雪の降る日に
戦乱の中での恋の末路は、わけなくどんなにでも悲惨にすることができる。世間では、悲劇の方がもてはやされているようであり、当代の人びとの不安を見て取られる。
わたしは張元の堕落して行く道筋と、その感情を考えていた。科挙に落第し、都で一人恋人と離れて孤独に勉学を重ねる日々は、青年の心をどのように変化させるだろうか。崔氏の娘は、肉欲をなくしても、張元を思い続けられるのだろうか。あるいは、女の方が一度身を委ねてしまうと、相手に執着するものなのだ。
わたしのような二流の作者であっても、人の情を描き、政治を諷喩することは忘れない。性愛とは、人間が身も心も一つになるための行為であるとすれば、人心を裂き、対立させるのが政治である。儒家文学の士は、これを認めないだろうが、わたしは"曲学阿世の徒"と罵られようと考えを捨てることはできない。
わたしは長安城内の、戦乱を通じて破壊された文化と景観を描写したいために、時勢を当代のまま動かさなかった。伝奇小説では、物語の筋の無理を隠すために、古代を舞台として選ぶことは多いが、あまり感心できる態度とは言えない。
これまで折々の散策に、危険を承知で青年たちの出入りする陋巷の情況を調べてきたつもりだったのだが、筆を執ると、いつでも観察の足りないような気がしてくる。天候や季節、何より作者の気分によって景観の見え方は異なるものだ。今日は月に一度はある、ひどく憂鬱にとらわれる日だった。
冬の日らしい重く冷たい灰雲が立ち込めていた。昨日の晴天は追い払われ、昼間から肌の奥に染みるような寒さが大気を得た。
わたしは体躯を隠すほどに厚着をして、どこへなりとも足の向く方角へ行って見るつもりだった。
北辺の大路に出かかると、目の前を荷車が通り抜けた。大路には、何両もの荷車が行き交っていたが、歩く人は年末に相応しくないほどに少なかった。これほど寒い日に外を出歩くのは、大工や商人、貧家の子どもたち、あるいはわたしの様な無頼の徒だけだろう。
路面の家々は同じように引き籠もっていて、色調が低いので、どの家も見分けのつかない感じがした。『傾城の恋』の男主人公である張元が、都で一人きりの苦学に励むには、似付かわしい景色だった。
北西に一区劃入ると、馴染みの茶屋がある。敷地には、小さいが六朝ふうの風流な庭が設けられていて、主人の優れた趣味が横溢している。枯柳が自らの絲の重さに耐えかねて低くしなっているさまや、道脇に愛らしい白い花の咲いたのが、ついわたしの足を止めさせた。
主人は、わたしの出自や仕事を知っても、態度を変えることはなかった。近頃の男性とは違って、変に凝り固まった思想を持ってなどいないのだ。
主人は、わたしの顔色を見て、何も言わずとも温めた濁り酒を出してくれた。実に聖君子というべき振舞いである。わたしは豚足の煮たのを食べながら、昔日の文雅に想いを馳せた。六朝時代の貴族たちは、戦乱の世の中にあっても優美な心映えを失うことはなかった。むしろ、不安定で混乱した世界だからこそ、文化を絶やさなかったのだ。
冬の昼間は、すぐに足許を暗くする。向かいの家の室内には、明かりが灯されて、青年の墨を擦る音さえ聴こえて来そうだ。
都が静けさに包まれる中に、遠くの方で、「降って来るよ」 という声した。彼の言葉通り、間もなく空から大きく厚い雪が落ちてきた。手に乗せても、その雪はすぐ融けてなくならなかった。