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2.

 しかし。ある日から、明時には、気掛かりなことができた。


 それは、花見から少し後。五月の終わりのことだった。


 すっかり葉ばかりな様となった桜の木は、既に熱い夏の日差しから逃れるには丁度良い木陰を作っていた。生い茂る葉の隙間からは、青い空と白く眩しい日の光が顔を覗かせ、道路に(まだら)模様を作り出す。まだ涼しさが残る風が少し強く吹けば、それは心地良い葉擦れの音と共に、揺らいで形を変えていく。


 通り過ぎる一人の頭上に、ぽつり、日の雫が一滴。つぅと背に垂れ、地面へと滑り落ちた。


 明時はその時、連なる木陰で涼を取りながらカフェへと向かっていた。そして、そのカフェの窓ガラス越しに、一人窓際に座る彼女を見掛けたのだが――――どことなく違和感を覚え、なんとなく、こちらに気付かれる前に引き返してしまったのである。


 目的地を失いぶらつく道すがら、先程見掛けた彼女について考える。


 彼女の傍らに置かれていたのは、期間限定の甘いフラペチーノだった。しかし、彼女は甘いものは好まず、苦いものの方が好きなはずである。ミルクティーとブラックコーヒーがあれば、迷わずブラックコーヒーを選ぶ。先日の花見で彼女が食べていた団子も、餡子やみたらしではなく味噌だった。


 気になり、後日、ようやく交流ができてきた彼女の友人達にそれとなく聞いてみれば、彼女は昔から甘いものが好きだったという。むしろ、苦いものは苦手、とまで言っていた。


 ならば、自分の前でだけ大人ぶって苦いものを?


 しかし、記憶に残っている彼女は平然と、むしろ美味しそうに飲んでいた。入院中に二人で記憶を確認した時も、彼女はそのことを肯定していた。


 ついでに、料理の腕が短期間の内に劇的な変化を遂げたようで、この前作ってもらった料理がまともな見た目と味になっていたのは――――努力したから、と考えればありえなくも無いので、ひとまず置いておくことにする。当時、そのことについて褒めたら「がんばったのよ。あなたのために。存分に感謝しなさい」と言われたので、素直にありがたく事実と実物を受け取っておくべきだろう。


 それはそうと。味の好みについては、本人に聞いても、せいぜいが大人ぶる強がりがバレて恥ずかしいからとはぐらかされるか、最悪、別の女性と混同しているとして浮気を疑われるかだろう。後者だけは避けたい。


 ならば、自力で解決するしかない。


 とはいえ、明時は日記を書くような性分ではないため、そういった記録は残していない。今まで周囲に恋人関係を秘密にしていたため、SNSにもそれらしい話は出していない。スマホのメールや通話の履歴も確認してみたが、当時の自分は相当用心していたようで、付き合っているとバレるような内容のものはすべて消していたようだった。


 どうやら、頼れるのは自分の記憶だけのようである。


 彼女に対する違和感。記憶と現実の齟齬。


 ――――ふと、一つの可能性が脳裏をよぎった。


 しかし、すぐに首を振ってそれを否定する。


 不謹慎にして不誠実。たとえその可能性が真実だとしても、すぐに気付けなかった自分が、彼氏として失格ではないか。もしそうならば、退院してからの今までは何だったのか。確かに楽しく過ごしてきた日々は、存在しない相手と共にいた『もしもの世界』、すなわち『虚構』、言い換えれば『偽物』だとでもいうのか。


 まさか――――『彼女』とその片割れが、立場を入れ替えた、などと。


 相手そのものに成り代わったわけではない。名前も周囲との関係も、本人のものである。


 が。自分の前でだけ、残った記憶に合わせて、『彼女』の要素を見せているのだとしたら?


 共に自分への好意を持つ、瓜二つの容姿の双子。


 あの時、川に落ちたのはどっちだった? 橋に残っていたのはどっちだった?


 否。そもそも、橋に人は残っていたのか? 川に落ちたのは、本当に一人だけだったのか?


 ――――助けたのは、どっちだった?


 悪い方へ悪い方へ、思考が傾く。生い茂る緑の葉擦れよりもざらつく、低く蠢く暗い音が、肺の底から不安を煽り撫で上げる。


 二人を区別する方法は、名前と、食べ物の好みくらいだった。


 まずは名前。そもそも、入院前の自分が彼女を何と呼んでいたかを覚えていれば簡単に解決するはずなのだが、生憎、今ですら気恥ずかしくて下の名前は呼べていないので、この方法は使えない。普段は平然と接しているように見えるはずだが、その実、彼女を呼ぶ時は『君』か『咲達さん』が関の山なのである。今になって、この状況で、自分の度胸の無さが悔やまれる。


 それはそうと。となれば、残るは食べ物の好みで反応を探るしかない。


「……あ、」


 一つ、決定的とも言える二人の違いを思い出した。


「蕎麦」


 たしか、年末の少し前に、前倒しで二人で年越し蕎麦を食べたことがあった。本当は年末に二人で食べたかったが、その頃は周囲に恋人関係を秘密にしていたので、致し方無い。それは置いておいて。その時に、彼女が言っていたのだ。


 家では蕎麦は食べられない、と。


 理由を聞けば、片割れがアレルギーなのだという。幼い頃に知らずに食べて死にかけたことがあり、それ以来、念には念を入れて、片割れの傍では作ることすらしなくなったのだとか。食べるとすれば、外で別行動を取る時くらいで、家ではまずありえない。片割れは当時のことがトラウマになっており、蕎麦を見るだけでも表情が固まったりと、わかりやすく拒絶反応を見せるのだという。


 年末には『来年も傍にいられますように』なんて願掛けをされて食べられる蕎麦も、二人にとっては、永遠の離別になりうる命取りになるのである。


 試してみれば、一目瞭然だろう。


 ただし、もしもに備えるべきでもある。外食は店に迷惑が掛かるので論外。彼女の家も然り。自分の家で食べるにしても、茹でるのも湯気ですら危険かもしれないので、既製品にした方が良いだろう。となれば、コンビニやスーパーで売っている一食分のカップのものが無難か。


 念のため、うどんも買っておくことにする。先に蕎麦を出して、難色を示すようならうどんをちらつかせながら理由を聞き、できれば自白させる。これがベター。もしくは、何事も無く蕎麦を食べてもらい、最初から彼女だった確証を取る。これがベスト。


 まさか、自分から死ににいくはずが無いだろう。もし咄嗟に迷いが生まれても、それが言動に出るならば、すぐに察知して最悪の事態だけは防げる。


 よし、と決意を一つ。


 まずは、散らかっている部屋を片付けることからである。


 理由は何であれ、せっかく彼女を招待するのに、幻滅はされたくなかった。





 作戦決行当日。


 家デートという名目で、休日の朝から彼女を自分の家に呼んだ。家といっても、アパートに一人暮らし中なので、作戦を邪魔する者はいない。それはそうと、二人きりなので普通に緊張もする。一ヶ月近く心の準備をした上でこれに誘った時以上の勇気が必要な気さえした。


 気を取り直して。


 内心疑っていることの罪悪感にも揉まれながら、午前中は普通に遊んだ。多少はぎこちない対応になってしまったが、緊張しているのでそこは仕方無いと割り切る。


 そして、昼。待ちに待った、昼食の時間。


「もうお昼ね。何か作ろうか?」


「あ、今回は俺が用意するよ」


 隣に座る彼女の申し出に、明時は普段通りの何ともない様子で反応した。それぞれで進めていたRPGのゲームを一旦中断し、セーブして傍に置く。


「あら、貴方料理できたの?」


「カップの麺類、キンキンに冷やしてあるんだ」


「ビールみたいに言われても。じゃあ、お願いね」


「はいよ」


 言って、部屋を出て台所へ。冷蔵庫から蕎麦とうどんを取り出し、部屋に戻ってテーブルの上へ。彼女とは対面に座り、自分の前にうどんを、そして、彼女の前には蕎麦を置く。割り箸も添える。


 ――――ぴくり。


 一瞬、彼女の動作が止まった。


 お? と、明時がその反応の続きを窺う。と。


「あら、冷やし中華の気分だったのに」


 まさかの第三勢力をご所望だった。


 これは予想外である。が、冷静に対処する。


 今のところ、他に目立った反応は無い。表情もいつも通りで、固まったり引き攣ったりした様子も無い。


「たしか、君蕎麦が好きじゃなかった? 前に言ってただろ?」


「うん。冗談よ。ありがと」


 ぺりぺり。


 礼と共に、器の外側のフィルムを剥がす音が聞こえた。明時がその末を見届けている内に、透明なプラスチックの器がツユで満たされ、蕎麦や薬味が沈んでいた。「いただきます」という声に、割り箸を割る乾いた音が続き、麺をほぐす動作へと移る。


 平然とした様子で、器に手を添え、箸を持ち、蕎麦を掴み、そのまま口へ――――


 あまりに滞り無く自然と進む光景に、明時はようやくハッとして、慌てて声を出した。


「あっ、やっぱちょ待っ、」


 寸手のところで、手を伸ばして制止する。


「何?」


 白花は怪訝そうに、一旦蕎麦を下ろして明時を見やった。


「、……あれ、うどんもあるけど……?」


「そうね。え? 何、貴方も蕎麦が良かったの? なら、なんで片方うどんにしたの」


「え、別に、それは……なんとなく……」


 明時の声が(しぼ)んでいく。


 明時は拍子抜けした。同時に、安堵した。


 なんだ。じゃあ、今までは大人ぶっていたのか。見抜けなかったなぁ。演技が上手いなぁ。これからは、知らないフリをしようか。それとも、無理しなくても大丈夫だと言おうか。


 そんな考えが脳内を巡る。


「食べるよ?」


「どうぞ……」


 平伏するように、明時はテーブルに伏せた。


 とはいえ、うどんはぬるくなる前に食べたいので、すぐに上体を起こす。


 視界の端にちらりと見える、彼女の姿。その肌が、斑に赤いのが見えた。不自然なそれは、暑いからでも、照れているからでもない。健康的な赤らみではなく、もっと、別の――――


 そこまで考えが至って、明時はバッと顔を上げた。


 目に入ってきた光景に、自然と身体が動いた。


 慌ただしく立ち上がる。苦しそうに口元を片手で覆っている彼女へと、手が伸びる。


「っ、救急車……ッ!」


 倒れ込む彼女を支えながら、明時はスマホを手にしていた。



          *



 しばらくぶりの、真っ白な病室。


 アレルギー反応への処置を終えて落ち着いた白花は、ベッドで横になっていた。


 明時はその傍に立ち、あの時とは立場が逆だなぁ、と思いながらも彼女に声を掛ける。


「……ねぇ。何があったか、覚えてる?」


 自分が目覚めた時に言われたのと、同じ言葉である。しかし、そこにあの時のような悲壮感は無く、かと言ってこれまでのことを責めるでもなく、二人きり故の緊張感すらも無い。ただ静かに、いつものトーンで訊く。二人の間柄を考えれば、冗談めかして聞こえるかもしれない言い方だった。


 それに、白花はうっすらと笑みを浮かべた。夢現(ゆめうつつ)のように、ぼんやりとした目線で、明時を見上げる。


 その開いた口から聞こえてきたのは、今にも消え入りそうな声だった。


「うん、もちろん。ごめんなさい。貴方の彼女の()、春香から奪っちゃってたの」


 笑みが消える。声も感情が抜け落ちたかのように、淡々としたものが連なる。


「貴方の彼女は春香。貴方が助けたのは私。貴方の記憶が曖昧になったから、私はその隙間に入り込んだの。ほら、私と春香って、よく似てるでしょ? 多少ツギハギでも、馴染んで一つになれると思ったのよ。……まぁ、この通り、ダメだったんだけど」


 白花は自身の身体へと視線を落とした。片割れとよく似たはずのそれは、決定的な違いを内に秘めていた。


 ぽつり。言葉が続く。


「……ねぇ。一つ訊かせて」


「何?」


「蕎麦を出したの、わざと?」


「……恋人の確証を得るためにやった。ごめん。君が本当に俺の恋人だったか不安になって、もし違ったらわかりやすい反応をするって聞いてたから、それを見れば大丈夫と思って……」


「なんだ、偽物だとわかってて出したんじゃないのね」


「君は、わざとだと思って、わかってて、自ら死のうとしたのか?」


「まさか。春香に成り切れている気でいただけよ。だって、春香は蕎麦が好きだったもの。……でも、私は私のままだった。食べることすら、この身体は拒絶したの。結局、私は春香にはなれなかったのよ」


 白花の視線が、明時の方へと戻る。


「……私ね、がんばったのよ。春香に近づけるように、がんばったの。だって、貴方は春香のことが好きだったから。春香が貴方の彼女だったから。…………それなのに、こんなことで、こんな違いで――――」


 その目は、明時ではなく、虚空を見つめているようだった。


「私、春香になれたら良かったのに」



          *



 白花が退院したのは、それからすぐのことだった。


 そして、明時のもとに彼女の訃報が届いたのも、二人が再会するよりも前のことだった。


 死因は溺死。遺体は、片割れの死んだ川の端に流れ着いていたらしい。川底の石に頭を強くぶつけた形跡もあり、それで気絶するかして動けなくなり、そのまま溺れたのだろう、と判断されたようである。


 それは、片割れの死因とまったく同じだった。


 そのことから、姉妹を亡くした心の傷が癒えなかった故の後追い自殺だろう、と聞かされた。間違ってはいないのだろう。


 そして、彼氏という関係から、明時は葬儀に呼ばれた。


 もこもこと地上から空を埋める彼女だった煙が、溶けるようにして散り散りに消えていった。


 一面の虚空。


 明時は焼かれて真っ白な骨だけになった白花の欠片を一つ、こっそり持ち帰った。その足で向かったのは、二人が死んだ橋の上だった。


 昼は長く、夕暮れに差し掛かる黄金が青い空を染めていく。


 花びらのような小さな欠片は、ひと呑みできる程度のものだった。異物感も喉元を過ぎれば何も感じなくなり、自分と一体化したかのような錯覚すら感じられる。


 さて、二人に共通する異物である自分は。


「羨ましいよ」


 白々しく告げるように呟いて、橋の柵に腰掛ける。空を見上げ、そのまま後ろへと背を倒し――――反転。


 真っ赤に眩しい日の光に、目を(つむ)った。

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