遊里の沿革
呂氏が仮宅とする妓楼が、春心楼と呼ばれる北里の名家であることは、明らかにしたと思う。
この区劃の周囲には、地方官のつめる役所があって、彼らにとっての垂涎の的であることは言うまでもない。
わたしは女であるし、遊里についての知識は、必ずしも十分ではない。それでも、かつての友人から聞いた話や、手元にある随筆の記載を基に、このような盛り場の沿革を遺しておこう。
中華における妓女の発生は、わたしの知るかぎり孟子の活躍した時代にまで遡ることができる。記録を確認できるというだけで、実際には、もっと古い時代から形として存在していたはずだ。
戦乱の時代では、女は勝者の略奪品である。名家の女ほど高く売られ、にわかに景気づいた男たちに買われて言った。彼女たちは官妓として、戸籍上は奴隷の身分で記録された。
また、戦乱が生じれば、遠征のために街道が整備され、商人の往来も自然と多くなる。各地の都市では、富貴な人びとを接待するための遊廓が造られて行った。以後、貧しい農家の女児は、凶作の年によく身売りされるようになった。一年の食を繋ぐために、彼女の一生は運命の泥沼へと放り込まれる。一家ごと飢えて滅ぶよりも良い、と考えることもできるだろうか。一家の心中は、容易には想像できない。
国がこのような妓楼の運営を公認したのは、唐朝がその初めであると記憶する。北里には、三つの格式の妓楼があるけれども、いずれもが教坊や州府の管轄に置かれている。もっとも、妓楼の間には、特別に繋がりはなく、制度上等しく認可されているに過ぎない。
最上の格式である南曲の遊女には、歌舞音曲や学問についての教育が施される。客を奪い合う競争は、時代を経るごとに激しくなり、あまりに激しい折檻から精神を病み、自死を選ぶ者が、毎年十人はいる。
開元や天宝の時代には、優れた文人たちが遊廓に集い、華やかな文化を演出していたが、このような幻にのみ魅入られる人びとは、実に浅慮と言わざるを得ない。遊女は、暗い現実を客にあえて見せようとはしない。一方で、彼女たちが安易な同情を得ることを喜びとはしないだろう。
わたしは以前の駄文の中に、遊里を恐れもせず、醜いともせず、人として親しみを覚えることを記したが、わたしの世間に対する評価というのも、およそこのようなものだ。仁義道徳を振りかざして、他者を断じられるほど、人間を立派なものとは思えない。人間は取り分け美しくもなければ、醜くもない。ただ事実を傍観することが、わたしの選ぶ、あるいは運命に選ばされた態度なのだと思う。