63 レミーナ
レミーナは目の前にある白い壁を何回も力いっぱい叩いてみた。けれど、厚みがあるのかあまり大きな音にならない。
「大きな音を出せないなら窓っ! といっても……」
レミーナは振り向き、閉じてしまった壁から対面にある窓に目をむけるのだが、その窓は首が痛くなるくらい高い位置にあった。
「灯りとりにつけただけの窓よね。小さいし、ソファを投げても割れそうにない」
そもそも王宮にあるソファはふわふわの綿が入った豪奢な作り、一人がけのソファでもかなりの重量がある。
「無理かぁ」
レミーナは視線を戻すと、ため息をついて投げようとしていたソファに腰を下ろした。
「どうしよう、助けを待つ? ここに来ていることは殿下もカスパル先生も知ってる。夕方までに戻らなければ、きっとここかと思って来てくれる気もするけれど」
どうしよ、どうしよってパニックにならないのは殿下のおかげ。殿下はいつ何時も最善を尽くして考えていたから。
小さな窓から差し込む光の強さを見れば、まだ正午に近い日中だと思われた。
「たぶん、知らせが行くまで時間がかかる。せめて自分で出来ることをやっておかないと、鬼教官に怒られちゃうよっ」
気がつけば小刻みに震えはじめる指先をぎゅっと握って、顔を覆った。
「考えて? レミーナ。怖くても考えることをやめたらダメ。大きく深呼吸をして」
目をつむりながらレミーナは鼻から大きく息をすってゆっくり吐く。両手を膝に戻して、ゆっくり、何度も。
ほぅ、と塊のようなため息をついた。
そっと目を開けると、壁に挟まれた形になっている臙脂のカーテンが微かに揺れていた。それがなぜか気になって、じっと眺める。
カスパル先生の声が脳内に響いた。
『何かおかしい、何か違和感がある、という感覚を忘れずに』
「それを大事にしていれば、道は開ける」
レミーナはカーテンから目を離さずに、声を出して考えを呟きだした。
「なんでカーテンが気になるの? 微かに動いているから。なんでカーテンが微かに動くの? ……え、なんで?」
レミーナは目をぱちぱちと瞬かせながら立ち上がった。
「窓は天井に近い所で開いてもいない飾り窓。空気の通り道はない。でも明らかにどこからか風が吹いている」
そろそろとカーテンに近づき、膝をついてすべらかな布の端と床の僅かな隙間に手を当てると、僅かながら微風を感じた。床の下から。
「……この下に空洞が……? あっ! もしかして!」
レミーナが若草色の瞳を輝かせたとき、複数の靴音が響いてきた。扉の開く音と共に自分を呼ぶ声。
「レミーナ! 無事か!」
「殿下!」
レミーナは急いで立ち上がって近くの壁を叩く。
「ここです! 閉じ込められてしまって!」
「ああ、わかっている! 待ってろ、今すぐ開ける!」
「こちらからは開かないみたいなの」
「すまないがそういう仕様だ。壁から少し離れろ、もうすぐ動く」
「はい!」
よかった、殿下が来てくれた! と肩の力を抜いて一歩後ろにさがった時、カタリと足元で音がした。
レミーナはなんの音? と思いながらも迫り来る壁を避けようと一歩さがった。するとあるはずの床が無く、悲鳴を上げる間もなく身体のバランスが崩れた。
「レミーナっ‼︎」
半端に上がった壁からかがんで滑り込んできた殿下の目が見開いていた。
まるで時間が細切れになったように全てがゆっくりと動いている。
こちらへ体ごと身を投げ出してきた殿下の指先に手を伸ばす。指先が三本だけ触れた。硬い指を感じた瞬間、するりと抜けた。
「っミーーナッッ!!」
目の前が暗転すると同時にお尻に衝撃があり、レミーナの身体は後ろに倒れる。とっさに腕で頭を守ると、背中や肩をぶつけながらなにかから転がり落ち、強烈な痛みと共に回転が止まった。
「〜〜〜〜っったぁあぁ……!」
涙目になりながら横たわった身体を起こすが、あちこちが痛い。背中にある壁を頼りによれよれと立とうとするのだが、周りが真っ暗なことに気がついた。
「え、私、目を開けているよね?」
片手で片目をおおいながら瞬きをするとちゃんとまぶたは動いている。
「つっ、顔、擦りむいてる? 痛い……」
どうなってるの、と頬を触ろうとしたら指先が濡れた。たぶん血がでてる。でもそれを確かめようと手を見るのだけど暗くてよく見えない。
「くらい……くらいの、こわいよ、殿下……」
多少の怪我はあるようだけれど身体は鈍いながらも動く。しかし無事だった事よりも暗がりの恐怖がレミーナの不安を高めた。
そこへダンダンッと石を叩くような派手な音が聞こえてレミーナは思わずしゃがみ込む。
小さく震えながら継続的に鳴っている音の場所を探すと、どうやら上の方だ。誰かの叫び声も聞こえる。その声は知った声で、でも今まで聞いたことのない必死な叫び声だ。
「殿下……? 殿下の声だ! 殿下っ!!」
思わず立ち上がって声の方へいくと、何かにつまずいて転びそうになった。うわっと手を前にかざすと地面よりも手前で身体が止まる。
「いったっ、なにこの地面、え? 階段?」
よく見えないので手探りで確かめると、あまり高さのない凹凸が緩やかに上へとあがっていっている。レミーナは四つん這いになりながらそろそろと階段を登る。何かを叩いて自分を呼ぶ殿下の声がまた聞こえたのでレミーナも声を張り上げた。
「殿下っ! ここに居ますっ、階段を落ちたみたいっ」
「レミーナっ、無事か! 怪我は⁈」
「分からないけれど、すりむいたくらいだと思います。動けはするので大丈夫なのですが」
この暗がりに息を呑みたくなるのを我慢して応えると、もっと近くまで来れられるか、と殿下が呼んだ。
「はい、ちょっとまってください。暗くてよくみえないの」
「ゆっくりでいい、転ばないように」
殿下の声もだんだんと落ち着いてきた。その声を頼りにレミーナも慎重に上がっていく。登るにつれて、微かに漏れ伝わる糸のような光の筋が見えた。
「殿下っ、もうすぐ着きます!」
「ああ、声が近くなった」
殿下のほっとしたような声音も届いて、レミーナも自然と笑みがこぼれた。すると引き攣るように頬が痛んだ。
「あたたたた……」
「レミーナ? どうした?」
「あの、顔を打ったみたいで……頬がいたいの」
「嫁入り前なのにか!」
「あは、ったた、殿下おとーさんみたい、っつつ、あまり笑わせないでくださいー」
「なんだ心配させておいて! 笑うなっ」
珍しく殿下の怒ったようなすねたような口調になんだか不思議とくすぐったい気持ちになってしまって、痛いといいながらもくすくすと笑ってしまった。
「まぁ、それぐらいの元気があるのなら大丈夫そうだな」
大きなため息をついてぼやく殿下に、レミーナは微笑みながらそうでもないですよ、とひそっといった。
「レミーナ?」
レミーナの声色の変化にすぐさま反応した殿下の様子に、じんわりと胸が温かくなる。レミーナはその温かさがどこかへ行ってしまわないように、片手を添えながら問いかける。
「殿下、殿下がまだそちら側にいらっしゃるということはここには来られないという事ですよね」
「……ああ、そうだ。この隠し床はカラクリになっているようで、一度ひっくり返った床は王紋という王だけがもつ紋での解除がなければ開かないという事のようだ」
顔が見えないからだろうか、声だけの方が殿下の取り繕っていない本当の心がみえる。くやしそうで、情けなさそうな表情が目にうかんだ。
レミーナはそっと天井部分にあたる床をコンコンと叩いた。殿下のはっとした息づかいまで聞こえる。すぐに殿下もコンコンと返してくれた。
「じゃあ、私がこのまま陛下と妃殿下の所までいけば解除してもらえますよね」
「レミーナ、謎が、分かったのか」
「ええ、たぶん。だから、このまま謎解きにいきます。そうじゃないと認めてもらえないから」
「そうか……わかった。大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです」
「おい」
そこは大丈夫ですというところだろう? と殿下が焦ったようにいうので、レミーナはわかってます、わかってますよ? と言いながらも少しだけ弱音を吐いた。
「殿下、ここ、くらいの。それがこわい」
殿下はまたはっと息を呑んだ様子で、トン、と手をついた音がした。
「レミーナ、左手を」
「はい」
レミーナは音のした場所の近くに左手をつける。床を挟んで手を重ねているのだろうか。気のせいかもしれないけれど、温かい気持ちになった。
「レミーナ、王紋より効力は低いが私にも王族の紋がある。左手にある指輪を壁につけて」
「こう、ですか?」
レミーナは天井部分に当てていた手を横に滑らせた。
「右か左か、どちらかに指輪に反応する部分がある筈だ」
レミーナはおそるおそる壁を探る。ざらりとした感触に、ここは表の王宮とはちがう、地下の世界だという事を認識させられて心臓がふるえた。
それでもそろそろと壁を伝うと、ざらざらの壁とは違う凹凸のある箇所を見つけた。
「殿下、ぼこぼこしたところがある」
「そこだ、指輪を壁に当てみてくれ」
「はい。あ……」
撫でるように左手を当てると、カチリと指輪がはまる箇所があった。音もなく淡い翠色の光が凹凸を浮き上がらせる。その細い線が斜め下へと左右に伸びてゆく。
それはまるで道標のように、長く細く続いていった。