深き底から這い寄る者たち
「見た目よりこんなに遠いなんて聞いてないよ…」
「いやまぁ…ふつうこんなもんじゃない?」
「でかいものは近く見える」の典型例のようなものを真正面から食らった気分だ。正直多少の覚悟はしていたのだがこんなに遠いなんて思わなかった。軽く10分はかかっただろう。だが、ここには昔城があったらしく、話すことには困らないのはありがたいことだった。
その上、豊かな植生と目の前に見える広大な湖の絵は、何物にも代えがたい爽快感というものがある。まったく時間も気温も天候も変わらなくなってしまったが、それでも気分はこういうのを見るだけですっきりするというものだ。何もなくともここに来た価値はあるかもしれない。
だが、いやな予感というか第六感というものはやはり実在するのかもしれない。突然ミストのような冷たい風が少年たちの間を吹き抜ける。ありえない。風は気温差からくる気圧差が原因の自然現象だ。緩い空気の動きならまだしも、吹き抜けるような風ができるはずがない。どこも温度が全く変わらないのにこんな風が起こる方がおかしいのだ。
突然あたりが薄い霧に包まれる。ちょうどありすの『鏡の国のアリス』の発動寸前に近いような…
その瞬間、目の前の湖の水面が波立つ。水中から何かはい出てくるような。人影が見える。
「なんだ…人か…。人か!?」
「まさか!?ありえません!ここまで生存者には出会いませんでした!!」
とすれば“アレ”は人ではない可能性が高い。であれば。
「やっちゃっていいのかな。」
逡巡していると1体、2体とその人型は増えていく。
「いやいやいや、いいのかなじゃないわ。やらんと死にそうだ。」
そんなことをしているうちに1体目の姿ははっきりしてくる。
それは、半魚人というべきものだった。全身を鱗に覆われ表面は魚特有のぬらぬらした感じの反射をしている。手には水かきが付き、爪は鋭利に伸びている。はっきり言って気持ち悪い。その上ちゃんと地上でも呼吸はできているようだ。苦しんでいるそぶりはない。
「あれはなんというか…少なくとも敵だよね。うん」
仕方なさそうに結衣は本と朝食でつかったテーブルかけを取り出し…
『「北風さん。テーブルかけは返すから、粉を返してよ」北風は言いました。「困ったな。では杖をやろう。」』
本は光り、結衣のテーブルかけは杖になる。
「杖よ杖!悪い奴をぶん殴れ!」
続いて少年も本に小さな箱をかざせば日本刀が現れた。ちゃんとした鞘に納められた日本刀だ。校長の言う通りきっとその時必要なものに変わっているんだろう。その時、少年が必要である長さや種類に変わる。
杖が戦っている奴の次のやつに体育で習った剣道の面を取る形で力を精いっぱい込めて振り下ろす。
しかし、半魚人は鋭い爪で少年の刀をいなし、そのまま反対の爪で切り裂くために腕を振り下ろしてくる。蜘蛛の突進よりいささか遅い攻撃とはいえ体勢を崩した状態からではよけることはできない。焦って近くの岩の後ろに飛び込む。次の瞬間、岩の表面には爪痕が残っていた。あれに直撃すれば深手は免れなかっただろう。自殺まがいの攻撃をしたことを思い出し、背筋が凍るが立ち止まっていればどのみち死ぬ。決死の覚悟で、もう一度対面を開始した。
この状況を俯瞰していた、ありすの表情は酷く暗い。二人が全力で戦っている相手は今の少しの時間の間にどんどん数が増えてこようとしているのだ。自身の不確定要素を使ってもいいのか。だが隙さえ作れば二人は本で逃げることもできる。
「決めた。やります。」
決断は一瞬だった。本を開けば自然と口は動く。
『ふねを おうちへ むける にぎやかな いちどう うしろで おひさま しずんでいくよ アリス! おとぎばなしを どうぞ それから やさしい おててで そなえてほしい おもいでという ひみつの いとで ぬいこまれた こどものときの ゆめに いまはもう しおれてしまった はるかとおくで つんだ はなわに』
ありすが読み終われば、本は『死神の名付け親』や『鏡の国のアリス』、『北風のくれたテーブルかけ』の本をはるかに上回る光を放つ。戦っている結衣や少年。半魚人すらも目をつむってしまうような強い光を。




