瞳に映るあなたの半生、ノイズの走る私の一生
「あ、これダメなやつだ」
夢の中の割に、夢の内容がまずいものであると、俺は本能的に知覚することができる。今から覚悟決めとけよという一種の防衛機制なのかもしれない。
ただ、夢なんて早々簡単にコントロールできるものなんかじゃないから、今からまずい内容の夢を見ることはわかっても、それから逃げることなんて出来やしない。
悪い夢、なんていうけれど、俺の場合はホラーな体験とかでもなんでもなく、純粋に過去の思い出が悪い夢として俺の前に浮かび上がってくる。
何せ俺の過去は嫌なことが本当にたくさんあった。だから悪い夢のバリエーションは本当に様々だ。
あぁ、どうせ今日も寝汗すごいんだろうな、なんて思いながら徐々に浮かび上がる光景に目を向けた。
「大凶じゃん」
すぐに察した。あの日の夢だ。よくわかる。
その頃はすでに高校を中退して数年が経っていて、俺はといえば高卒認定試験の勉強をしていた。
活動拠点はひたすら自宅。母さんと親父で暮らしていたあの自宅だ。
それで、いつものように夕方まで勉強していたら、めずらしく親父が早めに帰ってきた。
めずらしく「おかえり」なんて言いながら出迎えたら、親父の後に続いて初恋だった顔見知りの女が入ってきた。
当時の俺はその時点でもなんで二人が連れ立って帰ってきたんだろうなんて呑気なことを考えていた。もうその頃には、親父と栞が肉体関係を結んでいた光景を自分の中で無かったものにしていた。本気で忘れていたのだ、その事実を。心が壊れないように。
だから当然、
『春人、俺はこちらの栞さんと再婚しようと思っている』
『ハル君。昔、言ってたよね。私と家族だったら良かったのに……って。これから、私、ハル君と家族になるの。これからは、私もハル君のこと、守るから。お母さんって呼んでくれると……嬉しいな』
なんて言われたら当時の俺の脳は再び壊れる。いや実際壊れた。8月の高卒認定試験には落ちた。
今なら「教え子に手出して恥ずかしくないんかクソ親父」、とか、「家族になりたいってそういう意味じゃねえから」、とか言って怒鳴り散らすことが出来たんだろうが、まあ当時の俺は今の20倍ぐらい栞のことが大好きだった。それゆえ、こう思ってしまったのだ。
栞が幸せならそれでいい、と。
馬鹿馬鹿しい、とまで思えるようになったのは実は最近からだ。人形と過ごしてしばらく経ってからようやく、俺は当時の栞第一主義な自分の奴隷根性を鼻で笑うことができるようになったと思う。
ただまあ、今回の夢は過去の回想なわけで。俺は当時の奴隷根性とそれに準じた台詞を機械的に発露することしかできない。そしてダメージだけは今の俺に返ってくるのだ。
『―――、おめでとう。栞の笑顔が見られて、俺は嬉しいよ』
能面みたいな顔してそんなこと言うんだからな、俺。
そして態度にはそこまで出さないものの内心浮かれている婚約者二人は俺の表情には全く気付いていない。
あー、覚えてる。こっからが地獄。
別にしろって言ってもないのに馴れ初め語りだすもんだからこちらとしてはたまったものではない。
そして夢はそこで覚めてはくれないので、俺は今から延々と馴れ初め話を死んだ顔で聞くことになるのだ。
あ、栞が口を開いた。今から来る。
『実は私ね―――――』
『っでえええええええええええええええええぇぇええええええい!!!!!!!』
俺の夢は強制終了した。
突如栞の頬にむかって炸裂した、人形のドロップキックによって。
寝台から音もなく上半身を起こす……ことはできなかった。
人形が四肢を使ってがっしりと俺の顔をホールドしているものだから、非常に重い。
「下着見えるぞ」
『………ッ!?!?』
彼女がすぐに距離を取った。フェイスハガーもこれぐらい楽に剝がせるのなら、ノストロモ号の乗組員も楽だったろうなと思った。
「おはよう」
『……おはようございます』
「それで、なんで朝からエイリアンごっこを……?」
『春人君がうんうんうなされてたから、夢に介入しようと思って、つい……』
「お前俺に夢見せようとしてる時いっつもあんなんしてるの?」
『い、イヤ!!そ、そんなことはないよ!!それはしてないよ!?』
彼女がわたわたと両手を振る。
『ただ……』
「ただ?」
『春人君に呪われちゃったから……傍を離れないって……呪い…』
「……」
『……』
人形は顔を赤らめながら、所在なさげにいじいじと人差し指同士を合わせている。
傍を離れないでというのはそういう意味ではなかった。俺の周りには言葉の意味を間違って捉える女が多すぎる気がする。
が、まあ、人形に関してはセーフだ。どんな間違いをしようと俺は許せる。
「……」
『……』
「最高だなお前」
『……!!……んへへ………』
右手で頬を撫でてやると、彼女は花が咲いたように笑った。
「いやほんと助かった。ありがとう」
『ふふふ、どういたしまして』
朝食後に改めて人形に礼を言うと、彼女は首をこてんと傾けてはにかんだ。
「いいドロップキックだったよホント」
『ああいうのは物理攻撃が一番だからね。蹴り入れたら一発だよ』
「あいつそのまま親父と一緒になって吹っ飛んでいったからな。最高だった」
『んへへ。もっと言って』
「最高」
『んふふへへ』
「(そんな笑い方するんだ……)」
一通り彼女を撫で繰り回してから時計をチラとみると、時刻は10時を回った所だった。
「今日は予定が盛りだくさん」
『どこか行くの?』
「午後から検診。あと薬」
『そっか。そろそろ切れてくるころだもんね』
「お前もよくわかってくるようになってきたな。じゃあそれまで何するか分かるか?」
『洗い物?』
「それは絶対やらないといけないことだ」
そうじゃなくて、と言いながら、俺は人形の両頬を両手で摘まむ。
その眼窩には、まだ納めるべきものを納めていない。
『ふみゅ』
「店長から教わった技術、お前に見せてやる」
『ふみゅァ!!』
何を言っているかわからないがとにかく可愛いと思った。
「やべえ、こいつ正規品と違う」
『当たり前では……?』
グラスアイの取り付けについて、俺は初手から苦戦を強いられていた。
基本的に人形にグラスアイを取り付けるには、倉良場さんが言ったように、眼窩に直接眼球をぶち込めばいいというわけではない。
取り付けのためには、まず人形の頭部を胴体から離し、その上で頭部から顔の前面部を取り外す必要がある。
が、彼女は呪いの人形。俺が倉良場さんから教わった方法では、彼女の部位パーツはうんともすんとも動かない。
「頭部が磁石でくっついてるって聞いてたのに…」
『そんなわけないじゃん…。私、呪いの人形だよ?」
「いや、お前…呪いの人形始める前はこう、ゴミ捨て場とかに捨てられた正規品の人形とかじゃなかったの…?」
『あんまり昔のことは覚えてないから…。ていうか、仮に私が正規品だったとして、店長さんから教わったメーカーじゃない可能性普通にあるからね?』
「大手だって言ってたのに……」
仕方がないので、顔パーツを外すことができる起点となる突起なりなんなりが無いか、人形に顔を近づけてあちこちと探ってみる。
「うーん、それっぽいものないなぁ…」
『…………ぁ』
首の後ろに手を回し、うなじの方を触っても、つるつるとした肌の感触があるだけで、それらしき所はない。
「首は……?」
『はぁ……っ、ちかぃ……』
顎をくいっと上げても特に断面のようなラインは見当たらない。まさか外れない仕様だとでもいうのだろうか。
「ごめんもっかい顔見させて」
『ぁ、春人、君の、顔……こんな……近く、に……』
「なんで唇突き出してんの?」
『だ、だってぇ……』
……まずい。どこを探してもなにも見つからない。さては本当に取り外せる仕様ではない……?
「…ぐっ、このっ……」
『うん入らない入らない痛い痛いいたい』
やはり直接グラスアイを押し込むことも難しいようだ。
『ちょっ、痛いよぉ!!』
「ごめん……。しかしどうしたもんかな。このままじゃグラスアイつけらんないぞ」
『生まれてこの方付け替えとかやったことないからなぁ……。私もわかんないよ……』
「なんかこう、お前、気合い入れたら外れるとかないのか?」
『えー、気合いぃ?』
「呪いとか情念の塊みたいなもんじゃん。こう、外れろーって思ったら外れるんじゃないのか」
『絶対無理だよ』
「大丈夫だ!!試しにやってみろ!!俺も邪念送っとくから!!」
外れろー外れろーと呟きながら、人形に向かって両手を翳す。正直これで上手くいくとは思わないが、ほぼ5桁したグラスアイが無駄になるぐらいなら神頼みでも精神論でもなんでもやるつもりだった。
『わかった!!わかりましたぁ!!やるからそれやめて!!』
人形はパーの字に開いた両掌を自分の両頬に向けて翳した。
『……ふんぎぎぎぎぎぎ!!!!』
「す、すげえ!!お前を中心になんかすごい圧がかかってる!!」
歯を食いしばり苦悶の表情を浮かべる人形。
彼女の身体付近には黒い靄がかかり、俺の身体は重圧で身動きが取れなくなり、リビングのドアノブが弾け飛んだ。
「敷金――――ッ!!!!」
『あっ、あっ、うわああああくるううううううう!!』
俺の苦悶の叫びをよそに、人形はどうやらフェイスパージの取っ掛かりを掴んだらしい。
俺は彼女を中心に外側へと拡散していく重力に全力で逆らいながら、彼女の顔に両手をかけた。
『きてぇぇぇはるとくうぅぅぅううん!!!!』
「っしゃあいくぞおらあああああ!!」
すぽっ、という間の抜けた音が聞こえた。
途端に、先程の靄や重圧が霧散し、俺と俺の手の中にある顔パーツは共にベッドの方へと倒れ込んだ。
「取れた!!おい取れたぞ!!やっぱやってみるもんだなおい!!」
『いやすごいよ。私の可能性感じた。すごい私』
「うわ喋った」
声が聞こえてきたのは胴体のある人形の方ではなく俺の手の中から。前パーツのみとなった人形の顔部分が、ぱくぱくと口を動かしていた。
「なんでその状態で喋れてんのお前」
『ふふふ、呪いの人形に道理を説かないでほしいね』
それもそうだった。
「ていうか中身こんな感じになってんだ」
『えっ、ちょっ、やだあ。なんか恥ずかしいよ……』
「お前の中のガラス片……もう丸見えになってるぜ…?」
『あっ、ちょっとそれは気持ち悪いかも』
「ごめん」
顔パーツをひっくり返し。
内側にあった、俺が壊したグラスアイの破片を丁寧に取り除く。
くすぐったい?ごめんて。
次に内側から新しいグラスアイをはめ込み、隙間に接着剤を流し込む。
こうしなければグラスアイの固定はできない。さもなければ簡単に頭内部へとアイが落ちてしまう。
あっやばっ、両目がそれぞれ外向いててめちゃくちゃ気持ち悪いことになってる。どうしよう。
…えっ、なんで固定してんのにお前眼球動かせんの?怖。
接着剤を十分に乾かした後、顔を失いおろおろ動いている胴体に、顔パーツをはめ込めば。
「―――ほら。できた」
『……ぁ。これが、私』
鏡の前には、ワインレッドの虹彩と、澄んだ黒い瞳孔を持つ美しい人形が、呆けたようにして立っていた。
『春人君が選んでくれたの……?』
「プロの意見は若干参考にしたかな。あんまりだった?」
『ううん。……とっても綺麗な色。別人になったみたい。前の眼より、好きだな』
彼女は感触を確かめるように、ぺたぺたと自分の瞳を触る。
俺はといえば、悟られないよう平然そうな態度をとっていたが、内心では早鐘を打つように心拍数が上がっていた。もし『うーん微妙』などと言われたらどうしようなどと怯えていたのだ。反応を見るに、彼女が新しいグラスアイを気に入ってくれたようで、本当に良かったと思う。
『へへ、私、春人君のものにされちゃった』
「はいはい」
『あっ、照れてる?』
「照れてないから!!」
『反応的に図星じゃんねぇ』
彼女は俺の様子を見てころころと笑う。
そして、ひとしきり笑ってから。
『―――ありがとうね。春人君。私、こんなに誰かに大事にされたの、きっと初めてだと思う』
「おう。まあ呪いの人形ならそんなもんだ」
『ふふ、そうだね。……私ね、さっきも言ったけど、昔のこと、ぼんやりとしか覚えてないんだよ。きっと、思い出したくないことばかりやってきたからなのかなって、思う』
彼女はどこか遠くを見つめ、寂しげな表情を浮かべた。
過去に思いを馳せようとしたのだろうか。
だが、その憂いを帯びた表情はすぐになりを潜め、彼女はいつものように屈託のない笑顔を浮かべた。
『でも、春人君のこと、私絶対忘れないと思う。どれだけ私が時を経ても、いつか消えることになったとしても、私が無くなるその時まで、私は春人君のこと、絶対忘れない』
「……そっか、大きく出たな。……ありがとう」
『うんっ!!』
大きく頷いた彼女は、俺の胸にむかって勢いよく飛び込んできた。
俺は彼女の綺麗なドレスに皺がつかないよう、丁寧に、彼女の身体を受け止めた。
時計を見ると、予約の時間まで後90分。何とも微妙な空き時間だ。電車を2回乗り換え、しばらく徒歩を続ければおよそ70分ほどで目的地のエントランスに辿り着く。
差し引き20分をダラダラ過ごす選択肢もあるが、20分という微妙な時間では休めるような気がしない。
というわけで、若干早く着くだろうということを想定しながらも、今のうちから家を出ることにした。
『あ、私も行っていい?』
「良いけど大丈夫かな。三流巫女に絡まれたりとかしないといいけど」
『うーん、じゃあ2択なんだけど』
「おう」
『外出先で一緒に襲撃されるのと、私が留守番してる時に襲撃されるのとどっちが嫌?』
「俺の傍を離れるな」
『いぇーい』
買ったばかりの茶色いトランクケースに、『ま、私はそう簡単に祓えないけどね』なんて嘯く彼女本体と、昔使っていたスマートフォンを入れる。スマートフォンを入れたのは、下手に会話が出来ない電車内などで意思疎通を図るためである。SIMカードは入れていないが、そこは俺の方のデザリング機能でなんとでもなる。
トランクケースの中の素材については、俺なりにかなり気を遣ったつもりだ。
中身がそれなりにふわふわしているので、人形が居心地の悪さを訴えることはないはず。
「どない?」
『何も見えない』
「そっちじゃない」
彼女からはそれぐらいの文句しか飛んでこなかったので、恐らく問題はないのだろうと思った。
『ねえ』
「ん?」
『暇だね』
「お前はそうだろうな。中暗いし」
『何か面白い話とかないの?』
「昨日卵割ったら双子だったな」
『うーん、他には?』
「四六時中いっしょにいるんだ。俺だけが体験したことの方が少ないだろ?」
『それもそうだね』
トランクケースの隙間から漏れ聞こえてくれる彼女の声と話しながら、最寄りの駅へと向かう。
駅から近いマンションなんて家賃が高くて手が出せなかった。だから、俺が最寄り駅に辿り着くためにはそれなりの時間がかかる。
住宅街を抜けた先の横断歩道では、すでに緑が点滅していたので、早々に諦め歩幅を緩める。
車道の間際に辿り着いたころにはすでにライトが赤を指していたので、その場で立ち止まり辺りを見渡した。ドールショップに行く時にこの道は使わないから、ここを通るのは久しぶりのことであった。
「あ」
だから、向かいにある公園の桜が咲いていたことに、今更ながら俺は気付いた。
実の所、桜にはいい思い出がない。今日見た夢は桜が咲いていた頃の出来事だった。だから、桜を見ようものなら否が応でも思い出すのだ。2人の恋路の当て馬になった惨めな自分を思い出すのだ。
そんな感傷が蘇ったせいか、自然と言葉が口を突いて出た。
「あった」
『ん?』
「話。他人事で聞いたら面白いかも。馬鹿みたいだし」
『どんな話?』
「俺の昔話」
『……いいの?』
人形が遠慮がちな様子で俺に尋ねてくる。
自分で言うのもなんだが、俺の抱えている事情は多分そこらの人より闇が深い。彼女はそういった俺の事情に気を遣ってくれたのか、俺の過去を問いただしてきたことは一度もなかった。
だが、彼女なら……いや、彼女にだけはちゃんと知っておいてもらいたいと思った。俺が一体どのような半生を辿ってきたのか、何を思って生きてきたのか、ということを。
「……まあ、いいよ。隠すもんでもないし。病院に着くまでちょっとかかるしな」
呪いの人形に重いやつと思われるのは癪だったので、本当のかとは言えなかった。
ややあって、彼女はゆっくりとした様子で口を開いた。
『…ちょっと、嬉しい、な。私、春人君のこと、ちゃんと覚えておきたかったから。春人君のこと、もっと知れるんだ』
「……」
重さ、どっこいどっこいだなあ……。
大サービスだ。お前が1番聞きたいところから教えてやる。
は?時系列で?日が暮れるわ。
……あー、栞ね。まあそりゃそうだよな。じゃああいつとの因縁から話すことにするか。ま、あいつ関連の話が全体の6割ぐらいになるけどな。
えーと、初めて栞と話したのはいつだったかなあ…10歳ぐらいだったと思う。そう、小学4年生の時だな。参観日の2日後。日曜挟んで月曜日の朝だ。
前も言った通り、俺は生来から文字の読み書きが苦手でさ、やっぱりその関係でクラスじゃ浮いてて、ひとりぼっちだった。なんなら軽くいじめられもした。
そんな時だ。急に俺みたいなやつに話しかけてくれる女の子が現れた。えらく愛嬌のある女の子でな。素気なくしてやっても構わず話しかけてくるんだ。
……あ、おい言うなよ。溜めに溜めてから言おうと思ってたのに。……まあ察しの通りそいつが栞だ。
そんで、何度無視しても構わず栞は話しかけてくるもんだから、つい一度、俺は反応しちまった。そしたらあいつ、嬉しそうに笑ったんだ。「やっと私のこと見てくれた」、なんて。
それから栞は、なにかと俺の世話を焼くようになった。例えばどんなのかって?
うーん、まあ1番は勉強かな。あいつ地頭は悪いけど勉強は出来てさ……。まあ、少なくとも俺よりは成績が良かったから、勉強面では本当にあいつの世話になった。ていうかあいつが色々助けてくれなかったら親父のいる一貫校には受かってなかったよ。
後、いじめから守ってくれたりもしたな。栞はかなり動けるタイプだったから、自分の身を守る術とか結構教えてくれた。……当たり。俺の右ストレートとかまさにそれだ。
気付けば栞とは四六時中一緒にいた。一緒に登校して、一緒に下校して。その上ほぼ毎日のペースで家に遊びにくる。晩飯まで作ってくれる時もあった。そんなのが高校に入るぐらいまで続いてた。
俺の母さんは小学生になる頃にはもう死んでたし、親父は教員やってたからさ。栞と知り合うまで、放課後はずっと家に一人でいた。……だから栞が家に遊びにきてくれたのは、俺にとってとても嬉しいことだったんだわ。
それでもある日さ、急に母さんがいないことに耐えきれなくなったんだよ。だから栞につい言っちまった。母さんがいないのは寂しい、栞が家族だったら良かったのになって。
そしたらあいつなんて言ったと思う?俺のこと抱きしめてこう言ったんだ。
「じゃあ、私があなたの家族になる。世界中のみんなが敵に回っても、私だけは味方でいるからね」
……いやそうだろ、お前もそう思うだろ?こんなん絶対好きになっちゃうじゃん普通。ましてや女に耐性ない思春期の餓鬼がさ、そんなこと言われたら確実に堕ちるじゃん。なんなら両思いじゃないかとまで思うじゃん。実際俺も例には漏れず、栞に惚れてしまったんだわ。それもかなり、盲目的なレベルでな。
恋心を自覚してからは、俺も栞に見合うような男になろうと思うようになった。勉強も頑張るようになったし、運動も、料理だって、頑張ってできるようにした。いつか栞に頼らなくてもいいように、俺が栞のことを守れるようにってな。
…で、まあ、そんな矢先に見ちゃったわけだ、2人の情事。厳密には防衛本能のせいで最近まで忘れてたけどな。……違う、責めたんじゃないよ泣くな泣くな。
明確に2人の関係を知らされたのは、それから3年後?くらいかな。急に結婚報告に来るもんだから本当に度肝抜かれた。あ、その時栞は一応高校卒業してたよ。
……栞はな、親父に一目惚れだったらしい。いつだと思う?……そう、参観日。
あの日偶々親父の学校、何かで休みだったんだよ。だから珍しく参観日に来てくれた。そこを一目惚れ。
こっからは俺の想像入るんだけど、多分栞の性格だから、親父に話しかけにいったと思うんだ。そしたら親父はきっとこういうこと言うよな。息子のことよろしくみたいなこと。
……惚れた相手に言われたことって、なんか叶えてやりたくなるよな。だから多分俺は栞によろしくされたんだ。俺に世話を焼いてくれたのは、別に俺に気があったからじゃない。あいつからしたら、「俺」とは自分が惚れた男の息子。だから自分の子供の世話をするように、あいつは俺の世話をしたんだ。同い年にやることかよ?ほんと信じらんない。
思えば、あいつは親父が帰ってくるまでずっと家にいた。晩飯をいっしょに食った時、あいつは俺の顔なんてきっと見てなかった。あいつが見てたのは親父が美味そうに飯を食ってる顔だったんだ。
こっからは本人が言ってたことだから全部事実なんだが、栞は中学3年ぐらいから親父にアプローチをかけてたらしい。最初は親父も取り合ってなかったみたいだけど、まあ妻を早くに亡くしてて、息子の面倒を見てくれる顔も気量もいい女に、一途にアピールされてたらどっかで堕ちるわな。成人するまで手は出すなよとは本気で思うけど。
今思って1番笑っちまうのは、あいつら清い交際を装って俺に報告をしてきたことだ。あいつら俺に情事見られたの気付いてなかったみたいでな……どんだけ盛ってたんだよって感じだよな?うける。
そんで、記憶取り戻した時には親父はもう死んでるしな。糾弾もできなかった。まんまと逃げられたって感じ。
ほんっと、笑えるだろ。あいつらにも、馬鹿みたいな自分にも。
『笑わないよ。辛い思いをしたんだから、笑わない』
「そうか?でも俺はただの当て馬だったんだ。勝手に惚れて、勝手に失恋した。道化みたいなもんだ。全部勘違いした俺が悪いんだ」
『本気で思ってる?全部自分が悪いって』
「………」
「……ごめん、嘘ついた」
『うん』
「そりゃ俺も、栞にちゃんと告白しなかったのは悪かったと思う。意思表示してないんだからあいつが誰と結婚しようが俺にそんなこと言う資格はない」
『うん』
「でも親父はねえよ。なんで親父なんだよ。惚れた女の子が義理の母親になるとか針の筵じゃん。最悪な気分になるじゃん。そんなの俺は悪くないじゃん」
『そうだね』
「ていうか栞も察しろよ。なんで俺が何の気もないと思ってるんだよ。だから地頭が悪いんだ。家族になるってそういう意味じゃねえし。親父も察しろよ、いくらコミュニケーション不足だからって俺が接してる女の子なんて栞ぐらいじゃん。なんで何の気もないと思ってるんだよ揃いも揃って」
知らず知らずのうちに、俺は話す力に熱をこめていた。諦念の域に達していたはずの怒りが、未だ自分の内に秘められていたことに、今更になって気付いた。
『……落ち着いた?』
「ごめん。熱くなりすぎた」
『それだけのことを経験したんだもん。当然じゃない』
一呼吸を置いて、彼女は口を開いた。
『今のこと全部、栞さんには伝えたの?』
「……出来てない。なんか、あいつと向き合うのが、疲れるから」
『……そっか』
そう言って彼女は口を閉じた。
それ以降俺も言うことがなくて黙ってしまった。
妙に居心地の悪い時間が続く。
俺たちはすでに駅のホームについてはいるが、ダイヤの乱れか何かで電車が来るのはまだ先だ。だというのにこんな沈黙を続けているのは精神衛生が良くない。
俺は無理矢理口火を切ることにした。
「これでよかったのかもしれない」
『ん?どうして?』
「あいつら、元々教師と教え子の関係だったから、向こうの親からは大反対食らってた。で、その関係かわかんないけど近所で話が色々広がって、元の家には居づらくなってさ。ほぼ駆け落ちみたいな感じであいつら親父の実家に引っ込んでった」
『そんなんでよく実家が許してくれたね』
「とっくに死んでたからな。誰も文句なんて言わない。実家の家屋残してんのは固定資産税の無駄だと思ってたけど、あいつらにとっちゃ奇跡的に役に立ったってこった」
『……それで、それがどうよかったの?』
「…合法的に口煩い親父から離れられた。通いたい大学が遠ざかるから嫌っつってな。そんでもってその後、お前と案外楽しく過ごせてる。あいつらがくっついて実家に引っ込んでなきゃ今の生活は無かった。……世の中どうなるかわかんねえな」
『……なるほどね』
得心したように彼女が呟いた。
それと同時に、聞きなれたメロディーがホームのスピーカーから流れてきた。
やっと電車が来たのだ。
間もなく、見慣れた銀色の車体が俺の視界いっぱいに広がった。
「他の話はまた今度だな」
彼女に向かって声をかける。
彼女には一応スマホを持たせているので、アプリケーションを介して車内でも会話をすることはできる。が、俺の身の上話をメッセージアプリで打ち込むのはあまりにも億劫だ。進んでやりたいとは思わなかった。
『……わかった。じゃあ最後に一つだけ。……これで良かったっていうけど、やっぱりさ、辛い過去は無い方が良くない?』
「……まあ、それはそうかもしれんけど……どうせ過去は消えないし、過去が連続して今があるわけだからな…」
人形の言葉の意図が読み取れず、自分自身要領を得た説明ができない。
それでもなんとか考えを形にして、人形に伝える。
「……まあ、ある程度受け入れないと先には進めないよな。特に俺みたいな人間は」
正直人形にとってこれが納得のいく解答だったのかわからない。しかしながら目の前の車両のドアは今まさに開かれ、俺はそこに乗り込む必要があった。
もう電車乗るから後でな、なんて人形に声をかけると、うん、という声が聞こえた。
だが最後に。
『その肝心の過去が、私思い出せないんだよねぇ……』
なんて、俺に向けたのか独白なんだかよくわからない彼女の言葉が、トランクケースの中から聞こえた。
ヘッドパーツは気合いで取れるのはあくまで呪いの人形だけなので、本作を参考にグラスアイの付け替えは絶対にしないほうがいいと思います。そんな人いないと思うけど。
あとドールクラスタの人見てたとしたら毎度毎度ごめんなさい。
いつもご覧くださって本当にありがとうございます。
誤字報告をしてくださった方も本当にありがとうございます。お手数おかけしてごめんなさいね。




