、何も言わずに、また窓の外へ視線を戻してしまった。
(何を考えてるんだろう、相田くん…)
詩織がそう思った瞬間、慧がぽつりと言った。
「その万年筆って、他の人から見ても価値があるものなのかな? それとも、佐伯さんにとってだけ、特別な意味があるもの?」
その問いは、犯人捜しに逸る部員たちの熱気を、わずかに冷ますような響きを持っていた。
詩織はハッとして答える。
「え…? あ、はい、さっきも言ったように、たぶん高価なものじゃなくて…美緒にとっては、思い出が…」
「そっか…」
慧は短く相槌を打つと、何か考え込むように指先で顎を撫でた。
彼のその静かな佇まいは、詩織の心に小さな波紋を広げた。
この人なら、もしかしたら…。
「よし、善は急げだ!佐伯さんのところへ行こう!」
麗華が立ち上がる。
「おー!」
と結衣が続く。
クマさんも心配そうに頷いている。
一同が部室を出ようとした、その時。
「盗まれたんじゃなくて…」
慧が、独り言のように呟いた。
「別の理由でなくなった可能性もあるのかな…例えば、誰かが一時的に借りたつもりで、返しそびれているとか。あるいは…もっと別の、思いもよらない理由で」
その言葉に、詩織は足を止めた。慧の視線は、窓の外の、誰もいないグラウンドの一点に向けられていた。
彼の横顔は、何か遠いものを見ているようだった。
「別の、理由…?」
詩織の胸に、慧の言葉が重く響いた。
ただの盗難事件ではないのかもしれない。
そんな予感が、彼女の心をざわつかせ始めていた。