猟犬と判断
本にかざした瞬間。箱はじわり、じわりと形を変えていく。その光景を見た結衣も思いついたように本に箱をかざす。祈りに答えた箱は要するものの形を取り始めた。少年の箱は大ぶりのサバイバルナイフに、結衣の箱は大きな投網に。
「なるほど…。つかまえろってか。」
「確かに!捕まえてしまえば追ってこれません!」
「行くよ!君!」
目で了承の意を示す。あと少しで完全な形が現れそうな、その“なにか”の一点を狙ってナイフを精一杯の力を込めて目のような場所に振り下ろす。
その瞬間、化け物の咆哮が響き渡った。その音は決してオオカミの遠吠えのようなものではない。この世のものとは決して思えない、聞いただけで精神が蝕まれそうな。少なくとも決して人間では発音できないのは間違いない。例えるならば…この世の不浄をすべて圧縮したような呪詛だった。
しかし、少年のナイフの一撃はこの“なにか”にたしかにダメージを与えたようだ。その一瞬ひるんだすきを逃さずに結衣は投網を投げる。適当に投げたはずなのに網はきれいに広がり、“なにか”に覆いかぶさる。“なにか”は絡まり身動きが取れていない。
「いまです!逃げましょう!」
「もっちろん脱兎のごとく撤退だよ!!」
三人は本を握りしめ祈る。『登校』を。
「はぁ…はぁ…はぁ…死ぬかと思いました。」
「うん…わたしも…今回ばかりはもうだめかと…」
「でも、早く校長先生に伝えなきゃ…!!」
少し、息を整えてまたすぐに走り出す。今度は校長室まで全速力で。
「失礼します!!」
丁寧なノックをすっ飛ばしてドアを強引に開けて入る。
「おやおやおや?どうしたんですかいきなり。これまたそんなに慌てて」
「報告します!校長先生!なにか角から突然煙とともに現れる巨大な犬のような…そんな怪異に遭遇しましたっ…!」
「ほう…?」
「その上、その怪異は『鏡の国のアリス』の鏡の中の世界にまで入り込んできたよ~」
「なるほど…事情は分かりました。ちょっと君。そのナイフを見せてくれますか?」
僕を指さして校長は言った。もちろん差し出す。
「これは箱を変質させたものですか?」
「そですね。私のは投網に、この子のはナイフになった感じで~す」
「なるほど。この青い液体は君たちがあったという怪異のものですね?」
「はい。その液体を垂らしながらこちらへ向かってきました」
「あぁそういえば校長せんせ~。」
「どうしたんですか?」
「私の箱は投網にしちゃって投げちゃったんですけど大丈夫ですかね~?」
「あぁはい。たくさんあるので構いません。」
「よかたぁ~」
「とりあえず怪異のことはわかりました。次いで、ことの顛末を教えていただけますか?どこでどうやってその怪異に出会ったのかを」
ありすがメインで話しながら二人がそれに補足をつけつつ一連の流れを話す。
「なるほど、よくわかりました。そのうえでお聞きしますが、私は怪異に出会ったら逃げろと忠告したにもかかわらず戦った理由を教えていただけますか?」
校長の口調から今までには感じなかった、言葉の圧のようなものを感じる。ほかの二人も感じているのだろう。部屋の緊張感が一気に高まる。誰も、逃げられないような。蛇に睨まれた蛙ような…
「恐れながら申し上げます。」
ありすが今までにないくらいに緊張した口調で話し出す。
「私たちが遭遇した怪異は怪異の視界から外れた場所に逃げても、挙句の果てには私の鏡の中の世界にまでも追跡してきました。そのすべては“角”に相当する場所から出現してきたのです。おそらくあの怪異は“角”があればどこにでも私たちを追って出現できるのだと考えます…。よって避難している人が多いここにあの怪異を解き放つのは危険と判断したため鏡の世界で拘束し、撤退してきたためです。」
「なるほどよくわかりました。非常に合理的で衝動的ではない行動です。その適切な判断力は素晴らしいですね。私はあなた方を今高く評価しています。よろしければあなた方にはもう少し調査に協力してもらいたいのですがよろしいですか?」
部屋の空気が柔らかくなる。心なしか照明も明るくなったようだ。
「どうする?ありす。」
「私は…もしあれがこの場に来たら大変ですし外に行く方がいいかなって思います。」
「ん。私も同意見。君は?また一緒に行く?」
少年はもちろんとばかりにうなずく。あの怪異は恐ろしいが、なによりたのしかったのだ。二人と一緒に歩いて話すことが。
「では…そうですね。またあれに会うことがあった時のために、こちらをお渡ししておきましょう。」
渡されたのは粉のようなものが入った小瓶だった。
「これは?なんですかね…」
「それは『ヘルメス・トリスメギストスの毒塵』と呼ばれるものです。私たちのような人間には何の効果もないただの粉にすぎませんが、異界の者に対しては恐ろしいほどの効果を発揮します。あとこれも。」
結衣と少年に一つずつ小箱が渡される。
「お二人とも箱を使ってしまいましたから。こちらはまた有意義に使ってくださいね。」
「わかりました!」
「では…行ってらっしゃい。」
校長に見送られ校長室から出る。が、
「すいませんお二人さん…ちょっと休んでから行きませんか…?」
「あぁ…そうだねぇ…超疲れた…」
少年も今まで恐怖と緊張感で忘れてきた疲労に一気に襲われる。実際、後から考えれば見たこともない恐ろしい“なにか”に真正面からナイフを突き立てるなど意味不明な奇行でしかない。こうして三人は何とか階段を上りいつもの教室へ。そして布団など探す気力もなく机に突っ伏すなり、床に寝そべるなり、いすを並べるなりして泥のように眠り始める。
ひと時の休息は、また新たな冒険への準備でもあるのだから。