弓月と魔女と愛しのカタツムリ
この世界は太古から、醜い魔女が天地の気脈の狭間の中で暮らしていた。彼女は乾きの魔女、雨雲を司り雨風を自由に操ることが出来た。
続く雨も、乾き続ける日照りも、それが人の世に災厄になろうとも、魔女の彼女には関係ない。時折気まぐれに、それらを操り、地上のざまを眺めて楽しんでいた。
彼女には愛しい相手がいた。それは透き通った殻を持つ美しいカタツムリ。
トォォォン。ルルラ〜ラ♪美しいバリトンボイスで、魔女の乾きを癒やすカタツムリ。
人が流す透き通った純真無垢な涙が呼び集められ、カタツムリの上に小さな雨雲を創り出し、サラサラと降る、甘い雨が愛しいカタツムリの糧。それがいつの頃からか、
ビカビカ!ドドン!真っ黒に硬い嵐雲がカタツムリの上に現れる様になり、哀れなカタツムリは殻を石化して眠りについてしまった。
魔女は嘆く。乾きの魔女は人の世を呪う、極端に雨が降らなくなった世界。人々は異常気象と銘打った。
そんな彼女の元に、ポツン。一滴落ちて波紋が広がる。
おやぁ?なんだね。面白い。久しぶりのひと色の涙ぞ。
魔女の住まい、三角屋根の館に届いた、一雫。
「ふふ、こんな涙を流せる者がいるのか。好き勝手な世を創り上げ、謳歌する人間達。自己憐憫、痛みの涙しかないセカイ。ワタシのカタツムリも青色吐息、滅ぼしてやろうか。おお、可哀想なワタシのカタツムリ。透き通った水晶の様な殻は見る影もない。眠ったままで声すら上げない。すっかりこの様にみすぼらしい、ただの石ころになってしまい……、待っておれ、美しい姿を取り戻してやろうぞ」
魔女はカタツムリと共に、ヒュララとローブをはためかせ、窓から外に飛び出した。
――、あの日よりだるだるに生きていると、周りから言われる。やる事だけを黙々とこなして、残りの時間はひとつの事だけ願い、祈り過ごしている弓月。
愕然とした去年の夏が過ぎ、カサカサとした秋、凍える透明なからっ風が吹き抜ける冬、俯き過ごしていたのか、桜の花が咲いて散った事も気が付かなかった春が、ぽつねんと歩く彼の側をすり抜けた。
そして。
アスファルトが焼けて蒸気が立ち昇る、ガラスの反射、ステンレスの光。温いビル風が吹きすさぶ、人工物が産み出す、だるい亜熱帯の様な夏が今年も来た。
彼のだるだるな生き様が、乾きの魔女の介入により変わる夏が来た。
「おばさん、どういう事なんですか?」
「これまでありがとう。不幸な事故だったの、だからそんなに思い詰めなくていいわ、娘は幸せよ、ゆきくんに巡りあって、幼稚園から……、本当にありがとう」
「夏休みが終わったら、お見舞いに来ないで。あの子はもう、このままかもしれない、ゆきくんは高校三年生ただし、先があるから。あの子の分も楽しんで生きてほしいの」
何時もの様に病院に行き、何時もと同じ時間を過ごしたあと、突然彼女の母親から突きつけられた言葉。
「ゆきくんの将来を考えたの、三年生でしょう、ご両親も心配されてると思うの、おばさんだったら……、とっても心配」
切ない気持ちがひしひしと弓月に伝わった。何も言い返せない彼。その日はそのまま、泣きたい気持ちで頭を下げてその場を離れた。
トボトボと歩く帰り道、ギュウウと壊れるほどに握りしめたワイヤレスイヤホンを、ブゥンッ、ゴオンッ、普通車、配送トラック、新聞配達のバイクが行き交う、道路に投げ捨てた日と、同じ場所にフラリ来た彼。
彼は大声で、叫びたかった。まだ生きている。だから、名を叫ぶとこの世界からいなくなってしまいそうな予感にとりつかれ、声を出す事が出来ない。でも叫びたい。
千沙都、ちさと、ちさと、千沙都、ちさと。来ないで、君はそう思っているの?一人で先に進む、僕の事が嫌いになった?
『あ!キャッ!う、ゆきちゃん!ゆつき』
君の『声』、忘れていないのに。ちゃんと耳に残っているのに。
思い出す辛い記憶。見上げた先にあの歩道橋。
シャカシャカシャカシャカ、イヤホンから流れる音楽の音に紛れて、小さく悲鳴と名前がほんの少し遅れて聴こえた彼。慌てて振り返るも、時すでに遅し。
近くの広場で催されたイベント、集まる群衆、雑踏、歩道橋の階段、人の流れに逆らい、無理やり人混みを通り抜け、先に急ぐ男。彼の後ろでぶつかった彼女は。
かする指先、スローモーションの様に人が割れ、避ける狭間に落ちてく彼女。
叫ぶ声、呼び続ける名前、周りの悲鳴、騒然となるあの日、あの場所。
もう少し早かったら、君の手を取っていたら。
誰かの目なんか気にせずに、手を握っていたら。
一緒に、夏の終りの花火を見ていたのかな。
「ゆきくんには、先があるから、あの子の事は忘れていいの。突然にごめんね、心の整理もあると思うから、ここに来るのは、そう。夏休みで終わりにしてね」
弓月の先考えた上で彼女の母親から、手渡された絶縁状が、彼の心に深々と突き刺さっていた。
悔やんでも後悔しても、あの日と同じように、歩道にしゃがみ込み、嗚咽を漏らしても。
こぼした瞬間は取り戻せない。過去は変えられない。
人目を気にせず地面に手を付く。ハタハタ、ポトポト。熱い涙が滴り落ち歪に丸く、染みを作る。
神様、神様。なんでもします。なんでも、だからこの願いを叶えて欲しい、僕はもう、願うことしか出来ないから。
ヒック、エグ、エグ。
泣き声を漏らすまいと、歯を噛み締め震える唇を、片手を持ち上げ覆う彼。
ハタハタ、ポトポト、涙は落ちる。
キン!世界がひとり分、隔離される。
……、クスス。フフフ。ひと色のナミダ。塩味。甘味でない。透き通ったソレデナイ、残念。
「悔やみだな。後悔。振り向くなよ幸村 弓月。妾は醜い故、姿を見られるのは嫌じゃ、人間とは油断できぬ生き物ぞ、振り返らぬ様、少しばかり術をかけておこう」
涙にくれる彼の背後から『コエ』
チックタック、チッチッチッ。キン!ピシッ!彼に呪いがかかる。
「誰だと考えておるな、涙の礼に教えてやろう。この世界をどうしてやろうかと、狭間で眺めている乾き魔女だ。ユツキ、この世で最も透き通った雑味が無い涙をコレに与えよ」
チリチリとした魔女の言葉が、弓月の首筋に刺さる。ふわふわ、ふわふわ、魔女の手から離れて彼女の愛しいカタツムリが、くるりくるり、空を飛び進み、しゃがみ込む彼の前に浮かぶ。
「ワタシの愛しいカタツムリ。透き通った殻を持つ、それはもう美しいカタツムリ、世に流るる美しき心が産み出す涙が糧。いっぱいにその身を満たしていたというのに、私利私欲自己憐憫、痛みの涙に満ちるこの世界、カタツムリは雷雨に襲われ、隠れている。干からび石のよう」
唄うように語る魔女、素っ頓狂な出会いに弓月の涙が引っ込む。
「それを手に取れ、ユキムラ ユツキ。お前と共に暮らし、私の愛しいカタツムリがお前の元で、お前が流すであろう、その涙を取り入れ、元の姿に戻った時、願いをなんでもひとつ、叶えてやる」
幸村 弓月に否は無い。ここはどこ?との疑問もわかない。即座に、
パッと。何も考えず、目の前に浮かぶ石コロを握りしめた。