追われる男
僕は券売機にお金を入れる。落ち着け、落ち着け、と自分自身に言い聞かす。少しでも気を抜けば指が震えてお金を落としそうになる。
今一瞬、隣で切符を買うサラリーマンが僕を見た気がした。
(こいつがそうなのか?……)
しかし確証はない。もしかしたらこちらを動揺させようとブラフをかけてきただけかもしれない。本丸はその後ろのイヤホンをした学生風の男か? 音楽を聴いているようでその実、誰かの指示に従っているのか? いや、そんなこと言いだしたら僕の後ろのおばさんだって怪しいじゃないか。どうしてさっきからスマフォから目を離さないんだ? それこそ指示待ち、いつでも僕に飛びつけるように身構えているのか?
切符とお釣りを乱暴につかむと僕は列から抜け出した。心臓は痛いほど高鳴っていた。改札を抜け、人に肩をぶつけながら先を急いだ。ぶつけた際に何かを言われた気がしたが、そんなものを気にする余裕はなかった。
しかしプラットフォームで電車を待ちながらしまったと思った。もしかしたら僕とぶつかった拍子に思わずやつらの重要な情報を吐いていたかもしれない。やつらの罵詈雑言の中にヒントが隠されていたかもしれない。やつらが思わず尻尾を出したかもしれない。そう考えると僕は悔しさがこみあげてきた。やつらの裏をかける機会をみすみす逃してしまったかもしれないからだ。
後ろから体を押された。油断した! こいつか! 僕は体をこわばらせ次の展開を待ったが、何も起きない。ふと顔をあげると、電車は扉を開けて待っていた。なんてことはない、後ろに並んだ乗客から急かされていただけだ。
運よく車両の角は空いていた。袋小路、背水の陣、だが背後を取られる心配はない。臨戦態勢の僕は吊革につかまり周りをよく観察した。だが気負ってばかりでも駄目だ。やつらに無駄な警戒心を抱かせるだけだからだ。あくまでも自然に、それとなく、お前らにはなんの興味もないですよ、たまたま視界に入っただけですよ、窓の外を流れる喧噪だろうと電車の中のあなたたちだろうと変わりはないんですよ、たまたま目に入っただけ、あくまでも暇つぶしの道具です、そんな感じだ。
上手くいっている、と僕は思った。その証拠に誰も僕に注目しない。それもそうだ、これだけ演じれば誰だって騙されるだろう。案外僕は詐欺師に向いているのかもしれない。誰かを騙しお金を奪い取る、それはなかなか楽しい瞬間ではなかろうか。
ほくそ笑んで高らかに宣言したい気分だった。僕は詐欺師なんだと。お前らは僕の正体すら見抜けないボンクラ揃いで、僕のいいようにやられているんだと。
だがそんな高揚感も、シルバーシートに座る白髪のジジイにぶち壊された。
「凄い汗ですよ。気分が悪いのなら座りなさい」
そう言ってジジイが腰を上げようとしたので、僕は自分でも訳のわからぬ言い訳を並べたてた。
相手が呆気にとられている隙に隣の車両に移動したが、これはすぐに失敗だったと悟った。観察もままならないまま人ごみに投げ込まれる。これほどアウェイな状況があるだろうか。
しかしなってしまったのだから仕方がない。打開するほかに道はない。僕は無理やり乗客の中に体をねじ込み少なくとも背後は取られないよう扉の前を陣取った。来るなら来い、俺を捕まえてみろ。
今更だが交通手段として電車選んだのはまずかった。走り出したが最後、出口のない密室だということももちろんだが、駅中に仕掛けられた監視カメラが問題だった。僕がどこから乗りどこへ向かうのかやつらからは丸見えではないか。時間をかけてでも徒歩で移動すべきだったのだ。
僕は自分の頭の足らなさを呪ったが、呪ったところで何にもならない。
両の足を踏ん張って乗客をにらみつけた。つり革につかまりたかったが、ここからでは手が届かない。あらゆる事態を想定しろ。この車両全員が自分を捕まえに来たって煙に巻く算段を立てろ。
僕は足らないなりに足らない頭をフルで働かせ、電車という名の密室から抜け出す方法を考えた。つり革には手が届かなくたって非常ボタンになら指は届く。何かあれば非常ボタンを押して電車を止め、混乱に乗じて逃げ出せばいい。
それにしても、どいつもこいつも世間に興味がないですよって面してやがる。こいつはとんだ演技派どもだ。そうやって僕を油断させて捕まえる気だ。だがその手には乗らない。そうやって失敗してきた人間を僕は何人も知っている。二の轍を踏んでたまるか。
ふと気がつくと、これだけ混んでいるのというのに僕の周りだけ空間ができていた。はて、これはどういうことだろうか。もしや、僕に飛び掛かる準備か。飛び掛かって抑え込むにはスペースがいる。これは不味いことになった。こうなったら最終手段だ。非常ボタンに手を伸ばそうとしたとき、いきなり後ろから風が吹き込んできた。
しめた、と僕は思った。運よく次の駅についたのだ。
僕は勢いよく飛び出すと改札に向けて走った。すれ違う乗客はみんな僕に奇異な目を向けてくる。いや、監視の目か? どちらかは分からないがどちらでも同じことだった。見られているということ自体が僕にとってマイナスなのだ。人の記憶に残らない生活を心がけなければならない。そうしなければあっという間に捕まってしまう。しかし今はそんなことに構っていられなかった。一秒でも早く駅から出なければ。
改札の前には行列が出来ていた。どいつもこいつもどん臭く、なかなか列が進まない。僕は大きく舌打ちをした。許されるのならば目の前全員を殴り倒したいとこだが、そんなことをしたって奴らに僕を捕らえる絶好の機会を与えるだけだ。
駅から出ると僕は路地裏に逃げ込んだ。ゴミ箱の後ろにうずくまり、人込みから隠れる。息が弾んで仕方がない。汗も凄い量だ。
どれくらいそうしていただろう。やっとのことで立ち上がることが出来た頃には肌寒さを感じた。汗が乾き始めたのだ。
とりあえず、と僕は深呼吸をした。いったんではあるがやつらを巻くことができた。僕にかかればこんなもんだ。切符代を無駄にしてしまったが仕方がない。些細なことだ。些細な損を惜しんで身柄を抑えられるよりはよっぽどいい。
行けるか、と僕は僕に問いかけた。行ける、と僕は答えた。
薄暗い閉じ裏から抜け出し日の光の下に出た。通りの人は少ない。これならやつらの心配はないだろう。そう油断したのつかの間。髪を明るく染めた集団が前からやってくるではないか。狭い歩道をふさいで歩く姿は、お前の逃げ道はなどこにもないと言っているかのようだ。
三流が、と僕は小さく吐き捨てた。数なら数の使い方があるのだ。それがああも見え透いていては何にもならない。僕は近くのコンビニに飛び込んで奴らを待った。適当な雑誌をめくるふりをしてガラスの外を注視する。楽器ケースを抱えた若い男たちが僕の視線も気づかずに過ぎていった。
バカどもで助かった。僕は何も買わずにコンビニを出ると左右を見回した。大丈夫、街に異変はない。
さて帰ろうかと足を踏み出しところで思いのほか自分が疲れていることに気が付いた。ここまで気を張り詰めてきたせいもあるだろう。この疲れが肉体的にくるのか精神的にくるのか僕にはわからなかった。
財布の中身は確認するまでもなかった。さきほど日雇いで貰った五千円札と、小銭が少しだ。やっとのことで手に入れた雀の涙ほどの金を散財するわけにはいかなかったが背に腹は代えられない。僕はタクシーを拾うことにした。
念のために二台のタクシーをやり過ごし、三台目のタクシーを止めた。
運転手に行き先を告げ、疲れ切った体をシートにあずけた。これで一安心だ。気を抜くとこのまま意識が遠のいてしまいそうで、普段はうざったいだけの運転手の無駄話も今だけは有難かった。スポーツなんてこれっぽっちも興味ないし、誰々の選手がどこのリーグで活躍しようと僕にはなんの関係もないが、それでも眠りを忘れられるだけで十分だった。
僕は生返事をしながら明るい日差しに照らされた街並みを眺めていた。平和そのものだ。こんな街の中にやつらがいるとは考えられないが、やつらは確実に人込みに溶け込み僕を監視している。腹をすかせた野良犬の目で僕を見つめている。満ち足りることを知らぬその舌は不気味に垂れ下がり、黄色い歯が僕の肉を食いちぎりろうと期待の涎で輝いている。
やつらの狡猾さを舐めてはいけない。矯正しようのない鼻持ちならない品性は、ひたすら相手を陥れようと企んでいる。僕の罪、僕の過ちを、やつらは決して見逃さない。些細なことまであげつのり、僕を決して許そうとしない。
信号が赤に変わり、タクシーが止まった。数人の歩行者がスマフォから目をそらさずにタクシーの前を通り過ぎていく。まるで目の前の板だけが世界の全てだと言いたそうだ。
文字だけの偽りの平和なんてまっぴらごめんだ。そんな目くらましの裏でやつらは確実にこちらの生殺与奪を握ろうとあの手この手を使ってくる。時には脅し、時には宥め、甘言を弄し、人の欲につけ込み、嘘に詭弁に見栄に願望、時には物理で。だが僕はそんなものには屈しない。狂った世界から狂った事実を抜き出し割り算で真実を手に入れるのだ。抵抗だけが人生だ。
誰が僕を止められる。張り巡らされた陰謀から生還するのだ。
僕ははっとした。口角から垂れた唾を拭った。危ない、寝てしまうところだった。気合を入れなおし、気を紛らわすために窓の外を見た。まったく、この運転手も困ったものである。乗車直後はあれだけ喋っていたのに、今では静かとくる。サービスが行き届いていない。
ふと、僕は窓の外を流れる街並みが見慣れないもののように感じた。家までもそう遠くないというのに、いつまで走っているつもりだろう。もしやこの運転手は、やつらの息が掛かった――
しまった、と僕は思った。これじゃあ電車の二の舞だ。走る密室からせっかく脱出したと思ったのに、再度自ら密室の罠へ飛び込むとは。この運転手、人畜無害な顔をしてよくやる。それに自分の間抜けっぷりが嫌になる。いくら疲れていたとはいえ正常な判断が出来ないとは。
いや、違うか? 僕の考えすぎか?
疲れて気が立っているせいでいつもの街並みが違うもののように見えているだけかもしれない。急いているせいで時間の感覚がおかしくなっているだけかもしれない。僕は少々考えすぎなのかもしれない。この運転手だって僕の様子を見て気を使っただけかもしれない。もっと言えば、やつらなんて存在は最初からいないのかもしれない。
僕は内心ほくそ笑んだ。僕もまだ捨てたもんじゃない。冗談の一つくらい言えるのだから。
やつらが存在しないだって? そんなわけあるか。僕を苦しめ、僕を追い詰める野良犬は確かに存在している。意地の悪いティンダロスの猟犬。青い犬の目。
今だってどこかで僕を見つめてる。逃がしはしないとその両の眼に憎しみを灯しながら。
料金を払いタクシーを降りると僕は念のためにアパートの周辺を一回りした。わざと違うアパートに入り、裏口から抜け、そして自分の部屋にたどり着く。
音を立てずにドアを閉めた。チェーンをかけ、鍵をかける。カチャリという音が不気味なほどの存在感をもって鳴った。
遮光カーテンを閉め切った部屋は昼間だというのに暗かった。カーテンの隙間からこぼれた光が床に細い線を作っていた。
とりあえず、これで一安心である。一時的であるにしろやつらを巻くことができた。
僕はその場に崩れ落ちると、四畳半の真ん中に膝を抱えてうずくまった。少しだけ肌寒かった。何か掛け物が欲しかったが、それよりも睡魔が勝った。
胎児よ
胎児よ
誰かが歌っていた。
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか
蜜蜂の唸りの中で、確かに誰かが訪ねてきた。