泣いた人形
ちょっと性描写ある。ヤバそうだったら直すよ…。
ヤツを殴り飛ばした後、呪いについて色々とクソ人形に問いただしたいことがあったのだが、電気のついていない廊下の暗がりへと吹き飛んだクソ人形はその後忽然と姿を消してしまった。
だがそれは十分予想できたことであった。俺がゴミ袋にヤツを入れた後、ヤツは何らかの方法でゴミ袋を抜け出し、鍵をかけた俺の家の中に侵入していたのだ。原理は不明だが、クソ人形にはなんらかの特殊な移動能力が存在しているのは明白だった。
『コレカラ死ヲ迎エルマデ覚悟シテオクコトネ。私ハイツダッテアナタノ前ニ現レルコトガデキルノダカラ』
クソ人形の言葉を反芻する。俺の解釈が間違っていないなら、クソ人形の言葉の意味は「俺がこれから死ぬまでちょっかいかけ続けてやるからな」ということである。
俺の確固たる意志をぶつけたにも関わらずそんな言葉を飛ばしてくるとは、クソ人形は大した胆力である。
『ネエ、怖イ?怖イヨネ?ダッテ、死ヌノガ怖クナイ人ナンテイナイモノネ?』
『コレカラズウットアナタニアゲル。死ニムカッテイク苦シミヲ。恐怖ヲ!!』
『アラァ?父親ガ殺サレテ何ヲ思ッタノカシラァ?怖イ?憎イ?』
思い返せば、あのクソ人形はことあるごとに俺を怖がらせようとしていた。すなわち、これからヤツは俺がポックリ逝く3ヶ月の間、ずっと俺を怖がらせようと小賢しく立ち回ってくるのだろう。
そうはいくか。
俺は死ぬまでの短い間の時間を有意義に過ごすと決めた身。そう簡単にポッと出の呪いの人形に残りの人生を明け渡してやる気は全くない。
「かかってきやがれ、クソ人形」
俺は誰もいない虚空に向かって呟いた。
返事はなかった。
後ドアを閉めるのを忘れていたので二部屋隣の兄ちゃんに俺が呟いている所を見られ死ぬほど恥ずかしい思いをした。
最初のクソ人形のちょっかいはあの後すぐのこと。俺がテレビでゲームをしている時。
『クフフフフフ』
ゲームコントローラーの上にクソ人形が突然姿を現した。
着地位置はAボタンに添えられていた俺の指の上。
当然のことながら、人形によってかけられる圧力は指にボタンを押させる力としては十分である。
テレビ画面に映し出されたキャラクターは押されたボタンに連動しジャンプ。そのまま画面内のマグマ溜まりの穴に落ちていった。
「……」
『クフフフフフフフフッ!!!!ドーオ!?アナタニハ娯楽ヲ楽シム暇スラ与エナイワ!!コレニ懲リタラ―――――、』
「クッパの!!前でェッ!!!!!それはッッ!!!!!やんなよォォ!!!!!!」
『イヤァァァァァァ振リマワサナイデェェェエエエェェェェ!?!?!?』
そのまま窓を開けベランダの方に人形を射角30度で投射。
クソ人形は可愛い声を上げて星になった。
次の日の朝のことである。
クソ人形は昨晩俺が就寝したのをいいことにとんでもない夢を見せてきやがった。
まあそれについては大体返り討ちにすることができたので特に問題はなかった。夢については後述。
さて話は戻って今朝。悪夢を見せられた俺は夜型にも関わらず早朝の起床を余儀なくされ、眠い目を擦りながら洗面台へと向かった。
現状において俺の目は平常の1割程しか開いていない。勝手知ったる我が家であるためなんとかどこにもぶつからず歩けているだけで、本来であれば何かに躓いて転んでもおかしくはない程、俺の視覚は何の情報も得られていなかった。
そのため当然こういう事故が起こる。
『クフフフギュムゥゥ………』
「いった」
図らずもクソ人形の胴体を蹴倒し踏みつけてしまった。
『チョット、ナンテコトヲシテクレルノカシラ!?!?』
「あ、ごめん……。大丈夫?」
『エ、何デ心配サレタノ私』
「危ないから気をつけろよ」
その時の俺は眠くて頭がふわふわなのでクソ人形に対する対応もふわふわだった。
ソンナコトヨリヨクモフンダナとギャーギャー喚く人形をそのまま無視し、ほとんど目もあけずに洗面所に入り込んだ。
眠いながらも慣れた手つきでコップを取り出し蛇口を捻り水を注ぐ。
そのまま口に水を含みガラガラと15秒。
『チョット!!!!話ハマダ終ワッテッテイヤァァァァァァァァァアァァァ!?!?』
そりゃ洗面台の蛇口前に瞬間移動されたら直撃受けるよ。
「あ、ごめん着物濡れたよな。干すわ」
『ヤ、ヤダチョットマッテ脱ガサナイデェェェェエエエェェェェェエエエェエェ!!!!!』
ついでに人形本体も着物と一緒にベランダの物干し竿に引っかけてやった。じめじめしてたしな。
あの後クソ人形は布団が干されているかのような姿勢のままスンスン泣いていた。流石に哀れに思って着物はきちんと着せてやった。
次の日のことである。
久しぶりに自炊を思い立った俺は、冷蔵庫から取り出した食材を取り出していた。
「面子的に野菜炒めだな」などと一人で呟きながら手際よく野菜を水ですすぐ。
手始めにまな板の上に2分の1になっているキャベツを置き、包丁で切りこみを入れようとした、その時。
『クフフ―――、」
「ストップ」
『―――フ?エ?ナニ?』
「お前今……包丁持ってる俺の前に現れようとしたな?」
『エ、ソレハモチロンアナタニヤスラグ間ヲ与エナイタメニ……』
「いや、それ事態はこの際いいんだ」
『コノ際イインダ……』
「問題なのは包丁を持っている人間の前に顔を出すということなんだ。…包丁は簡単に人を傷付けることができる道具だ。もし俺がうっかり包丁を振り下ろしていたらどうなると思う?…お前の顔が取り返しのつかないことになっていたかもしれないんだぞ?」
思い返されるのは亡き母の言葉。いつも優しかった母親は、唯一俺が危ないことをする時だけは烈火の如く怒ったものだ。
『包丁を持っている人にはちょっかいをかけてはいけない。』
―――亡き母の教えを俺は今でも忠実に守ることにしている。
『イヤ何ナラ散々私殴ラレテル―――」
「言い訳しない!!」
『ヒャイ!!』
「『ひゃい』じゃなくて『はい』だ!!可愛い声出してんじゃねえ!!返事は!?」
『ハイィィィッッッッ!!!!』
「よし…。飯が出来たらまたちょっかいかけていいからよ、今はいい子で待ってろ…な?」
「エ、ナンデソンナ急ニ優シクスルノ……」
十数分後。
「それはそうと俺の飯邪魔してんじゃねぇ!!!!」
『イヤァァァアアァァァァァ!?!?』
右ストレート。
次の日のことである。俺は珍しく河川敷を散歩していた。
春の陽気と太陽が俺の身体をじんわりと温める昼下がり、俺は鼻歌を口ずさみながらアスファルトで舗装された道を歩く。
そして大体気分良くなっている時にこそやつは現れるものである。
「……?」
と、思っていたのだがクソ人形が真正面に現れる気配はない。
「今までの通りならここら辺でクフクフしてくるんだが…。おい、どうしたクソ人形、出てこんのか」
それでも人形は目の前に現れない。
「毎回返り討ちにするからついに諦めてくれたのか…?」
『違ウワヨ…』
「うわっびっくりした」
人形はいつものように真正面からではなく真後ろから姿を現した。
人形は心なしか元気の無さそうな顔つきをしながら、両手を左頬にあてたポーズを取っていた。
『フフ、ヤット驚イテクレタノネ。ワァイ…」
「おいおいいつもの元気がないぞ?どうした?」
「考エテルノヨ…。ドウスレバアナタヲ怖ガラセラレルノカヲネ…。後左頬ガ痛クテ元気デナイノヨ……」
左頬というと…俺がよく右ストレートを当てている箇所か。
…今の俺は比較的気分が良い。それは言い換えれば心の余裕があるということだ。心の余裕があれば自分だけでなく他者を気遣うことが容易になる。
よって、今の俺はたとえ仇敵であろうとこういった言葉をかけられる。
「…悪いな。強くしすぎたかもしれん」
『…謝ルナラ殴ラナイデヨォ…』
「呪いの人形とか接し方わかんねえんだよ。そもそもなんで呪いの人形が殴られて痛いんだよ…」
『私ダッテシラナイシ…元カラソウダッタシ…』
「はぁ…じゃあ今度来たら手加減してやるよ」
デコピンぐらいにした方がいいのかもしれない。
閑話休題。
「で、悩んでるのか?どうしたら俺を怖がらせられるかって?」
『エ?…マアネ。本人ニ聞イタッテ仕方ナイダロウケド』
無論馬鹿正直に俺の弱点を晒すつもりなんてない。
俺の目的はクソ人形に連日の襲撃を止めてもらいたいということをやんわり伝えるということだけだ。
『アナタソモソモ恐怖ヲ感ジタコトアルワケ?』
「流石にあるわ。ていうかそれがエグすぎてお前が全く怖くないのまである」
『ヘェ…ソウナノネ』
「なんだよ」
『ナンデモ』
人形は得心がいったように呟いていたが、俺には何のことだかあまりよくわからなかった。
「この際だから言っとくけどさ」
『ナニヨ』
「呪いの人形向いてないよお前」
『……』
「病人の俺にすぐ殴られるし、簡単に捕まえられるし、やたら喋るし、ていうかそもそも怖くないし」
『……』
「辞めたほうがいいと思う。辞められるんか知らないけど」
『…辞メラレナイワヨソンナノ。ダッテ、人ヲ呪ウコトガ、私ノ…私、ダカラ』
先程まで黙りこくっていた人形は、やけにはっきりとした口調で言い切った。
思い返せば、アイツは以前人に呪いをかけることが存在意義だとまで言っていた。そこまで意志を固めているのなら、俺ごときの言葉で簡単に意志を曲げることはないのかもしれない。説得は失敗だ。
だというのに、なぜか。
なぜか、彼女は眼球のない顔を歪ませ、一瞬悲しそうな顔で俺の顔を見つめたような、気がした。
「……」
『……』
お互いどれほど沈黙したのか。
先にそれを破ったのは人形の方だった。
『今ハ、モウイイワ』
「何が?」
『私ノセイデヨビトメチャッタデショ。…モウ行ケバイイワ』
「お前はどうするんだよ。こんな所で突っ立ってたら自転車とかに轢かれないか?」
『私ハアナタガ思ウヨリハ自由ニ動ケルノヨ。ワカッタラドコヘナリトモ行キナサイ』
「わかった。…またな」
人形から顔を背け、再び河川敷を歩き出した。
四十歩程歩いてから振り返った。
彼女はもう、あの場にはいなかった。
…これもなぜだか本当にわからないのだが、俺の胸には謎の寂寥感が去来していた。
(おかしい)
あの後散歩を続けても、帰って夕食を摂っても、湯船に浸かっても、心の中に現れた寂寥感は消えてくれなかった。
心なしか精彩を欠いた動きで風呂場を後にして寝支度を整える。いつもは就寝前にダラダラとSNSをチェックしていたりするのが、今日に関してはそんな気分になれず、早々にスマートフォンを枕元に手放した。
気を緩めるな。
理性がそのように訴える。
というのも、ここ3日間俺が就寝すると毎度毎度人形は俺に対して襲撃をしかけてくるからである。
まあ襲撃とはいえあくまで夢の中だし毎回撃退には成功しているのだが。
人形は毎夜毎夜俺に悪夢を見せつけ精神を削ぐことを目的(効果は薄い)としているらしく、この3日間(あと初日の金縛りのあたりも夢だったらしいので厳密には4日間)様々なバリエーションの悪夢を見せてきた。
ただご本人的には最初の金縛りこそが切り札だったようで、それが俺に効かなかったとわかるや否や、彼女が俺に見せる悪夢は日を追うに連れて迷走の一途を辿っていた。
その変化には最初こそ戸惑ったものの、昨夜の時点で俺は既にその悪夢に順応していた。
ということで昨夜悪夢を見た時のやり取りを簡易的に会話形式でご紹介しよう。
『クフフフフ、連日ノ悪夢デ参ッテイル様ネ』
「…何今回は。船乗ってるけど」
『クフフフフ恐ロシイカシラ?』
「恐ろしいも何も毎回お前返り討ちにあってるじゃん勝率0%だよお前」
『ソンナコトナイワ、アレハ使ッタモノガワルカッタノヨ。私ガ負ケタワケジャナイワ』
「お前今使ったって言ってるけどさ…ただ俺の夢の中で名作ホラー映画上映してるだけじゃん。一昨日シャイニングで昨日ジェイソンやっただけじゃん」
『ナニヨ、殺人鬼ニ追イカケラレルヨウニシタジャナイ。怖カッタデショ?』
「最終的にお前を掴んで放り投げたらジェイソンそっちの方に向かってったじゃん」
『……今回ソンナ余裕アルカシラネ』
「聞けよ」
『今回ハ船ノ上。逃ゲバハナイワ。…見ナサイアノヒレヲ。今カラアナタハアノ軟骨魚類ニ生キタママ噛ミクダカレテ死ヌノヨ』
「サメじゃん…。もはやパニック映画じゃん…」
『クフフフフ、サア、コノ男ヲ食ラッテシマイナサイ!!』
「はい右ストレート」
『イヤァァ口ノ中ニホウリコマナイデガボボボボ』
………
基本的にはあの人形が俺に何かのホラー映画を観せてくる→映画内の恐怖イベントが俺に襲ってくる→人形が身代わりになって終了という一定の構図がこの3日間で形成されるようになっていた。
なぜこのような無益なことを人形が繰り返しているのか俺ははっきりとはわからない。ヤケにでもなっているのだろうか。
…とはいえ俺も怪異から悪夢を見せられている身。人形が今度は何を仕掛けてくるのか、心ここに在らずといった面持ちで挑むものでは決してなかった。
はたして俺の意識は深層に落ち、双眸の無い見知った顔が目の前に現れた。
『コレガ怖クナイノナラモウアナタニハ何モシナイワ』
何もない真っ白な空間で、彼女は開口一番そう呟いた。
「…どういう心境の変化?」
『別ニ。…私モ疲レタノヨ。暖簾ヲズット押シ続ケテモ面白クモ何トモナイワ。次ニ期待スルコトニスル』
顔を伏せてそのように呟くのだから、彼女がどういう顔をしてそう言ったのか全くわからなかった。
『今日アナタガ観ルノハアナタガ過去ニ最モ恐怖ヲ覚エタ出来事ヨ。アナタノ頭ノ中ノモノヲ再生スルカラ私モシラナイ』
「…小5の虐めとかかな、それなりにエグかったし」
『サア…ドウナルカシラネ。…行クワヨ』
俺の返事を待たずに人形は歩きだす。
…正直、彼女に着いていく必要があるのか俺にはわからない。ここで彼女の頬に右ストレートでもかませば夢が醒めるのかもしれない。
…だがこの悪夢に付き合ってやれば、彼女はもう俺に夢を見せるつもりはないらしい。根拠があるわけではないが、俺は前を行くこの人形の言葉を信用することにした。
歩いているうちにいつのまにか白い空間は消え失せ、俺と人形は木目の廊下を進んでいた。
やけに、見覚えのある廊下だった。
時刻は夕方なのか、玄関から若干の夕日が差し込んでいるだけで、廊下はとても薄暗い。
だから、廊下の端に置いてあった棚の上の家族写真を見て、初めてここがどこであるのか気付いた。
「俺の家……」
厳密には昔の生家で、俺が先日帰った実家ではない。
ここは、俺と、親父と、母さん。3人で暮らしていた家だ。
「ねぇよ、何にも」
足を止めた俺を訝しがった人形に向けて告げる。
ここは、母さんがいたころの思い出の家。
楽しい記憶はあっても恐怖を覚えた記憶はない。
「間違えたんじゃないのか、お前」
『アナタノ心ガ恐レテイル場所ヨ、ココハ』
「そりゃ小5の頃はここにいたけど、俺は学校で虐められてた。場所が違う」
『アソコヨ』
俺の言葉に彼女は耳を貸さず、ただ廊下の先を指し示した。
廊下の先にあるのは…確かリビングルームだったか。
途端、なぜか動悸が激しくなった。
異変を人形に悟られまいと、平静を装いながら彼女に尋ねる。
「あそこに何があんだよ」
『サア。私ハ知ラナイ。デモアソコニハアルノ。アナタガ最モ恐レタ光景ガネ。ソレスラ怖クナイトイウノナラ、私ニハモウオテアゲ。残リノ短イ人生好キニ生キレバイイワ』
「…上等」
人形を追い越し、リビングに続く扉へと足を進める。
一歩一歩進むごとに動悸が更に激しくなった。
わからない。
この先に何があるのか。
俺は覚えていない。こんなことがあったのか俺の記憶にはない。
もしかしたら人形は俺に存在していない記憶を見せようとしているのかもしれない。リビングのドアを開けると、親父とか母さんが強盗にあって殺されたりしているのかもしれない。
もしそうなら悪趣味であるし不快であることこの上ないのだが、俺のやることは人形に右ストレートを当てるだけだ。どうせ夢なのだとわかっているのだから精神的負担は少ないだろう。
そう考えているうちにリビングの扉の前にたどり着いた。
相変わらず心臓はバクバクと鼓動を発している。
その上本能までが俺に扉を開けるなと叫び出した。
開けるな。
思い出すなと。
…思い出すな?
なんだ、それは。
俺にこんな記憶はない。ないはずだ。
あの日、高校の部活動で、嫌なことがあって。
思わず飛び出して、いつもより早く、家に帰って。
待っていた合鍵を挿して、扉を開けて。
偶々、嫌なことがあったから、いつもみたいに、ただいまって言わなかった。言えなかった。
玄関に、知らない学校指定の靴があったから、おかしいなって、思って。
そんな記憶、無いはずなのに。
なんで、なんで、俺はそんなことを覚えてるんだ?
「ーーーーー、ーーー」
微かに、扉の前で誰かの声が聞こえた気がした。
見知った女の声だった。
喘ぎ声だった。
やめろやめろ思い出すなと本能が叫ぶ。
それとは裏腹に俺の右手が取っ手を掴む。掴んだ。
俺の右手は止まらない。そのまま取っ手を、引く。
そもそも俺の手が扉を開けようとするのを止めるわけがない。
だって、コレはもう既に起こったことなのだから。
「あ…っ、せん、せい、いい、よぉ…」
「戸山…っ、戸山っ…!!愛している…!!」
「嬉…しい…!!私もッ!!私も世界で一番愛してるッ!!」
一糸纏わぬ裸の姿の男女が2人、ソファで身体を絡み合わせていた。
――どちらも俺は、知っている。
1人は親父。この家の主人。
もう1人は、俺が愛していた、なのに思いを告げられなかった、幼馴染。
「―――、あ」
絶望に暮れたあの時の俺の声は、激しくまぐわう親父と栞の耳には一切届いていなかった。
がんがんと眩暈がする。
視界がゆれて、たっていられない。
頭痛がする。
眼底にドリルを当てられているみたい。
思わず両膝が地面につく。
だというのに首だけが動かない。
ただ見たくもない情事だけを見せられている。
「ああ」
一度呑まれてしまえば、後は落ちてしまうだけだった。
「あああぁぁあぁああぁああああぁ」
怖い。
気持ち悪い。
俺に道徳を説いた父が。
人に正しくあれと、賢い人間になれと言った父親が、自分の教え子に覆い被さっているのが。
俺を虐めから守ってくれた幼馴染が。
世界中のみんなが敵に回っても、私だけは味方でいるからね、なんて、そう言った口で、恍惚の嬌声を上げているのが。
怖い。
怖い。
怖い気持ち悪い怖い
「ぁ―――」
激しい眩暈のまま辛うじて立ち上がるも、腰が引けたまま、情けない格好で後ずさる。
これ以上2人の情事を見ていたら、頭がおかしくなりそうだったからだ。
でも、4、5歩後ずさった所で、急に俺の足は動かなくなった。
『ネエ、ドコニ行クノカシラ?』
人形に、背中を触られた。
それだけで、俺の身体はもう、後ろには下がれなかった。
あぁ。
そういえば、こいつは。
呪いの人形なんだった。
『今マデノ威勢ハドウシタノ?』
人形の言葉には答えず、無駄だとわかっていても身体を動かそうとした。
『情ケナイ悲鳴ヲ上ゲテドウシタノ?』
頼むよ。
どいてくれ。
『何ヲミタノカシラ。何ヲ聞イタノカシラ。私ニ教エテ?ココカラジャ何モワカラナイノ』
このままじゃ。
『答エナイノネ。ナラ、イッショニミテミマショウカ。クフ、クフフフフハハハハハハハハ!!』
人形は哄笑をあげてリビングまで俺を引き摺っていく。
「やめろ、やめ―――」
『サァ!!アナタノトラウマハナニカシラネェ!!アナタヲ虐メタ子供ガイルノカシラ!?ソレトモ愛スル人ノ死ヌ姿!?ナンニセヨ楽シミダワ!!』
このままじゃ。
俺の心が、死ぬ。
死ぬのは怖くないはずなのに、今の俺は心が壊れる恐怖に怯えていた。
そうこうしている間に、俺は再び地獄の光景が見える場所まで連れてこられてしまった。
『アハハハハ!!酷イ顔!!コレハ私ヲ今マデ軽ンジタ報イヨ!!』
夢の中だというのに頭はガンガンと痛み、意識が朧気になってくる。
身体の防衛機制なのだろうか。もう、保っていられない。
『サァ見セテ!!アナタノ最モ恐レタ光景ヲ!!コレカラズゥーットズゥーット眠ル度ニ見セテアゲルカラァ!!!!!!』
そう言って、人形は俺が恐れている光景を。
親父と幼馴染の情事を、見た。
『―――――――、コンナノ、違ウ』
そんな人形の言葉を最後に、俺の意識は完全に途絶えた。
「っ、たぁ……」
下腹部の激痛で目が覚めた。
今までに感じたことのないほど激しい痛みだ。
悪夢を見たためだろうか、頭痛もするし眩暈もする。悪夢の中で起こった症状が全て現実に引き継がれていた。
「っあ」
まるで金縛りにあったかのように身体が満足に動かせない。
人形の妨害かと思ったが、すぐに思い当たった。
満足に身体が動かせないほど今の俺が弱っているのだ。
半ばベッドから転げ落ちながら、這うようにして鎮痛薬の入った棚を目指す。
しかし、棚まで半分の距離も行かない内に、彼女が俺の目の前に現れた。
『マッテ』
人形が俺を制する。
「………ど、け」
今の俺にはもうまともに人形を退かせる力は無かった。
息も絶え絶えになりながら、絞り出すような声を発することしかできない。
『………探シテイルノハ、コレデショウ』
人形が錠剤を取り出した。鎮痛薬だ。
「そ、れ―――」
返せ、という言葉は口からは出なかった。頭痛と眩暈で上手く呂律が回らない。
『大丈夫。大丈夫ダカラ。モウ、何モシナイカラ』
「あ――――?」
なぜか人形は錠剤を持ったまま倒れ伏した俺の下に近寄ってきた。
『口、アケテ?』
「――――、」
逆らう気力もなく、言われるがままに口を開けた。
彼女は俺の口に錠剤を放り込み、コップに入った水を口に流し込んだ。
『ベッドニハ戻レル』
「………まだ、眩暈が」
『ソウ……ワカッタ』
それきり人形は黙ってしまった。
時折、ちらちらと俺の顔を覗き込んでくるだけで、何も話してはくれなかった。
しばらくうつ伏せになったままでいると、徐々に眩暈や頭痛が収まり、いくらか気分もよくなってきた。薬が効いてきたのだろう。
「……何のつもりだったんだよ、俺に薬なんて飲ませて」
相変わらず俺の顔色を窺っている人形に話しかける。
彼女は、俺の急な問いかけに対して反射的に動きを止め、迷ったようにおずおずと口を開いた。
『……苦シソウニ、シテイタカラ』
「……元を辿ればお前があんな夢見せたからだろ」
『…ッ、ソウ、ソウダケド。ココマデ苦シンデ欲シイナンテ思ッテ無カッタシ、何ヨリ……アンナコトヲ抱エテイタナンテ、知ラナカッタ』
「…俺も忘れてたんだよ。いや、自分の中でなかったことにして本気で忘れようとしてた。目を逸らしてたんだ。―――それをお前が無理やりほじくり返したんだ」
『―――!!チ、違、私、ソンナツモリジャ――」
「じゃあどういうつもりだったんだよ!!」
何を言いたいのかわからない人形に対して、つい俺は声を荒げて怒ってしまった。
正直半分は八つ当たりの身勝手な怒りだ。
俺はまんまと人形の口車に「上等」なんて抜かして乗ってしまった。それに対する結果なんて十分想像してしかるべきだった。
だが、今の俺はトラウマを抉られた影響で精神が不安定になっていた。それに加え煮え切らない人形の態度と、河川敷で抱いた謎の寂寥感も合わさり、俺の中で怒りという感情として噴出したのである。
一度でも怒りを出してしまえば、後はもう止まらなかった。
「初めて会った時からずっとお前のことがわかんねえ……!!三ヶ月後に死ぬ呪いなんてかけてきたくせに全く怖くない悪戯なんてしかけてくる!!俺がやり返したら偶に可愛い声出してちょっとドキっとするし普通に可愛い見た目してるしッ!!なんで呪いの人形の癖に俺の好みの見た目してんだよ馬鹿!!」
『エ……えぅ……?』
人形の話が不明瞭だから怒りを発した癖に、自分自身も何を言っているのかわからなくなっていた。
それでも、ただひたすらに自分が心の中で留めていた感情を彼女にぶつけていった。
「今日の昼お前が痛そうにしてるのを見てなんかめちゃくちゃ罪悪感湧いたわ!!何かあるたびにお前痛めつけて俺何やってんだろうって思ったんだよ呪いの人形相手に!!何なら思わずお前に呪いの人形なんて辞めたらなんて気遣っちまうぐらいお前に呪いかけられた恨みとか忘れてたんだよッ……!!――――なのに……なんだよ、今更よ。俺のトラウマ無理やり思い出させて、俺の顔見て笑いやがってよ……嫌でもお前が呪いの人形だってこと俺に思い出させやがってさ……、それでお前の望む通りに苦しんでたら薬持ってきて助けてくれてさぁ……。なんだよ、何がしたいんだよお前、情緒無茶苦茶にしやがってさぁ……」
『………』
いつのまにか俺が突っ伏していた床には水滴がはたはたと落ちていた。
よりにもよって呪いの人形の前で、まとまりのない幼稚な感情の吐露をしたことによって、自分自身が情けなくなって流した涙だった。
何言ってるんだ、と胸中で呟く。
こんなことを呪いの人形なんかに話しても意味なんてあるわけないのに。
「ごめん、取り乱した」
そう言って取り繕おうとしても瞳からは止め処なく涙が溢れ出てくる。俺がさっき言ったように、まさしく情緒が無茶苦茶になっていた。
人形は、俺のまとまりのない感情の発露を黙って聞いていた。
ややあって、彼女は近くにあったボックスティッシュを俺に差し出した。
『ン』
「……」
無言でティッシュを受け取り、目元を拭った。
人形は、俺がティッシュで目を拭いたのを見届けた後、ゆっくりと口を開いた。
『ゴメン……ううん、ごめんなさい。全部、私が悪いの。私が、アナタを見初めてしまったから。ずっと在り方に迷ってたから。だから、アナタをこんな目に遭わせてしまったの。本当に、ごめんなさい』
急に彼女は、先程よりも人間のする発音に近い、殊更に流暢な様子で話し出した。
『私は、呪いの人形。見初めた人の命を必ず奪う人形。誰かを恨み、呪い、恐怖を与え続ける存在であれと作られた。……だから、ずっとそうしてきた。恨んで、呪って、恐怖を与えてきた。ずっと呪いの人形であろうとしてきた。……でも、アナタに出会ってわからなくなっちゃった。呪いの人形がどんなものだったのか』
「それは、どういう」
俺の言葉に、彼女は困ったように首を傾げながら笑った。
『だって、私のこと、怖くないって言ってくれたから。私はアナタのお父さんを殺したのに、アナタにだって呪いをかけたのに。……私ね、本当は初めてアナタに怖くないって言われた時、嬉しいって思っちゃった。それからは、どうにも空回りしちゃって。普通なら私が出てきただけでみんな怖がって悲鳴を上げるんだよ?なのにアナタは私のこと返り討ちにしちゃうし、叱ったりもするし。アナタにどう接すればいいのかわからなくなっちゃったの。……でも、短い間だったけど、ここにいて楽しいなんて思っちゃった。自分が呪いの人形だってことを忘れかけたこともあった』
「っ、だったらなんで、あんな」
『うん……そうだよね。本当に馬鹿なことをしたって思ってる。………でも、私は呪いの人形。アナタ達に恐怖を与え続けなければいけない存在なんだって私はずっと自分に言い聞かせてた。だから、私は、アナタが最も恐怖した出来事を呼び起こした』
「………」
『思った通り、アナタは過去の記憶を思いだし、恐怖の感情に沈んだ。―――呪イノ人形トシテ、私ハ愉悦ニ浸ッタ。デモ……、アナタのトラウマを覗いた時、そんな気持ちどこかに飛んで行っちゃった。なんでそんなことになったのか私にはわからない。でも、とにかく、呪いの人形じゃない『私』が叫んだの。これ以上アナタにこんなことをしちゃいけない……って』
そこまで語った人形は突然居住まいを正して俺に土下座をした。
『アナタにこんなひどいことをして、ううん、あの時、アナタを呪ってしまって本当にごめんなさい。どう謝っても償いきれないのはわかってるけど、ちゃんとこの家は出ていくしもうアナタにこれ以上酷い真似はしない。でも、その……アナタに頭を下げずにはいられなかったからッ……。本当に、ごめんなさい。ごめんなさい………ッ!!』
「っ、頭あげろよ……ッ」
俺はと言えば、彼女の突然の殊勝な態度にすっかり毒気を抜かれていた。
確かに俺のトラウマを掘り起こされたことに関しては根に持っているが、以前彼女に伝えた通り、親父が彼女のせいで死んだことは恨んでいない。また俺は元より三ヶ月の余命だったから、彼女に呪われたとしても思うことなんてなかった。
その上でここまで丁寧に説明と謝罪を重ねられれば、怒るものも怒ることができなくなっていた。
しかし、俺が何度「もういいから」と声をかけても、彼女は『ごめんなさい』と繰り返すだけで一向に顔を上げようとしない。
仕方がないので彼女の背中と足を両腕で持ち上げ、仰向けのままベッドに寝かせた。自らは膝立ちになって彼女の顔に視線を合わせる。彼女の表情は、悲し気に歪んでいた。
『なっ、何、を…』
「ちゃんと目見て話さないと伝わるもんも伝わらないと思ったんだよ。色々とな」
『……目玉なんてないもん』
「……その節は本当に悪かったと思ってる」
俺がばつの悪そうな表情を浮かべると、彼女はようやくほんのりと笑みを浮かべた。
「あのさ、聞きたいことあるんだけど」
『うん……何でもいいよ』
「おう。……まずさ、今までの態度は、その、演技みたいなやつだったってことか?」
クフフフと笑う悪辣な人形の態度を思い浮かべる。
『うん……。こっちが本性ってことになるのかな。アナタの前だとよくボロが出ちゃってたけど』
「言われてみればそうだったかもな……」
今更ながらそういった彼女のボロを指して可愛いと宣ったことが恥ずかしくなってきた。
耳が赤くなったことを悟られないよう平静を装いながら、俺は彼女に言葉を投げる。
「じゃあ、さ。お前さっき、人を呪って、恨んで、怖がらせることが存在意義って言ったよな」
『うん……。ハタ迷惑な話だよね。ごめんなさい』
「いや…。そうじゃなくてさ、その……。お前自身はさ、呪ったり、恨んだり、怖がらせたりしたかったのかな?って思って」
『私自身が?……ううん、一度も。そんなことしたって楽しくもなんともなかった。悲しんでる顔とか、絶望に暮れた顔とか、そんなのばかり見ることになるから。……なんで呪いの人形になっちゃったんだろうね、私。本当はこんなことしたいわけじゃないのに、頭の中でずっと声が聞こえるの。やれ、やれって。ダメだね、私』
「そうか……」
『うん。でもこれってね。言い訳なの。したくないなんて言いながら、私は多くの人を酷い目に遭わせてきた。それは紛れもない事実なの。逆らおうと思えば逆らえるのに、そうしなかった私が悪いんだよ』
「………わかった」
彼女は自分の意思を包み隠さず話した。
だから俺もきちんと伝えなければならない。
彼女に対して、何を思っているのかを。
「俺さ、昔、親父に無理やり塾に行かされたんだ」
『……うん』
「俺、実は先天的に、時間をかけないと文字がちゃんと読めなくてさ。塾とか全くついて行けなかったんだよ。勉強とか、死ぬほどやりたくないことだった」
『…うん』
「でもさ、やりたくないことでも、やらないといけないことだったら、やるしかないんだよな。………俺、必死で勉強して、人より2倍の時間使って、親父が教師やってる私立の中高一貫校に入学したんだ。―――多分さ、俺、お前の呪いも『やらないといけないこと』だったから、お前はやるしかないってなったと思うんだよ」
『……でも、人が死ぬんだよ?』
「そうだな。…でも、俺はお前が殺したやつのことなんてほとんど知らないし、親父はまあ…好きじゃなかったし。俺自身は別に、どうせ同じ時期に死ぬのがわかってたし、って感じだからさ。お前の呪いも、恨みも、脅かしも、仕方のないことなのかなってそう思えちまうんだよ」
『………』
「でもさ、お前のそれらが、やりたくないことだって言うんなら、なるべくやらなくて済む方がいいんじゃないかって、俺は思うんだ。やりたくないことをやり続けるって、きっととても疲れることだし、報われないことだって思っちまうんだ。―――俺は、やりたくない勉強してあの学校に通っちまって、勉強の進度についていけなくなって、その上……あんな情事を見る羽目になっちまったから」
『………』
「だから、だからさ。俺、お前が今までやったこと全部許すことにする。その代わり、俺が今までお前を殴ったりしたこと、許してほしいし、……その、お前さえいいなら、俺が死ぬ時まででいいから、今だけは誰も呪わずに、ここで休んでいってほしい。―――俺も、その、お前と過ごして、結構、楽しかった、から」
『なっ、何、それ……。そんな、全部許すって……。………私、アナタにあんな酷いこと――」
「いいんだ」
『ッ―――」
彼女は俺の顔をのろのろと見上げた。
唇が小刻みに震えている。
双眸が無いというのに、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
彼女の黒い長髪が、白磁のような顔の前で揺れる。
綺麗に揃えられた彼女の髪は、土下座のせいで激しく乱れていた。
右手でそっと彼女の髪を撫でつける。
綺麗な彼女の顔が良く見えるように。
それが彼女の堰を切った。
『う、うああぁぁぁあああ、あああぁぁぁぁああああ………』
彼女の眼窩から、大粒の涙が溢れだした。
彼女はそのまま俺の右手に縋りつき、わんわんと泣き出した。
俺は、彼女が泣き止むその時まで、彼女の頭を優しく撫で続けた。
まだ2部分しか投稿してなかったのに、評価くれた方、ブックマーク登録してくれた方、本当にありがとうございます。ご期待に添えれるよう頑張っていきますね。でも性癖全開だから期待に添えなかったらごめんね……。