馬影の先
かつて孔子は、隠者に訊ねられた。
――なぜこの虚しい現世でもがき続けるのか。
孔子は、それに答えた。
――わたしは、鳥や獣ではない。人間なのだ。この人間の世界で正義を果たすしかない。
わたしは、孔子のこのような態度が好きだ。何かを悟るわけでもなく、言い訳するのでもない。たとえ虚しくとも、人間としての大義を果たすのが、孔子の意見なのだ。
わたし達は、少し先の夜空を眺めた。長安の狭い道は、蟻の巣穴のように広がっていた。建物から垂れ下がった幟旗が、燃え上がる炎の影となり、喧騒の中に浮かんだ。盲人の男は、行場を求めて彷徨った。
わたしには、もはや言うべきことがなかった。あるいは、始めからなかったのだ。わたしは、自然と決心がついて言った。
「わたし達は、ここまでなのだな」
「そうなのだろう」 と男は言った。
呂氏は、ややあってから言葉を継いだ。
「お前は、わたしと伴に来るつもりはないのか」
「そのつもりはない」 とわたしは答えた。
わたし達の会話は、それきりだった。
よく晴れた夜だった。煙の幕の奥で、北極星が小さく輝いていた。北の宮城付近で、人びとの熱狂する声が響いた。
「皇帝陛下万歳! 皇帝陛下万歳!」
人びとは何度も叫んだ。騒乱を知った皇帝が、自らその姿を見せたというのだろうか。人びとは、「万歳」 を繰り返した。
呂氏は、朗らかな歯並びを見せて、動揺を隠した。
宮城の前には、首を並べた小鳥のように、人びとが平伏していたのだ。象牙の櫛や乱れ髪が、鉄兜と一緒に並び、溢れていた。刀を投げる音が、方々で響いた。わたしは、呂氏を見た。呂氏は、もはや何でもなさそうに風の中に揺られていた。
わたし達の前に、夜闇からいくつかの騎馬が、ばったり姿を見せた。呂氏の表情がなくなると、そのうちの一馬に足をかけた。呂氏は、跨がる途中で、身体の均衡を失い、わたし肩に手をついた。
呂氏は、苦笑いをして言った。
「それでは、行くことにしよう」
「みっともない奴だ」 とわたしは言って、男の手の甲に口唇を合わせた。
「良いか、死んではならない。どんなにみっともなくとも生きるのだ」
男は黙って肯首した。
騎馬たちは、大門を抜けて行った。わたしは気が付くと、馬影が地平の先に尽きても、景色を眺めていた。
「皇帝陛下万歳! 皇帝陛下万歳!」
人びとが叫ぶ声が、背後から聴こえた。東の空が少しずつ白み始めていた。




