溢れた結果
24時の終業のチャイムが部屋中に鳴り響く。
仕事に専念させられていた私は、ふと正気に戻る。
自身のデスクの上に積み上げられている資料の高さは、
朝の始業時と比べてもさほど変化はない。
明日明後日の休日出勤のことを憂い、自然にため息が漏れる。
もう少し仕事を片付けたい思いもあったが、終電のことを考慮して帰り支度を始める。
「あ、伊井田先輩も残っていたんですね」
声を掛けられた方へ視線を向けると、異動前に直属の部下であった笹井と目が合った。
女性らしからぬ真っ黒なクマを目の下に作り、スーツはヨレヨレ、体中からかつての覇気も消えている。
笹井は新卒でうちの会社に入り、当時はフレッシュな新人であったが、今では立派な社畜戦士となってしまった。
「お疲れ、笹井さん。笹井さんの部署も忙しそうだね」
「そうですね。今日は立て続けに3件も交通事故がありましたから」
「事故が起きないと保険屋も食べていけないけど、こうも忙しいと食べることも億劫になっちゃうよね」
乾いた笑いで笹井が答えた。場を和ませようとしたが、逆効果であったか。
「それでは、お先に失礼しますね」
軽く会釈をして笹井はオフィスを後にした。
すぐに後を追っては不自然だと考えた私は、デスクの上を気持ち程度に整理した後でオフィスを後にした。
さすがに24時を過ぎると、オフィス街とは言え、人の往来もまばらである。
休日出勤のことが再度頭をよぎり、ため息交じりで首をかしげると、ふと、月に目が留まった。
ビルの窓から溢れる人工の輝きが、闇夜に浮かぶ燦燦たる月の輝きを惑わしている。
今日は満月だったのか、よし、明日の仕事はこの景色を糧に―――
ドンッ
鈍い音とともに、私の身体、視界、平衡感覚が大きく宙に舞った。
目まぐるしく回転する視界の端々からは、車のヘッドライトのようなものが見えた。
ゆっくりと、私の身体は地面に倒れた。
誰かの叫び声がした。
身体が動かない。
視界がぼんやりする。
感覚がなくなってきた―――
―
――
―――
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―――――ろ
―――きろ
起きろ!
ハッと私は目を覚ました。
それまで私に呼び掛けていた男は、私が目を覚ましたことに驚いたとともに、安堵したように見えた。
「良かった、目を覚ましたんですね」
「…ここは?」
ゆっくりと身体を起こしたが、身体はどこも痛くはない。確か、車か何かに轢かれたはずだ。
「それが…分からないんです」
「分からないってどういう―――」
ぼんやりと映っていた男の顔がはっきりしてくると同時に、周りの風景もはっきりとしてきた。
どうやら私が今いる所は室内のようで、床や壁、天井に至るまでが木で作られており、
部屋の中央には太い木が床と天井を破ってそびえ立っていた。
木の幹には青白く輝くとても大きな宝石が埋まっており、天井からは見たこともない植物の実らしきものが蛍光灯のように光を発している。
「…確かに分からないですね」
「でしょう?目が覚めたらこんなところにいたんですよ」
男が嘘を言っていないことを私が認めたからか、男の顔が緩んだ。
「あ、私の名前は内海です。内なる海で内海。貴方は?」
「私は伊井田です。井伊直弼の伊に、井戸の井、田んぼの田です」
「井伊直弼…?最初の井、最後の伊どっちですか?」
「伊賀の伊ですよ」
「最初からそう言ってくださいよ」
そう言うと内海は軽く笑みをこぼした。
内海という男は部屋着のような服を着ていて、見た目は私と同じぐらいの年だ。
そう言えば、ここに来る前に、思い出したくもない経験をしている。
あれは、夢だったのだろうか、それとも、ここが夢の世界なのだろうか。
思い切って私は確かめることにした。
「ところで、つかぬことをお伺いしますが、内海さんは目が覚める、前死―――」
突然、後ろから私の肩がグッと引かれたため、そのまま私は床に倒れこんでしまった。
「おい、内海!おっさん起こしたんならさっさと出口に連れて来いや!」
「す、すみません!と、年が近そうだったので、ついお話を」
「チッ!おら、さっさ来い!」
長いドレッドヘアーの若者は私に悪びれもせず、舌打ちをして去っていった。
「大丈夫ですか伊井田さん?」
内海の手を借りながら、再度私は身体を起こした。
「おっさんと言われたことは心外です、まだ28歳なのに」
「あー、彼、まだ17歳らしいので、彼から見たらおっさんかもですね。というか、伊井田さんと俺、タメですね」
先ほどの若者が私よりも年下なことに心にも衝撃を受けつつ、打ったお尻を軽くさすった。
―――痛みがあるということは、これは、夢ではないのか?
まさか、これが、夢にまで見た、異世界転生…!?
「彼は田中くん。私よりも先に目を覚ましてて、出口らしいところを既に見つけてるんだって」
「内海さん以外にもいるんですね」
「それどころか…。と、とにかく、出口へ行きましょう。あ、身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
「それはよかった。では、道案内しますね」
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「これは…」
内海の案内にて、5mの高さはあろうかと思われる大きな扉に辿り着いた。
「ね、いかにも出口っぽいでしょう」
「それはそうなのですが…」
辺りを見回すと、扉の前には何十人かが既にたむろっており、多くは50代ほどであるが、
男女分け隔てなく扉が開くのを待っているように見える。
何人かは私の方を見たが、また来たのか、というような目で一瞥し、
すぐに話に戻るか目を閉じて無視を決め込んだ。
「田中くんがね、この部屋中の人たちに、出口へ行くようにアナウンスして回ってるの。だから、こうして集まってるんだよ」
「みんな、面識はないんですよね?」
「そうですね、私も一人も知りません」
一瞬、私は異世界に転生したのだとも思ったが、どうやらそうではないようだ。
だって、こんなに一度に転生するわけではないし、扉の前で待っている人たちの多くが50代程度であることから、
凡そここは天国か地獄かの扉なのであろう。やはり私は死ん―――
「おーし、全員集まったな!」
私が思考を巡らせる中、扉を背にして、私たちに向かって田中が叫んだ。
扉の前で待っている人たちのガヤと同時に、私の思考もかき消された。
「まもなく、扉が開く!その前に、この扉から出る順番だが…」
田中は周りを見渡して、左手の甲を宙に突き上げた。
「ウーラノス!」
田中のアクションから一間を置かずに、何人かが田中と同じアクションを起こした。
その状況を私と内海を含め、周りはきょとんと眺めていた。
「よし、お前とお前と、あんた…。前に来なよ。合計4人か、今回は少ないな」
「俺たち4人が扉から出る、その後でお前らも出てきな。後は自由だ」
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田中と同じアクションを起こした3人と田中の合計4人が、扉の前に集まったと同時に、扉が大きな音を出して開きだした。
開いた扉の間からは、眩い陽の光が差し込み、直視できないほどであった。
しばらく眺めているうちに、扉は完全に開ききったものとなり、目が外の明るさに慣れると、室外の風景が見えてきた。
そこは、まさしく、異世界と思わせるような景色であった。
木々が生い茂、花開き、鳥たちがのど自慢大会を行っている。
一人、また一人と開ききった扉から、異世界の地へと歩を進めていく。
私と内海は最後に扉から異世界の地へと足を踏み入れた。
扉から外に出て初めて、自分たちがとてつもなく巨大な樹の中から出てきたことが分かった。
扉は巨大な樹の根っ子近くにそびえ立っていたのだ。
何もかもがまるで違う。本当に私は異世界に転生したのか。
そう思った矢先、外の世界へと出てくるために通った扉が音を立てて閉じてしまった。
何人かはビクッと後ろを振り返り、狼狽した。
「あれ、田中さんたち、もういない…?」
扉に一瞬の気を取られたからか、田中を含め先頭の4人がいなくなっていた。
そのことに気付いた瞬間、頭の中にキーンという耳鳴り音が響いた。
私や内海だけではなく、全員に聞こえているようで、一様に皆耳を防ぐなりした。
『主要4魔法、転移魔法、回復魔法、錬金魔法、以上を用いることが可能な者、願い出よ』
突然、声が頭の中で鳴り響いた。
『あーもう、そんなこと言っても分かんねえよ。新参者なんだし。カンペさんはこれだから』
『じゃあ、何を言えばいいの?』
『とりあえず、もっかい死んで?ぐらい?』
『貴方たちにはもう一度死んでもらい、現世へ帰ってもらう。その際に、いくつか情報を仕入れて、持ち帰って欲しい。
情報を仕入れたら、再度死んでここへ戻ってくること。持ち帰れた時の合図は、もう見たな?』
『さすが姉御!それを言いたかったんだよ、カンペさんも姉御を見習うんだぞ』
『うるさい田中』
『その名前で呼ぶな!俺はアレクサンダー様だ!』
耳鳴り音が止むと、私の身体から力が抜け、地面に倒れこんでしまった。
私以外もそのようであり、内海も同様、皆地面にバタバタと倒れこんでいった。
身体が動かない。
この感覚、やはりあの時の―――
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視界の先に、小柄でメガネを掛けた初老の男性と、背中から羽を生やした女神のような女性が現れた。
「この男は?」
「何の魔法も持っていないですね、私の観察眼によると」
初老の男性がクイクイっと眼鏡を上下にしながら、私の目を具に見つめてくる。
「新参者では珍しくもないかと」
「分かった。おい若者、現世へ帰ったら、埼玉県久喜市の橋上香という子を探せ。最寄りは幸手駅だ」
「…えらく…現実的じゃないの」
埼玉県久喜市と言えば昔住んでいたところだ。思わぬ現実的なことに、心の内が漏れてしまった。
「おー、アンチ魔法の類?面倒くさいね、君!でも、今は動かせるのは口だけかな。姉御の魔力の方が上だね」
「…説明…して下さい」
「断る」
そう言うと女神のような女性は、何もない空間から白銀の槍を出現させると、切っ先を私の喉元に押し当てた。
「この世界は今、転生に溢れている。言うなれば、定員オーバーなのだ」
「…この世界…定員…オーバー」
この世界…異世界転生に定員オーバーがあるなんて聞いたことがない。
大体、今まで異世界へ行く人が多すぎたんだ。ここでも若い世代が割を食ってしまうのか。
「以上だ。この世界は情報社会だ、無知なる者は排除せねばならぬのだ」
「…待って…満月の日…同じく…身体…動かない」
私はあの日のことを、頭をフル回転にして説明した。
持てる情報をいかに、単語で、相手に伝えるかを。
「その日の感覚を覚えているのか?」
私の喉元に押し当てられている切っ先の圧が緩んだ。
「…覚えている」
「ならば、お前は現世で"まだ"生きている可能性がある。良いだろう、一つだけ教えておく。
この世界へ来る者は必ずしも、現世で"まだ"生きている者とは限らないことを」
そう言った刹那、切っ先が私の喉元を貫いた。
血液と空気が体中を入り混じる感覚に襲われる。息が苦しい。こんな感覚は初めてだ。
「若者よ、お前は特別だ。1週間以内に戻ってこい」
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―――
――
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目を開くと、真っ白な天井が無表情に私を出迎えた。
身体中に激痛が走っている。視点を動かすと、腕には点滴が刺さっている。
どうやら、ここは、現世らしい。
今まで見たことは、夢だったのか、現実だったのか。
「伊井田先輩…?」
ドサッと荷物を落とす音が聞こえた。
なんとか視点を動かすと、音の先には笹井がぽかんとした表情で私を見つめていた。
「い、いま先生を呼んできますね!」
バタバタと廊下を駆け抜ける音の後、白衣を着た男性が額に汗を滲ませて駆け寄ってきた。
「意識が回復することはないはずだったのに…」
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あれから4日、私は自分で歩いたりトイレへ行くことも出来るようになった。
先生からは劇的な回復でこれまで見たことがないと言われたほどだ。
「でも、先輩、良くなって本当によかったですね」
「うん、自分でも信じられない程だよ」
会社からは休みを貰っている。
何でも、今まで休みも取らせず仕事をさせていたことが明るみに出るのを恐れたらしく、
寛大な措置にて有給休暇を消化できるようこととなった。
それと言ってはあれだが、会社のお目付け役として、会社内で私とそれほど仲が悪くない笹井が、
折を見て私の状況を訪ねてくる。
「ある意味、羽のばしとして、存分に休んでくださいよ」
「はは、ここまでにならないと休めないのも泣けてくるけどね」
笹井は軽く微笑んだ。
「そうだ、前お願いしてた新聞を貰えるかな」
「あ、どうぞ」
これまでは、身体のリハビリをメインにしていたからか、テレビや新聞を見る気持ちも起こらず、
外の世界からの情報を全く取り込めていなかった。
「それでは私、そろそろ会社へ戻りますね」
「ありがとう笹井さん、会社のためとは言え、申し訳ない」
「そんなことないですよ。では、ご安静に」
そう言うと、笹井は私が事故にあった日からの新聞を机の上に置くと病室を去った。
私も徐々に復帰していかなければ。
そう気持ちを奮い立たせ、私が事故にあった日の新聞を手に取った。
何も変わらぬ出来事、表には大物芸能人のスキャンダルや政治の話など、
おおよそ一般人には関わりのないようなことが書かれてある。
しかし、読み進んでいくと目が留まった。
―――内海卓也(28歳)、知人女性(19歳)を刺殺後、自殺
身体から血の気が引く感覚を覚えた。
記事の見出しには自殺した容疑者の顔写真が載っている。
この顔を私は見たことがある。名前も、聴いたことがある。
この瞬間、あの日見た、夢とも現実とも思えた出来事を、現実であると思わされることとなった。