姉の心妹知らず
いつものように目を覚ますと、右腕を全身でホールドしている人形と目が合った。
「……肩乗せぬいぐるみ?」
『……もうちょっとこう、さあ……至近距離みたいな所あるしさぁ……ときめいてくれてもいいんじゃない?』
「……ならせめて……おしとやかにしがみついててほしいかな」
『おしとやかとは……』と首を傾げる彼女を尻目に、仰向けになったまま天井の方に目をやった。
視界の先のLEDライトはゆらゆらと揺れて2つに見える。最近の俺にとって、この現象はいつものことだ。
数日前から、起床した直後に若干の眩暈と貧血を覚えることが多くなった。どうせ原因の元を辿れば持病に行き着くので、特段騒ぎ立てるつもりはない。ただ、気分の悪さがマシになるのには10分程度かかるので、その間安静にしておくのは随分と暇だった。
『お水、取ってくるね』
「……ありがとう」
『…うん』
俺の様子を悟ったのか、彼女はふよふよと身体を浮かせて冷蔵庫が置いてあるキッチンの方へと飛んで行った。また彼女に気を遣わせてしまったと少しだけ申し訳ないような気持ちになる。
彼女と共に病院の定期検診へ向かってから数日が経過していた。
以前から身体の怠さを覚えていたものの、俺は日常生活に支障を感じてはいなかった。だからこそ此度の定期健診では、主治医から特に何かを言われるわけではないと思っていたし、それゆえに人形を同伴させても心配をかけることはないだろうと踏んでいた。が、それは大きな間違いであった。
『率直に言います、上原さん……。今あなたの身体は、悪化の一途を辿っています。……正直、こうして満足に検診を受けに来られることなんてできないはずだし……、なんなら、今生きていられているのが不思議なくらいだ』
血相を変えた主治医の言葉を聞くまで、俺は自身の身体がそこまで病魔に侵されていたことを自覚していなかった。なぜなら、そんな実感を得るほど内臓に痛みを感じるわけではなかったからだ。いや、痛いと思ったことがないわけではなかったが、薬を飲めばそれは例外なく緩和されていた。自覚症状といえば若干の怠さだけで、自分の肉体が生死の境を彷徨うほど弱り切っていたとは、思いもしなかったのだ。
俺は、入院による緩和ケアの打診を丁重に断り、結局いつものように処方された薬を持って帰路についた。流石の俺も、自分の身体が想定よりも悪くなっていることには少なからず動揺を覚えていた。そのためか、この声を聞くまで彼女の存在をすっかり忘れていたのだ。
「…やっぱり、よくないんだね」
不思議と、その時の人形の声はいつもよりクリアに聞こえた。が、彼女の哀しげな声を前にして、それを指摘する勇気が俺にはなかった。
今や俺は、彼女を悲しませる言動を取ることを極度に恐れるようになっていた。そのため、何をどう発言しても彼女の涙しか見られないようなこの話題が振られた時、俺は彼女に対してかけるべき言葉をすぐに思いつくことができなかった。
「……まあ、分かってたことだし」
ややあってようやく絞り出した言葉がそれだった。気の利いた言葉一つ見つからないことに我ながら嫌気がさしていた。
「分かってたことだからさ……そんな湿っぽい声出すなよ。気楽に行こうぜ」
「……ふふ。まるで他人事みたい」
「まあ、そんなに死ぬの怖くないしな」
「………そっかぁ。……強いんだね、春人君は」
「…まあな」
嘘をついた。
別に俺はそんなに強くない。
死ぬのが怖くないはずなのに、いざ容態が悪いと知ると動揺してしまうのが俺なのだ。
以前の俺はこんなに心が弱いわけではなかったはずなのに。
結局、雑な相槌で自分から話を終わらせてしまった俺と、何の話題もふってこない人形は、結局互いに言葉を発することなく自宅へ帰り着いてしまった。その後はほとんど一言二言で終わるような会話が続き、あっという間に就寝時間を迎えた。
俺と人形の間に、何か形容し難い重苦しい空気のようなものが漂っていることを俺は感じていた。この空気は次の日になっても、その次の日になっても俺と人形の傍に滞留し続けていた。
…重い空気の原因は分かりきっている。俺が良くない診断を受けてしまったからだ。そのために、きっと人形は俺に何と声をかけていいのか分からないのだろう。彼女が何を考えているのか俺にはよくわかる。ならばこそ、俺は彼女に明るい言葉をかけるべきなのだ。
が、言おう言おうと覚悟を決めても、どうにも言葉がつっかえて出てこない。例え病気と関係ない話題でも、俺が不自然に明るく振る舞っていることを悟られれば、無理をしているのではないかと彼女に気を遣わせてしまうかもしれない。…などと、今の俺は何を言おうとしても思考が悪い方向へと傾いていってしまい、あの日の帰り道の時と同じく、俺の口から気の利いた言葉を発することができなかった。
そうやって彼女とギクシャクしたまま、いつのまにか今朝を迎えてしまった。
目を覚ました時に彼女が俺の肩にしがみつくという奇行を働いていたのは、恐らく俺のツッコミ待ちをしていたためであろう。彼女はそうすることで、俺との間にある緊張を緩和させ、以前のような軽口を叩きあう状態に戻そうと腐心しているのだ。
が、結果は御覧の通りである。いつもであればもっと言葉の応酬が出来ていたものを、たった一往復半で会話を終了させてしまった。これでは人形が滑ってしまったみたいではないか。本当はとても愛らしかったというのに。何ならもっとして欲しかったまであるというのに。その上水まで汲みに行かせてしまった。自分が滑ってしまったと思っているだろうに、これを気遣わせていると言わずしてなんというのだろうか。本当に心が痛む。
ややあって彼女がコップに注いだ水を両手で抱えて帰ってきた。あぁ、重たかったろう。
眩暈を若干残っていたが、彼女にこれ以上水を持たせるわけにはいかないと思い、慌てて身を起こした。
『あ、ダメだよそんな勢いよく起き上っちゃ』
「……ごめん」
が、その行動はすぐさま彼女に静止され、俺の抵抗虚しくコップは俺の口元まで運ばれてきてしまった。
「……いや、自分で…」
『いーの!!はい、あーん』
……さすがに水を手ずから飲ませてもらうのは恥ずかしいし飲みにくいしでどちらかというと止めてほしかったのだが、そう言ってしまっては彼女を悲しませてしまうかもしれないという俺の面倒臭い思考が働き、結局俺は彼女の成すがままに水を飲みほした。
『気分はどう?』
「大分マシ、かな。……ありがとう」
『そっか。へへ、良かった』
「おう……。……」
『……』
「……」
まただ。また沈黙が続いてる。
とにかくこの空気が息苦しいので、何かを言おうと口を開こうとするが、やはり肝心の言葉が出てこない。見れば人形の方もグラスアイを左右にちらちらと動かし、何とか口火を切ろうとしている。彼女も何を言えばいいのかわからないのだろうと思った。
であれば俺が何とかするしかない。以前のように気楽な様子で彼女と話せるように、俺から歩み寄るのだ。
よし、とりあえず服を褒めよう。今日の彼女のドレスはヴィクトリア風のメイド服だ。秋葉原にあんまりいない方のきちんとした洋装のメイド服だ。別にこのドレスを着ているのを見るのは初めてではないが、さも初めて見たように全力で褒めてやるのだ。そうすればきっと元のように戻れる。
よし言おう。今……今……じゃない、あっ、今だッ。
『「あの」』
『「先にどうぞ」』
『「………!?」』
想定外だ。発言のタイミングが被ってしまった。
違う、違うのだ。人形、俺はそんなに重要なことを言おうとしたわけではないのだ。だからそんなに心配そうな顔でこちらを伺おうとしないでほしい。その上目遣いはとても愛らしいが、今の俺にとってそれはかなりのプレッシャーになってしまうのだ。
「……服が」
『えっ、うん……』
「……似合ってる………」
『あっ……あっ、そっか。うん。……ありがと』
「……」
『……』
会話が終了した……。
なぜだ…。いつもならここからお前は上機嫌になって、満面の笑みを見せてくれるはずだというのに。今の彼女は困ったような微笑を浮かべて小首を傾げるばかりで、視線を合わせてくれない。いいんだよ素直に喜んどけよ。何か俺が滑ったみたいになっちゃってるじゃん。
仕方がないので彼女に話を促すことにした。
「……えっと、そっちは?」
『……あー…えっとね……えーっと』
人形、痛恨のミス。
彼女は何も考えていなかったのだ。
『いや、ごめ、何言えばいいか思い出せなくて。何も考えてなかったとかそういうんではないからね?』
いかん人形。その言い方は余計に何も考えてない感じするから。
視線を左右にゆらゆらとさせていた人形は、やがておずおずと口を開いた。
『今日……出かける用事とか……ある?』
「……えっ、あー」
人形の真意が読めない。仮にここで俺がないと彼女に言えばどうなるというのか。どっかに連れて行って欲しいみたいな話になるというのか。
……待て、自惚れるな。彼女は今朝から俺の身体のことを心配してくれているのだ。俺に予定が無いことがわかったとして、彼女が行き先をねだることがあろうか。答えは否である。どうせ俺がないと言おうものなら、『……そっか』で話が終わるに違いない。そうなれば俺達はまたあの重苦しい空気の中に放り込まれてしまう。それだけは何としても避けなければならない。というか俺が耐えられない。
であればここは本来ある予定を彼女に話すことが吉だ。幸いこの予定通りに行動すれば、一応俺はこの重苦しい空気から抜け出すことができる。これはただの問題の先送りであるが、そんなことを考えていられるほど今の俺は冷静ではなかった。
俺は努めて冷静を装いながら、彼女に向けて言葉を発した。
「今日は……ワークショップに……。ドールショップの…」
『そっか。今日も行くんだね。いってらっしゃい』
「あ、ああ。すまん」
『んーん、いいよ』
『―――本当は行きたい所があったんだけど……予定があるなら仕方ないよね。……じゃあ今度、私と一緒に出かけてね?』
「今日ワークショップ休めばよかったよちくしょう!!!!」
「うわびっくりした」
激情のままに折り畳み机をドンと叩くと、向かいの倉良場店長がじとっとした目でこちらに視線を向けた。
「なにどうしたの。何か嫌なことでもあったの?」
「……若干。あの机ぶっ叩いてすみません」
「いいよ別に。君全然力無いから壊れてはないでしょ」
俺が店の備品を雑に扱ったことよりも俺の身を真っ先に心配するとは、倉良場店長は相当人間性が出来ているなと思った。
倉良場店長は相変わらずゴスロリ調のドレス(今日は黒と白を基調とした)に加えて眼帯をつけている。このワークショップには何度も行ったが、そのたびに彼女は同じような恰好をしていたので、最近俺は彼女の様相に疑問を抱くことがなくなっていた。
彼女はツインテールの先を人差し指で弄りながら小首を傾げている。
「うーん、若い子の悩みとか私わかんないけどさあ、何度も来てもらってるよしみだし話ぐらい聞くよ?」
「いや店長のお手を煩わせるわけには…」
「いやーここはてんちょーに話聞いてもらえって上原クン。いい加減アタシもフリフリ洗うの疲れたしぃ、休憩がてらってことで」
俺の横から愛嬌のある女の声が聞こえた。
その声は当然ながら倉良場店長のものではない。
「うーん、†黒百合†ちゃんはまだもうちょっとそれ洗っててもらおうかな。アンタのドレス死ぬほど汚くて話先に進めないんだよ」
「えーそんなー」
倉良場店長に†黒百合†と呼ばれた女は、口を尖らせながらドレスの湯洗いを再開した。
†黒百合†さんは、当ワークショップで良く居合わせる受講生仲間である。彼女とは、俺が二度目か三度目かの受講で足を運んだ際に初めて出会った。
倉良場店長は「平日に客が来ない」などと宣っていたが、当然ながら客足がゼロになるということはない。希有であることは間違いないのだが、平日に足を運ぶ常連さんとやらは俺以外にも確かに存在する。
この†黒百合†さんもその稀有な常連さんの一人である。彼女はドール界隈での倉良場店長の知り合いであるらしく、此度のワークショップ開設を受けて受講を決意したらしい。
なお†黒百合†は彼女のSNS上のハンドルネームであるらしく、俺は彼女の本名を知らない。倉良場店長も本名については知らないようだったし、彼女自身がハンドルネームを押し通してくるので、俺は詮索をすることはせず、彼女の名前を気軽にハンドルネームで呼ぶことにした。
《ダガーさん》
《うん、どちらかっていうとクロユリって呼んでね》
†黒百合†さんは気さくな女性であった。初めこそ†黒百合†さんと倉良場店長が親しげに話しているのを目の当たりにした際は、若干の居心地悪さから発言に躊躇いを覚えていたのだが、親しげに話しかけてくる彼女の陽気さにあてられ、今では彼女と良好な関係を築くことができている。
ちなみに、彼女の格好は倉良場さんほど奇抜なそれではない。ラフな白いシャツに水色のパンツといった出立ちはあまりにも普通の女性という感じで、†黒百合†という名前に明らかに負けてしまっている。また、毛先をカールした茶髪のミディアムボブにくりっとした大きな瞳を持つ彼女は、控えめにいっても美人の分類に属するだろう。ますますハンドルネームで損をしているような気がした。
そんな†黒百合†さんは、洗面器に張ったお湯を使ってフリルのついたドレスの汚れを半泣きになりながら取ろうとしている。そのドレスは相当汚れていたのか、彼女の洗面器のお湯は驚くほど黒く濁っていた。
「まあ†黒百合†ちゃんが汚れ落とすまでヒマだからさ、とりあえず話してみなよ。お姉さん力になるよ?どうせ君だって今日ヒマなんだから多少時間延びても大丈夫でしょ」
「……わかりました」
思ったよりぐいぐいとくる倉良場店長に根負けし、俺は自分の悩みを明かすことにした。とはいえ自分の事情をまるきり全部話すわけにはいかない。俺は肝心な人形の箇所をぼかして答える必要に迫られた。
「……実は俺、今妹と一緒に住んでいまして」
「妹」
「ええまあ、はい。……兄妹仲は良好だったんですが、最近何かとギクシャクしてしまって。あまり話せてないんです」
「何々、家庭内トラブル?」
「クロ、洗いなさい」
「ひーん」
人形のことはとりあえず妹と置換することにした。短い間であるが親しくしてきた同居人であるため、妹と呼称しても問題ないだろう。
「ギクシャクの原因って何なの?上原君有責?」
「うーん、不可抗力ではありますけどそんな感じです。詳しくはプライバシーなので言いたくないんですけど」
「りょ!!」
「洗え」
「はい……」
懲りない人だなあ、と俺は思った。
「……それで、向こうも不可抗力なのはわかってるんで、俺のことを責めたりとかそんなことはしないんです。でも、彼女は俺のことをすごい心配してるみたいで、とても気を遣ってくれるんです。でも、それがめちゃくちゃ申し訳なくて……彼女に何て声をかけたらいいのかわからず……」
「あー……うん、なるほどねぇ……」
倉良場店長は頬杖をつきながら、さも感慨深いように呟いている。なるほどとは言っているが、店長はこの明らかな説明不足の述懐で理解を示したというのだろうか。
と、俺の心を察したかのように彼女は俺に向き直った。
「いや、わかるよ?要は妹ちゃんに何かで心配かけちゃって、それをなまじ自覚してるからこそ申し訳なくて、妹ちゃんに何言ったらいいかわかんなくなってるってことでしょ?」
「すごい読解力」
「でしょ?伊達に店長じゃないんだよ」
「はは……」
へへんと胸を張る店長の様子が在りし日の人形の所作に重なって見えたので、変な笑いが口から漏れた。倉良場店長の動作にまで人形を見出すとは、俺は相当に人形とのじゃれあいに飢えているのだと改めて感じた。
「……それで実は今日、妹の方から歩み寄りをしようとしてくれたっぽいんです。でも俺、気まずい空気に耐えきれないって、逃げてきてしまって」
「だから最初にああ言ったの?休めば良かったって。逃げずに立ち向かえば良かったってことで」
「……すみません」
「……まあ店長としてはあんまり責める気ないけどね。予定通りにちゃんと来てくれてえらいえらいって感じだし」
店長は頬杖をついていない右腕で、頭を撫でるようなジェスチャーを取る。バツの悪そうな顔をした俺を気遣おうとしているのだと思った。
「まーでもお兄ちゃん的にはアウトでしょ。カワイイ妹が歩み寄ってきたんなら応じてあげんとねぇ」
「……そうかもしれませんね…。なんか、色々考えたらドツボに嵌って…」
「クロユ―――」
「洗い終わってますぅー」
「あ、ほんとだ」
ドレスを及第点レベルまでピカピカにした†黒百合†さんが会話に参加してきた。彼女の言は俺が痛感していることをまさに射貫いたもので、耳が痛いと思いながらもそれを受け止める。
実はアタシも妹がいんだけどさーと前置きした上で、†黒百合†さんが口を開いた。
「日頃ホント何考えてんのかわからんわけよ。私の気持ちも知らないで憎まれ口叩いてくるしね!!」
「確かにウチのもそういう部分あるかもしれない……?」
「でしょ。……でもまあやっぱ家族だからなのかなぁ、懐いてくれてんのはわかるわけよ。だからたまーに向こうからデレてきてくれんのよね。そこを逃しちゃいけないわけ」
「……なるほど。勉強になります」
要するに、†黒百合†さんはチャンスを逃すな、と言いたいのだ。相手からの歩み寄りのサイン、それを逃してはいけないと。
……そして、俺はまんまとそのチャンスを不意にしてしまった。そのことを改めて実感したことで本日何度目かわからない自己嫌悪がやってきて、顔が強張った。
と、俺の様子を察知したのか、†黒百合†さんが慌てて手を横に振る。
「いや、違う違う、そこで話が終わりなんじゃないよ!?アタシが言いたいのはね、つまり……家族なんだからいくらでもやり直しが効くって話よ!!他人だったらまだしも妹なんでしょ?じゃあこれからいくらでも歩み寄りのチャンスとかあるわけじゃん。だから一回しくじった所でくよくよすんなって話よ。次ミスらなかったらいいって話でさ?わかる?」
「……ダガーさん……」
「うん、クロユリね?」
家族だからいくらでもやり直しが効く……。それは考えたこともない知見だった。知っての通り、母さんを除いて、俺の家族には(俺にとって)ロクな人間がいなかった。当然彼ら家族に対して俺がやり直しを求めようと思ったことが無く、家族という間柄がコミュニケーションのリカバリーを図ることができるものだとは思いもしなかった。
……とはいえ、人形は俺の本当の家族ではない。俺にとって大切な存在であることは疑いのない存在である。しかし、それが家族と同等に「取り返しの効く」関係性なのかは、家族の在り方がよくわかっていない俺にとって、判断のつかないことであった。
「取り返し、効きますかね?」
「―――できるよ。妹さんのこと、大好きなんでしょ?」
「………ええ」
なら良し、と†黒百合†さんは洗い終わったドレスを乾かしながら、俺に向かって微笑んだ。
やばいハンドルネームしてる割に結構いいこと言うんだな、と俺は思った。
と、それまで何か言いたげにしていた倉良場店長がついに口を開いた。
「―――いや、甘いねクロユリ。私は相手の反応待ちは良くないと思うな。やっぱ歩み寄りってのは自分から仕掛けてこそだよ」
「お、マジ?野菊ちゃん自分から行く系か」
「野菊?」
「あぁ、私の下の名前」
「知らなかった……」
いや、店長の名前はこの際どうでもいい。
「自分から仕掛ける……というのはどういうことなんでしょうか?」
「まあそりゃあ言葉の通り、自分から取っ掛かりを作るってことになるわけだけど」
「………」
「ちょっとぉ野菊ちゃん。上原クンは多分それができなかったから今悩んでるんだよ?できてたら苦労しないっつーの。ねえ?」
正直†黒百合†さんの言葉に同意をするのはかなり屈辱的であったが、事実故仕方がない。俺は眉間に皺を寄せながら、油をさしていないブリキ人形みたいに首肯した。
だが、倉良場店長は意見を翻すことはなかった。
「いーや、それでもやらないといけないよ。―――もしそれでギクシャクが続いたまま、離れ離れになったとしたら、嫌でしょ?」
「――――!!」
「あーそれは……」
店長の言葉を受け、俺は目から鱗が落ちたような気分になっていた。
そう、そうだ。その通りだ。
俺には、十分な時間が残されているわけではなかった。
倉良場店長は言葉を続ける。
「クロユリに倣うけど……、実は私も姉妹がいてね。まあ私の場合は姉なんだけどさ。……姉とは本当に仲が良かったんだ。でもあることが切欠ですれ違って、こじれて、それっきり」
彼女は遠い昔に思いを馳せるように、幾何学模様を描く天井に視線を向けた。
「……10年以上も前になるけど、その頃の私は頭がお花畑でね。姉が抱えている事情を全く知らなかったんだ。だというのに悩みを自分に打ち明けてくれないことに腹を立てて、意地を張った。ちゃんと姉に寄り添うことを私は怠ったんだよ。まあ家族だし、いつか自然と仲直り出来るよねって具合にね。……それで、私の姉……ミヤちゃんとは、二度と会えなくなっちゃった」
そこまで言って、倉良場店長は俺に目を向けた。
彼女の眼は、真剣そのものだった。
もしかしたら、店長のお姉さんはもう……。
「だからね、上原君。歩み寄るのを恐れちゃダメ。家族だからって、いつ離れ離れになるかわからないんだ。今その時を、後悔しないようにしなきゃ」
クロユリあんたもだよ、なんて付け加えた店長の言葉に対して、「はいっ!!」と†黒百合†さんが勢いよく返事をした。そりゃこんな話を聞かされた日には、彼女も店長の言葉に従うしかないだろう。
俺はと言えば、倉良場店長の言葉を他人事と思うことが出来ず、ただ彼女の体験に圧倒されていた。
後悔のないように。その簡単な言葉を実行することのなんと難しいことだろうか。
結局俺は、倉良場店長の言う通りに後悔を抱えている。そして、未だ人形にどんな言葉をかけるべきなのか、答えを見つけられていない。このままでは、どうしたって彼女に歩み寄ることができない。
倉良場店長の言葉に正当性を見出しているが故に、俺は思考の沼に嵌っていた。
だが、それを見越していたのか、店長は再度俺に向かって口を開いた。
「―――まあ言うのは簡単だけど、実行するのは難しい。私もできなかったぐらいだからね。そうでしょ?」
「………そうですね。正直、あいつに何て言ったらいいのか」
「そうそう。何て言えばいいのかわからないんだ。……でもね、今思えば、何も言わなくても良いんじゃないかって、私は思うんだよ」
「何も、ですか」
倉良場店長の言わんとしていることがわからず、首を傾げる。
対して、†黒百合†さんは店長の言葉の意味がわかったらしく、あぁ、と手を打った。
「無理に言葉で取り繕う必要も無い的な感じ?ただ黙って傍にいてあげるだけでもオッケー、みたいな」
「正解。……別にね、無理に言葉を交わす必要はないんだ。ただ傍にいて、私はどんな時でもあなたの味方だからって示してあげる……それだけでいいんだと思う。家族なんだもん。それでいいんだよ」
「ただ……傍に……」
「うん。そうすれば、自然と言葉も出てくるかもしれない。……最初は、そこから初めてみたらいいんじゃないかな」
……ああ、そうだった。大事な事を忘れていた。
俺があいつに呪いをかけたんだった。
傍に、いてくれと。呪いをかけたのだ。
彼女はそんな俺の呪いを受け止めてくれた。俺の傍にいてくれたのだ。必死になって、俺に言葉を紡ごうと、歩み寄ろうとしてくれたのだ。
だというのに俺は、彼女を悲しませたくないと、気遣わせたくないと、遠ざけてしまった。自分で傍にいろと言っておきながら、遠ざけたのだ。なんたる本末転倒、なんたる無様であろうか。
だが。
やり直しは効く、と†黒百合†さんは言った。
無理に言葉を交わさず、傍にいればいい、と倉良場店長は言った。
家族であれば、と二人はいった。
人形が俺のことをどう思っているのかはわからない。でも、俺が人形を大切に思うように、彼女も俺のことを大切だと思ってくれているのならば。
俺達は、家族たりうるのかも、しれない。
であれば、俺は最早愚図愚図と腐っているわけにはいかなかった。
「黒百合さん、店長。本当にありがとうございました。おかげで目が覚めました。つきましては俺、急用ができたので失礼しようと思います」
「だからクロユリって……お、おう。言えたじゃんちゃんと」
「……急用ができたんなら仕方ないな。片付けはこっちでしておくから、早く行ってきなさい」
「―――ありがとうございます、店長」
倉良場店長のご厚意に甘え、俺は早急に荷物を纏めはじめた。
と、何かがおかしかったのか、彼女は相好を崩して笑みを浮かべた。
「……?なんです、俺の顔に何かついてます?」
「いや?……君と初めて会った時のことを思いだしたんだ。あの時の君はそれはもう仏頂面だったけど、今は全然違う。君、気付いてないかもしれないけど、よく笑うようになったよ」
「……あんま、自覚ないですけど」
「ふふ、人は自分の変化にはあんまり気付かないものだよ。……じゃあ、またきてね」
店長と、ぶんぶんと手を振る†黒百合†さんに見送られながら、俺はドールショップを後にした。
店長が最後に俺に対して告げた言葉は、どれだけ考えても自覚の湧くものではなかったが、もし自分に変化があるのだとしたら、それは間違いなく人形のお陰なのだろうと思った。
脇目も振らず真っすぐにアパートへと戻り、俺はドアを開けた。
室内では、俺が思い焦がれた相手が一人、窓から見える夕暮れの景色をぼんやりと眺めていた。
着替えたのだろうか、彼女が着ていたのは今朝に見たメイド服ではなく、初めて彼女と出会った時の深紅に紫の花が描かれた着物であった。帯を縁取っている金色が、夕日に照らされ美しく煌めいていた。
俺が肩で息をしながら靴を脱ぐ音で帰宅に気付いたのだろう、彼女は振り返って花のような微笑を浮かべた。
『あっ、おかえり。早かったんだ――――』
「――――」
『―――ぁ』
俺は彼女に駆け寄り、黙ったままその身体を抱きすくめた。
――あぁ、彼女の存在を胸に感じる。人間より小さい人形で、心臓の鼓動は聞こえてこない。でも、人形のくせにほんのり暖かくて、安心する。そんな存在が今、俺の胸の中にいるのだ。
「――ごめん、苦しいか?」
『……ううん、ちょっとびっくりしたけど、苦しくないよ。私、呪いの人形だもん』
「そっか。……じゃあ、もうちょっと、このままでいさせてほしい」
「……いーよ。仕方ないなあ」
俺の急な蛮行を咎めることもせず、彼女はされるがままに俺の胸の中で笑顔を浮かべた。
そうして、俺はしばらくの間彼女の温もりを感じ続けていた。彼女の温もりは春の陽射しのように柔らかで、俺達の間に滞留している重い空気を緩やかに霧散させていった。
「ずっと、なんて言ったらいいのかわからなかったんだ」
自然と口から言葉が漏れた。
「お前の、悲しむ顔を見たくなくて、お前に気を遣わせたくなくて、そんなことを思ってたら、お前に何を言えばいいのか、わからなく、て」
何の話をしているのかなんて明かしていない、自分の気持ちが剥き出しになった、支離滅裂な言葉。本当なら言葉の意図を掴めているのかどうかも定かではないような、心情の吐露だというのに、彼女は俺の言葉を黙って受け止めてくれていた。
「でも、終わりがあるから。終わりが見えたから、このままが、嫌で。お前を、感じていたくて。俺はお前と、笑って、終わりたいんだ」
言葉を紡ぐたびに、俺の頬を止めどなく雫が伝った。
ああ、そうだ。やっと俺の望みがわかった。
俺は彼女と笑顔で最期を迎えたいのだ。そのために、彼女と笑顔で今を生きていたいのだ。
「……そっかぁ」
いつかのように澄んだ声で、彼女はそう呟いた。
「春人君がそんな風に思ってくれてたなんて、私、思いもしなかった。……私もね、春人君に何て声をかければいいかわからなかったんだぁ。自分の身体のことを思い知らされて、辛い気持ちを抱えているかもしれない春人君に、私はなんて声をかければいいんだろうって、ずっと悩んでた。それで、わかんなくなっちゃって、変なことしちゃって、空回りしてた」
「……かわいかった。俺のために気ぃ遣ってくれてるんだって思って、申し訳なかったけど、嬉しかった」
今朝の彼女のホールドを思い出す。俺の予測通り、それは彼女なりの気遣いであったようだ。
「えへ、そっか。全部お見通しだったかぁ、ちょっと恥ずかしいな」
俺の言葉に対し、彼女はおどけたように笑った。
つられて俺も、ぎこちのない笑みを浮かべた。
と、彼女が身じろぎをしたので、俺は彼女を胸の内から解放する。
すると彼女は、俺の両の掌を自身の小さな両手できゅっと握り、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「あのね、春人君」
「……おぅ」
「私も、私もね。春人君と笑って終わりたい。ずっと覚えていられるように、春人君を私に刻んでほしい。だからね、これからは、春人君が言いたいこと……何でも私に言ってほしいの。私も、言いたいことをちゃんと、春人君に伝えるから」
「……わかった。約束する」
「ん、よし」
彼女は俺の言葉に満足気な笑みを浮かべた。
「じゃあさっそく我儘言っちゃお」
「何だよ」
「ぎゅってして?」
「さっきやった」
「いーの!!今度は私が上ね!!」
「……ははっ、わかったよ」
彼女の可愛らしい我儘に思わず相好が崩れた。
言われた通りに彼女を持ち上げ、彼女の胸元に自分の顔を埋めた。
「ふふ、よしよーし」
「やめろ、また泣くだろ」
「やめません〜」
「なん、だよそれ……」
俺が抗議の声を上げても構わずに、彼女は俺の頭を優しく撫で続けた。
まもなく、さっきまで抑えられていたはずの感情が再び溢れ出し、俺は暫しの間、彼女の胸の中で涙を流した。
あぁこれでは、妹というよりは、姉の方だな、なんて、取り留めのない考えが、頭の中に浮かんでいた。




