古書店の馬氏
古本屋の店は、市場の南方、延興門に続く大通の辺りから少し外れた場所にある。
諸国から出世を目指してやって来た学生たちが住まう家々の付近である。向かいの居酒屋は、西域の葡萄酒を出すので、日々青年たちの清談の場となっている。賊軍が長安を攻めてから衰退したが、最近は少しずつ戦乱以前の賑わいを取り戻しつつあった。
わたしは見世棚に並べてある古書は、ほとんど知っている。科挙では作文の試験が課されるから、一種の文例集が多い。史書も典籍も学生たちにとっては、その類いなのだ。
古本屋の店主は、馬氏という高齢の女性である。良人が愛国の士として東方で命を落としてからは、彼女が一人で店を切り盛りしている。その顔立ち、物腰、言葉遣いから着物の崩し様に至るまで、一世代前の大唐帝国の風俗がそのままに残されているのが、わたしの眼には稀覯本よりも、ずっと尊く有難く見える。彼女は近頃流行りの吐蕃ふうの赤黒い口紅などを決して付けたりはしない。
わたしが店先を覗くとき、馬氏は必ず店の奥で姿勢よく座って何かを読んでいる。視力が悪いので、記憶を頼りに字句をなぞるのだという。
わたしの気配を感じると、首だけをこちらに向けて挨拶をする。言葉や様子は型通りで変化はない。
わたしも例にならって見世棚に並ぶ品物を眺めるだけして、老女に目配せをした。
馬氏は店の奥から表紙と内容の異なる本を取り出して、馴染みの客に案内をしはじめた。
「相変わらず珍しいものは手に入っておりません。隋末の道家の本に、性愛の術を説いたものがあります。全巻揃ってはおりませんが」
すでにわたしは写本として持っていた。あれこれ探している作品の題名を挙げてみたけれども、そのうちの一つを先日若い男に売ってしまったと聞かされた。
詩仙と呼ばれた李白の名前を借りて書かれた艶色小説なのだが、仮託先の人物に負けない教養の持ち主が著したのは、文面から明らかだった。友人の李顓蒙の蔵書で一節を読んでから、是非とも手にしたいと考えていたものの、天運はわたしになかったらしい。わたしは言った。
「どうも最近は幸運に恵まれない。何をしても行き詰まりばかりだ」
馬氏はこれに答えた。
「易では、"否"の次には"同人"が来ると申します。物事は塞がってばかりではないので、諸人に等しく機会があるというのです。貴殿の運命も間もなく開かれるでしょう」
わたしは、ふむ、とだけ応じて、店を出た。敢えて女であるのを言うこともないと考えていた。訂正したところで、馬氏との関係が何か変わることもない。
店を出ると、目の前の居酒屋で二人の兵士が仕事を怠けて酒を飲んでいた。最近はこの近くでよく兵士を見かける気がした。