74 レミーナ
緊迫した空気がなくなり全員がほっとしたところで、何度か目を瞬かせ始めたイルミ妃殿下をベルナルド陛下がひょいと抱き上げた。
「こ、こしぬけ! 歩いていける、おろせ!」
「もう眠いのだろう、大人しく任せておけ」
「そんな事をするから腰がぬけるのだ、またれみーたんの前で引きずる羽目になる!」
「こ、こらっ! せっかく言及されていない事を暴露するでないっ」
少しだけ顔を赤らめながらちらりとこちらを見た陛下はそそくさと妃殿下を連れていこうとする。
「あ! 陛下! あの、イルミ妃殿下のお部屋に入る許可を頂きたいのですがっ」
レミーナはあわてて立ち上がり、これだけはと陛下に願い出る。妃殿下のお側でお話し相手になりたい。イルミ妃殿下が壁を通しても動かれたのは、きっと人恋しかったからだと思う。
少しでも寂しさを解消できたらと思ったのだが、陛下は違う方向で捉えたようで振りむきざまにニヤリと笑った。
「ほぅ、いい心がけだ。妃教育をイルミから学びたいという事だな?」
「ち、ちがっ」
あわてて首を横に振るのだが、陛下はレミーナを目で制して今度は腕の中の妃殿下の頭を口付けながら明るい声で告げる。
「丁度いい、イルミにはいまいちど教育が必要だと思っていたしな。復習も兼ねていいよなぁ?」
「な! 私はれみーたんと話せたならばそれでっ」
「ニコライ、来週までに整えろ」
「は」
陛下の即断即決にニコライが短く返事をしているので決定してしまったらしい。がぁん、とレミーナが蒼白になっているうちに陛下たちが部屋を出る。また仕事増えた……と涙目で見送っていると、陛下の腕の横からイルミ妃殿下が顔を出す。
「れみーたん! 絶対茶話会しよう! 教育なしの! 絶対!」
「はい! 妃殿下、必ずっ!」
レミーナは思わず拳をぎゅっと握ってうんうんと頷くと、ぜったいねー! と 扉の外から約束の声が届きながら面談が終わった。
「はぁ」
気が抜けてぽすりと落ちるようにソファへ座ると、くしゃくしゃと頭を撫でられる。
「よくやった、レミーナ」
「殿下……」
レミーナはふにゃ、と笑いながらアルフォンスを見上げた。
「謎解き、わたしでも、できました……」
「ああ、見事だった」
頭を撫でてくれていた手が頬を包んで、ゆっくりと目尻を拭ってくれる。
「陛下にも、……っみとめて、もらえて……っ」
「ああ」
大好きな海空色がふやけて見えない。レミーナはくしゃくしゃな顔のまま両腕を前に出した。
殿下はレミーナの腕に応えて隣に座り、大きな腕の中に包み込んでくれる。ぎゅうと広い背中にすがって全身をゆだねると、嬉しさと共にとてつもない幸せな気持ちと切ない気持ちとないまぜになってレミーナはさらに涙があふれてきてしまった。
「やったな」
「っく……はい……」
「正式な、婚約者だ」
前髪を梳かれて額に一つ、両手で上を向かされて目尻の涙も親指で拭われて顔を上げてと頬にも一つ。
「レミーナ、レミーナ・ルスティカーナ」
「……っ、は、い」
なんども息を吸いながら、込み上げる感情を収めようとしていると掠れた声で呼ばれた。目を上げると、鮮やかな海空色が愛おしそうにこちらを見ている。
レミーナの左手の指先を殿下の右手がそっと持ち上げた。
「レミーナ、これから先どのような立場になろうとも、貴女と共に在る」
「は、い」
揺らぐことのない眼差しと共に手の甲に唇が触れた。
「レミーナ・ルスティカーナ嬢、私と結婚してくれますか?」
「……っ……っ!」
レミーナは殿下の右手をにぎってから、ぱっと離すと、両手を上げて殿下に抱きついた。
「よろこんでっ……!」
首筋にぎゅうぎゅうと抱きついて喜びを伝えると、ふはっと殿下が声を上げて笑った。そして同じように背中を抱きしめてくれる。
「レミーナの家では、いつもこうやって伝え合うんだろうな」
「そうです。えっと……わたし、何か間違えました?」
「いや? そのままで」
こつりと額と額が合わさって、今までに見たことがないくらい楽しそうに笑っている殿下がいた。
「今のままでいい」
「はい」
私の、私らしさを認めてくれる人。
「大好き」
呟くように出してしまった言葉に目の前の海空色が丸く見開いていく。レミーナははっとして身体を離そうとした。
やっちゃったやっちゃったっ うああぁぁっっ
猛烈に恥ずかしくなって発作的にのけ反って逃げようとするのだが、殿下がぼすりとレミーナの肩に頭をのせるので動けない。さらにきっちり腰と背中に手が回っているのでどちらにしても離れられないのだけれど。
はーー……と殿下にしてはやけに長いため息が聞こえて、ごめんなさいごめんなさいとレミーナは意味もなくあやまる。
「いや、いい。レミーナはいろんな意味で規格外だ。そんな所が私も好きだ」
「すみませんすみませ……え?」
今までに聞いたことのない単語が遅れて耳に入ってきて思わず肩の方に顔を向ける。
笑みを浮かべながらこちらに横目に見ている殿下の目元も赤い。
「ででで殿下っ」
「そろそろ名前で呼ばないか? そうしたら私ももう少し頑張れなくもない」
「なっ、なっ! え、あの……いろいろ、ずるくないですか……?」
「私もレミーナに習って素直に言ってみただけだが」
「うぅ」
なんか、いろいろ、ずるい。
肩に乗っていた重さがなくなり、変わりにはやく、とでもいうように頬を人差し指でなでられる。
「殿下……」
「夫婦は敬称で呼び合わない」
そうだけれど……。
ずっと殿下と呼んできたレミーナは軽々に呼び名を変えることができない。
アルフォンス殿下、アルフォンスさま、アル……。
それでもと思って心の中で唱えているとだんだん顔が赤らんできた。
名前を呼ぼうとするだけでこんなに恥ずかしくなっちゃうなんて……私、どうしちゃったんだろう。
恋をしたことのないレミーナは、愛しい人の名を呼ぶだけで羞恥に染まってしまう恋心を知らない。
健気なレミーナはこれから家族になるんだから、と大きく深呼吸して顔を上げた。
「アル……フォンスさま……!」
「アルでいい」
「アル、さま」
まるで舌足らずの幼子のように一つ一つ区切っていうレミーナに、アルフォンスが破顔した。笑わない貴公子の満面の笑みにレミーナは首筋まで真っ赤になってしまう。
「可愛いな、レミーナ」
「……っ殿下!」
「アル」
「う……アル、さま」
よくできた、とでも言うように額に唇が落とされたと思ったらいつの間にか後頭部をゆるく捕らえられて、目尻に、頬にとキスが振ってくる。
「ま、まって、殿下、なん……どうして」
「私はレミーナに対してはどうも言葉足らずのようだから」
戸惑いと恥じらいで震えている唇を固さのある親指がなぞった。
「だから、足らない時は行動で示すようにする」
そう宣言した殿下はレミーナの唇にゆっくりと触れ、レミーナの心も身体もくたりとゆだねられるまで何度も愛おしそうに食んでいった。