襖絵の世界
部屋を仕切る襖には、わたしの筆写した『玉台新詠集』の紙片や、漁父を描いた山水画、街を往く高貴な女性の姿を写した美人画などが、張り交ぜにしてあった。風雅なものには財を惜しまない男の贅沢な精神が現れている。
隋唐の絵画には、自然の気を巧みに表現したものが多い。市中に出回っているような、さほど高価でもない絵にすら、時代の特徴が見て取れる。
切り立つ山間の表現は、西方の丘陵地の朝に河辺に出て見れば、誰にでもその写意性が理解されるはずだ。
美人画については、戦乱以前の大唐帝国の栄華が如実に表れている。女たちは、色が白く丸みを帯びており、いかにも裕福だ。男装をする者が紛れているのが、当時の風俗を覗わせる。
わたしはこれらの絵画世界に、斜めならない郷愁を感じる。あるべき中華の秩序が存在すると確信させる。徳という名の繁栄と寛容で、異邦の民をなびかせ、わたし達の文明は世界に光輝いていた。
わたしは退屈になると、襖につい魅せられていた。炭櫃に温められながら見れば、深く興を催し、蒲団の中からぼんやり仰げば、心を夢の先へと連れて行く。
わたし達は、互いの身分を言わず語らずとも、何か大切な価値観のようなものを共有していた。男の態度は、僅かな時間で打ち解けたものとなり、わたしを特別な客人として扱うようになった。
――親しき友にも礼儀あり、とは上手く言ったものだ。男の友情というのは、気の置けない関係を指すことが多い。それだけに些細な感情の行き違いから、破綻することがある。
しかし、呂氏に限っては、例外のようだ。既に知った女であっても、親切と気遣いを忘れない。生来の優れた性格とも言えるし、随分と手馴れた習慣とも言える。どちらとも判じ兼ねるが、わたしにとってはどちらでも良い。自らに一定の心をかけてくれさえすれば、一人の人間としてはおよそ満足だった。
「この漁父は、じつに恨めしい奴だ」 と呂氏は言った。
「わたしの次に、貴女の肢体をよく見て知っているのだろう。大切な友人が取られてしまわないか、わたしは心配でならないのだ」
なかなか上手いことを、恥ずかしげもなく言うのが、呂氏という男なのだ。