意味のない文章
これから書くことは意味のないことばかりなので、読む人は覚悟をしてほしい。
意味がないなら読む必要などないという方は、ぜひともブラウザバックしていただいて構わない。
しかしながら、何を持って意味のない文書と言うのか、という点においては、議論の余地があると思うので、気になる方は読んでいただけると、嬉しい。
それに生きる価値のない命がないように、意味のない文章などないかもしれないという可能性は残っている。
多くの人間には意味をなさないけれど、ごくわずかな人たちには、なぜだか響く文章や言葉があるかもしれない。
だとしたら、私の書くこの『意味のない文章』というタイトルの文章は、完全には意味のない文章ではないかもしれない。
そう言った部分は書いている時には気が付かないこともあるので、ぜひ読んでいただいて、判断していただけるとありがたい。
作者自身が気が付かず、読者の目線になって初めて浮かび上がってくる、メッセージもある。
潜在的に考えていたことが、文章になっていたということがアマチュア作家の私にはあってもおかしくはない。
やはりイメージを的確に文章化することに、未だ難しさを感じているからだ。
だからこの『意味のない文章』を読んだ上で、「たしかに意味のない文章だった」とか、「私には意味があった」とか意見していただけると大変助かる。
冒頭で「読む人は覚悟をしてほしい」と書いたのは、そういった点を押さえてほしいということを含んでいる。
ここまで読んで、私には『意味のない文章』を読むのはやはりやめよう、そう言った作者の趣向には付き合っていられないという方は、もちろんブラウザバックしていただいて構わない。
ここに書いていある文章は、意味のない文章であると作者自身は明言しているのだから。
それでも読むという人、言っちゃ悪いが、そういう物好きがいるのであれば、私もそれに応えるために、やはり意味のない文章を書く必要があるだろう。
これは物好きな作者と、物好きな読者の対決と言ってもいいかもしれない。
意味のない文章という見つける冒険、と言い替えても面白いかもしれない。
果たしてこの世に意味のない文章など存在するのか。
私は意味のない文章として書いているけれど、意味があったと思う人がいるのか、という討論なのかもしれない。
私としては初めての試みなので、どうなるかはわからない。
しかし私なりの『意味のない文章』というものを書くことで、その疑問に終止符を打ちたいと考えている。
そういう話。