62 レミーナ
カスパル先生は羽ペンをくるくると回しながら、退役した護衛騎士がどこに何人いるか調べてもらおうかの、と楽しそうにいうと別の紙に依頼書を書き始めた。
「さ、これを持って午後からは謎を解きに行ってきなさい」
「カスパル先生」
「後ろの憂いなく、あとは前へ進むのみ、じゃぞ! 先ほどのように、何かおかしい、何か違和感がある、という感覚を忘れずに。そうすれば自ずと道は開けるじゃろうて」
「……ありがとうございます」
なんじゃ、おめめウルウルになりよってー、今生の別れでもないじゃろが! と目を細めて笑うカスパル先生の細い肩にふええと腕を回す。
「しょーのない弟子じゃのー。これから腹ごしらえして行かねばじゃろうに。ほれほれ、今日のランチはなんじゃな?」
「うっく……カスパルせんせぇの好きなミートソース揚げパンです……っ」
「ふぉっ、ふぉっ、ごちそうじゃの! さぁ、食べよう。紅茶の準備じゃ」
「ふぁいっ」
鼻をすすりながらお湯を沸かしにいく弟子をみおくり、老師は少し寂しげに柔らかく笑う。
「こうして二人で食べるランチは、数えるほどになるのかの。良きことじゃて」
弟子から王太子妃へと変わる姿を見守りつつ、師はまた机に向かってペンをとった。
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深緑の制服の右ポケットには以前カスパル先生から頂いた王宮の地図。左胸のポケットには先ほどしたためてもらった依頼書を忍ばせて、レミーナは離塔の開かれた大扉の前に立ち、振り返った。
「ではカスパル先生、行ってまいります」
「うむ、迷ったら?」
「あわてず騒がす地図をみる」
「現在地がわからなくなったら?」
「手当たり次第に人に聞く!」
「うむうむ! そのとおりじゃー! 行ってよし!」
「はいっ! いってまいります!」
にっこり笑ってぶんぶんと手を振り歩き出したレミーナは、離塔の出入り口を守っている護衛騎士にも行ってきますっと元気よく挨拶をして通り過ぎた。
どうしよう、どきどきとわくわくが止まらない。
逸る気持ちをおさえながら駆けるような速さで芝生をぬけると、すぐに図書館の細い扉を開く。
午後の図書館は落ち着いているらしく、人もまばらだ。受付に会釈して素通りすると、最近は見慣れた王宮の角にあたる廊下に出た。
「ふふふ、私はもうこの道は知っているのです!」
ただの廊下の前でぐっと拳を握りふるふると歓喜に震えていると通りすがりの文官が眉をひそめてこちらを見ているのに気がついて、レミーナは慌ててにへらと笑って歩き出した。
「あぶなっ、変な人認識されるところだった! かみなりさまこわい、かみなりさまこわいっ、無事にあの部屋までたどり着けますように!」
使い方を間違っていそうなまじないを唱え、ぶつぶつと呟きながらレミーナは歩く。
レミーナは右手で壁をつたいながら目の前に見える角を左に曲がった。
「右手に壁、左手に見えるのは一つ目の中庭に面しているお部屋。例のお部屋は三つ目の中庭の所だから」
歩きながらレミーナは必死で目の前に映る景色を記憶しようとする。歩いていくと手前の部屋と奥の部屋の間に中庭に抜ける回廊もあったり、それ以外はほぼ同じ景色だったりして正直それだけで今どこを歩いているのかわからなくなる。
角を曲がるまでは自信満々だったのにすぐさま路頭に迷うのが迷子常習犯の常だ。はたから見るとただ真っ直ぐに歩いているだけなのに本人の脳内は一気に不安指数が右肩上がりである。
「うう、お部屋ごとに番号でも振ってあればいいのに。迷いそうになるの私だけかなぁ」
振り向いて確認しようとすると前も後ろもまったく同じ景色で不安しかない。とりあえず来た道を背にして前に進むしかないと心にきめて歩き出す。
カスパル先生情報では、中庭が手前から順に春、夏、秋、冬と四季折々の花が咲くように配置されているらしく、お前さんが花に明るければ一発でどこを歩いているか分かるのじゃがのぅ、と残念な顔をされた。
「花は愛でても種類までなんて覚えていませんよー! そんな貴族女子でも分からないことを言われても知らないものは知らないのです! でもお花は好きだから覚えますよ、ええ、それで迷子にならないのならっ」
王太子妃になればこの王宮に住まう事になる。妃殿下の様子から王族がふらふらするのは大丈夫そうだし、そもそも文官を止める気なんてさらさらないし。
「絶対お妃さま教育だけになったら発狂しちゃうに決まってる。息抜きの為にも文官仕事は死守しないと。その為には王宮で迷子になりませんって言えるようにならないと」
必死にちらちらと中庭を確認しながら伝い歩きをしているので、一つ目、二つ目と庭の様子が変わっていくのはレミーナでもなんとかわかった。
「春、夏、を通り過ぎたから次が秋、よね」
妃殿下が消えた部屋は秋の中庭に面している部屋だった。そして手前、奥、と同じ作りになっているうちの手前の部屋。
「ついた」
三回目にしてやっと離塔から迷わずについた扉の前にレミーナは立つ。
かちゃりと金縁の取っ手を押せば開き、目の前にはあの時と同じ配置の長椅子と一人がけのソファが並んでいた。可動式の壁は相変わらず閉じている。
「確か、左側のカーテンの後ろ」
以前、ここで出会った掃除婦のメリルはカーテンに隠された丸い取っ手を回して壁を上げていた。その記憶を頼りに臙脂色の布を左によせると比較的大きめな取っ手つきのハンドルがあった。
「これね、よし、回そう。って、重たっ!」
回そうと思っても動かないくらい硬くて、軽々と回していたメリルの力強さに目を丸くした。
「メリル、さん、すごっ! たしか、かたてで、まわして、た、きが、するっ」
レミーナはもちろん両手じゃないととてもじゃないが回せない。ひい、ふう、と息を弾ませながらなんとか壁を上げていると、そこで何をしている! と鋭い声がかかった。
びくっとして振り返ると、背後の扉から細身の年若い護衛騎士が入ってきた。
「ここは文官が気軽に入っていい場所じゃない。しかもなぜその壁が動くと知っている? どういうつもりだ……っと、その顔は……レミーナ嬢、か?」
「テオ殿」
嫌な人に見つかった、とレミーナは唇を引き締めた。
以前ポステーラ養護院にてアルフォンス殿下付きの護衛騎士として会ったことがあるのだが、殿下に失礼な物言いをしたと喧嘩をふっかけられたことがあるのだ。
どうしよう、なんて説明しよう。
殿下には午後はここにいくつもりだと伝えているけれど、テオは知っている様子がない、ということは巡回をしてレミーナを見つけたという事だ。
でもここは王族の秘密がある場所、知る人は少なくしなければならないはず。
謎解きをしなければならないけれど、王族の方々の事を思えば人知れずレミーナだけで解かなければならない。
「えっと、友達から掃除を頼まれたのです。ここの掃除担当のメリルさんが体調が悪いとのことでしたので」
メリルさんごめんっ、と思いながら名前を出しそれらしい嘘をついた。
家族以外に冗談ではない嘘をつくのなんて初めての事だ。口がカラカラに乾いていく。
「へぇ、掃除婦に友達がいるなんてね」
薄く笑いながら近寄ってくるテオの様子にレミーナは思わず後ずさった。
「庶民的過ぎて話にならないな。しかも殿下の婚約者候補だからって王宮内も我が物顔で歩き回っているのか? 王太子妃殿下となる方とはとても思えない」
いえいえ、もう一つ上の位の妃殿下も裏廊下を歩き回っているらしいですよー! と言いたかったがとてもそんな軽い空気ではなかった。
レミーナはこくりと生唾を飲むと、まずい雰囲気を消し去る為にも上司にも出てきてもらおうと、と文官としての胸に手を当てる。
「……殿下からは許可を頂いております」
「それが気に入らないんだ!」
突然青筋が立ったテオの表情に、失敗した! と思った瞬間、肩を突かれて尻餅をついた。
これにはレミーナもカチンとくる。
「なにをするの、乱暴な!」
「庶民的なあんたには無様なぐらいが丁度いいんだよ、俺はあんたを認めないっ」
「私だってあなたに認められなくたっていいわよ、殿下が認めて下さってるものっ 十分だわ!」
「こんな嘘をいう女のどこがいいんだ。今もこそこそと何かを嗅ぎ回って。おおかた掃除婦に頼まれたというのも嘘だろう。殿下の側にはべりながらどこかに情報を流そうとしているんだろう、この女狐! 何が目的だ!」
テオと話しているといつの間にか売り言葉に買い言葉になってしまう。どうにもこの男と相性が悪いようだった。口論が激しくなるにつれてレミーナの立場はじりじりと悪くなっていく。
そもそもここに居る理由を告げられないので上手く説明ができない。口籠るレミーナにそれみたことか、とテオは鼻で笑った。
「ふん、あやしいことこの上ないうえに生意気な女には少々怖い思いでもさせるといいと聞いた事がある」
「なにを」
身の危険を感じてさらに後ずさるレミーナに、テオは馬鹿にするな! と激昂した。
「騎士の風上にも置けない行為をこの俺がすると思うか? お前の所為で近衛を外されたとしても騎士道を外すような真似などしない! せいぜいそこで自分の身がどれほど低いものなのが考えてみるんだなっ」
そう叩きつけるように罵倒すると、テオはレミーナの目の前を通ってカーテンを捲り上げた。
「なにを……まさか、やめてっ!」
「殿下に仇をなそうとする者を野放しする者などいるものか。しばらくそこで自分の行いを反省するんだな」
そういうが早いからテオはハンドルを回し出した。
恐ろしいスピードで天井まで上がっていた壁が降りてくる。
「うそっ、まって、誤解なの……!」
飛び上がるように立ち上がるが目の前の白い壁は隙間なくぴたりとはまってしまった。テオの名を呼びどんっと叩くが返事はなくカツリ、カツリと靴音は離れていく。
やがてかちゃりと扉も閉まる音が聞こえてレミーナは呆然となった。
「し、信じられない、なにこれ」
かすれた自分の声にはっと我にかえると慌ててハンドルのあったカーテンの方へと駆け寄るが、こちらから開くための器具はどこにもなかった。こっちは? と反対側のカーテンも探るが、ない。
は、ははは、と、笑う気持ちになれるはずがないのに口からは乾いた声が出る。
「閉じ込められた……」
こくりと何度目かの生唾を飲んでみたけれど、呑み込むものすら既になく。小さな息だけを嚥下した喉音が空虚な部屋に響くだけだった。