表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

75/81

馬影の先

 かつて孔子は、隠者に訊ねられた。

 ――なぜこの虚しい現世でもがき続けるのか。


 孔子は、それに答えた。

 ――わたしは、鳥や獣ではない。人間なのだ。この人間の世界で正義を果たすしかない。


 わたしは、孔子のこのような態度が好きだ。何かを悟るわけでもなく、言い訳するのでもない。たとえ虚しくとも、人間としての大義を果たすのが、孔子の意見なのだ。


 わたし達は、少し先の夜空を眺めた。長安の狭い道は、蟻の巣穴のように広がっていた。建物から垂れ下がった幟旗が、燃え上がる炎の影となり、喧騒の中に浮かんだ。盲人の男は、行場を求めて彷徨った。


 わたしには、もはや言うべきことがなかった。あるいは、始めからなかったのだ。わたしは、自然と決心がついて言った。


 「わたし達は、ここまでなのだな」


 「そうなのだろう」 と男は言った。


 呂氏は、ややあってから言葉を継いだ。


 「お前は、わたしと伴に来るつもりはないのか」


 「そのつもりはない」 とわたしは答えた。


 わたし達の会話は、それきりだった。


 よく晴れた夜だった。煙の幕の奥で、北極星が小さく輝いていた。北の宮城付近で、人びとの熱狂する声が響いた。


 「皇帝陛下万歳! 皇帝陛下万歳!」


 人びとは何度も叫んだ。騒乱を知った皇帝が、自らその姿を見せたというのだろうか。人びとは、「万歳」 を繰り返した。


 呂氏は、朗らかな歯並びを見せて、動揺を隠した。


 宮城の前には、首を並べた小鳥のように、人びとが平伏していたのだ。象牙の櫛や乱れ髪が、鉄兜と一緒に並び、溢れていた。刀を投げる音が、方々で響いた。わたしは、呂氏を見た。呂氏は、もはや何でもなさそうに風の中に揺られていた。


 わたし達の前に、夜闇からいくつかの騎馬が、ばったり姿を見せた。呂氏の表情がなくなると、そのうちの一馬に足をかけた。呂氏は、跨がる途中で、身体の均衡を失い、わたし肩に手をついた。


 呂氏は、苦笑いをして言った。


 「それでは、行くことにしよう」


 「みっともない奴だ」 とわたしは言って、男の手の甲に口唇を合わせた。

 「良いか、死んではならない。どんなにみっともなくとも生きるのだ」


 男は黙って肯首した。


 騎馬たちは、大門を抜けて行った。わたしは気が付くと、馬影が地平の先に尽きても、景色を眺めていた。


 「皇帝陛下万歳! 皇帝陛下万歳!」


 人びとが叫ぶ声が、背後から聴こえた。東の空が少しずつ白み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ