59 レミーナとアルフォンス
そろそろ時間だな、と殿下は名残惜しそうに右手をさし出してくれたので、レミーナは手を借りながら長椅子から立つ。
「今日の予定は?」
扉へゆっくりとエスコートされながら聞かれたので、レミーナは少し考えながら正確に応える。
「午前はカスパル先生の元で養護院の案件を形にできるか検討します。もし、大丈夫そうだったら……午後は謎解きに」
「そうか、一人で向かえるか?」
子どもみたいな問いかけだが、殿下の眼は思ったより真剣だ。
そうだった、初めて謎解きに向かった時は迷って泣きそうだったんだ。はずかしいけれど、ちゃんと今の自分も見せないと。
「ちょっと自信はないのですが、迷いながらでも行ってみます」
今日だって執務室へ誰にも尋ねずに来られた。何回も通えば自分なりに行き方も覚えられる。そう思って頷くと、殿下はわかった、と笑ってくれた。
「謎解きに関しては助けはしないが養護院の件はこちらまで上げてきたら足りない所は明確にして戻そう」
「ぐっ……そこは補って頂けないんですか?」
「自分でやってこその実績だろう。嫌なら赤が入らないような案を出すんだな」
「結婚しても鬼教官っぷりは変わらないんですね……」
「当たり前だ」
家族になるんだからちょっとぐらい助けてくれてもいいのにー、と頬をふくらますが殿下はすっかり上司に戻ってこちらの思いなんてどこふく風といった感じだ。
そんな鬼畜な人をどうしてくれよう、と考えるのだけどなにも思いつかない。むぅ、とつい唇を尖らせた。
「もうっ、なんかくやしい! くやしいからお菓子持ってきません!」
「………………いや、それは駄目だろう」
慌てる右手を抑えながら、青い顔をする殿下。
え、そんなに? お菓子って、そんなに効くの?
レミーナはおそるおそるダメですか? と聞くと、殿下は小刻みに顔を横に振っている。
「駄目だ、政務に支障をきたす。国にとって大変な損失、それだけは駄目だ」
「うそっ」
「本当だ」
だからお菓子は持ってくるか時間がなければ誰かに託してくれ、と今度こそ真摯な眼差しで言われてしまった。
「仕方がない、赤を入れたら分かりやすく解説もつけてやる。それが私にできる最大の譲歩だ」
す、すごっ! お菓子が殿下の気持ちを少しだけ動かした……でも、おかしだけで……。
「あ、ありがとうございます……っふふ」
額に手を当てながらこれ以上は無理だ、と本気で呟いている殿下がおかしい。
思わず吹き出してしまったレミーナに、殿下は笑うなとむくれた顔をする。
なんだか子どもみたい。かわいい……。
こんな表情もするんだな、と胸が温かくなったレミーナをみて殿下もふっと柔らかく微笑んだ。
「無事に謎を解いたらお菓子で乾杯だな」
「今度こそ解いてみせます。あと……お酒、苦手です。慣れようとは思っているのですが」
「私の前では無理に飲まなくていい。では紅茶で」
「はい」
殿下が少しずついろんな面をみせてくれているのに勇気をもらって、レミーナも自分の弱い部分が出せる。
舞踏会にほとんど出てこなかったレミーナはお酒をたしなむこともしてこなかった。これからは必要になってくるとレミーナもわきまえているけれど、殿下の前では素の自分でいたい。
それを心置きなくゆるしてくれる人でよかった、と改めて感謝した。
レミーナは頷きそれでは、と扉の取手に手をかけた所で殿下が止めた。
「あ、まて、レミーナ、手を」
「はい?」
「左手をかしてくれないか」
殿下は左手で右手を抑えながら少し早口で言われた。
また右手の殿下とケンカしてるの? と首をかしげながらレミーナは左手を出すと、殿下は右手を脇に挟んで左手でレミーナの手を持ち上げた。
握手?
交差する腕と腕はなかなか見られない形で、レミーナは殿下が何をしたいのか分からない。
レミーナの手を握りながらしばらくじっとしていた殿下は小さく舌打ちをした。
「くそ、やはり両手を使わないとできないか」
「殿下?」
殿下はため息をついて脇をゆるめたようで、自由になった殿下の右手は真っ先にレミーナの頬に触れた。指先で柔らかく撫でられるのでくすぐったくて肩をすくめると、その辺でやめろ、と上から不機嫌な声。
「右手の殿下のいたずら好きはいつもの事ですから、そんなに怒らないでください。私まで怒られた気分になります」
「ある意味おこっている」
「えぇ?!」
なんで? と驚いて見上げると、殿下の眉は谷ができそうなぐらい寄っていた。
「間男との逢瀬を目の前で見ている気分なんだ。しかし貴女はこれも私の一部だというから我慢している」
「まおとこ?」
「……恋敵だ」
「こっ……!」
レミーナは目を見開いて言葉をなくす。
「自分の手なのに自由にならないというのが本当に腹が立つ。遊んでいないで早くポケットから出せ!」
常ならば怒ると吹雪のようなさむざむとした気配をかもしだす殿下だが、今はかみつくように右手に指示している。
右手の殿下はしぶしぶといった動きでレミーナから離れると官服のポケットから小さなケースを取り出した。
器用に片手で中身を取り出しているのを見ていて、レミーナは思わず息をのむ。
「正式な物はまた作らせるがひとまずな」
そういって殿下は左手でレミーナの手を支え、右手の殿下が薬指に金と銀の模様が入った指輪をはめてくれた。
「この先を共に歩む者に祝福を。
我が眷属となる者に光あれ。
この者、我と共に有り我と共に朽ち、
共に土となる同族となりけり」
厳かな祈りの言葉と共に手を持ち上げて殿下は指輪に口付けた。触れられた薬指がふっと熱くなったように感じたのはきっと気のせいではないだろう。
嬉しさよりも畏れ多い気持ちがして、そっと離された左手を右手で守るように胸元で握る。
ありがとうございます、と言わなければいけないのに、何か重大な物を受け取ってしまった気がして不安な気持ちで殿下を見つめた。
そんなレミーナをなだめるように栗色の頭を撫でると、殿下は額に軽くキスをしてそんな顔をするな、と苦笑した。
「いちいち文言が物々しいだけで内容は市井の言葉と変わらない。気にするな。何か困ったことがあったらこの指輪が役に立つだろう」
「え! それはもしかしてお金に困った時にはこれを持って」
「なんでそんな発想になるんだ、絶対に質屋には行くな。売るな、外すな、絶対だっ」
「ひぇ! わかりました、お金に困っても売りませんっ、ごめんなさい!」
どかんと雷がおちてあわてて謝るが、婚約指輪ってそういうものじゃないのかな、と首を傾げていると、はぁ、と頭上でため息をつかれた。
「だいたい金に困るような事にさせるか。離塔に戻ったらすぐにカスパル老にこの指輪を見せてご教示頂いてくれ。私は立場上これ以上の説明はしない」
「ふぁい、わかりましたー」
おこらせちゃった、としょぼんとするレミーナに、本当に自覚があるのか心配になる、と殿下も天井を仰いでいる。
「いいか? 王太子妃に立后したらその時点で国家予算がつく。もちろん勝手に使うことはできないが、何かを質に入れて金を借りるような事態にはならない。むしろ使う事を前提に計画していかなければならないんだ。……うん、わかってない顔だな。了解した、基本的な妃教育を教える者をつける」
「わあぁぁ! 殿下! まって! せめて謎解きと養護院の案件が終わるまで待ってください! これ以上仕事を増やされるとあたまがこんがらがっちゃう!」
「三件ぐらいの同時進行なら軽いものだろう」
「そんなの貴方だけですからーーっ!!」
ぶんぶんと大きく首を横にふって、レミーナも負けじとそれこそ一般的な文官の仕事量をとくとくと殿下にさとす。
「いいですか、貴方ができるからといって部下が同じ能力だと思ってはいけないのです! 特に私みたいな文官になってニ、三年の者なんか一通りわかっているようでわかっていないんです! 軽い仕事から様子見て、大丈夫だったら少し増やす! できると思ってあれもこれもって詰みすぎると逃げちゃいますよ!」
「ふむ、年数と実績から出来ると思って仕事を増やすなと?」
「出来れば面談して決めた方がいいですよ、やらせたい仕事があるのはこっちだって分かっていますよ? 適材適所を見極められる方を置いてその方に配分して頂いた方がよいと思います。できれば殿下じゃない人で!」
「ぶはっ、私は配分役には失格か!」
「あったりまえじゃないですか! 鬼教官を前にしてちょっとこれは厳しいです、なんて言える訳ないじゃないですかーーっ!! 直属の上司かそのいっこ上の方か、とにかく部下をよくみていらっしゃる方との面談が一番ですっ」
両手をぶんぶんと振って力説していると扉の向こうからなぜか拍手がわいた。
ん? と思って二人で扉を開けると、クレトと両脇に立っている護衛騎士がぴしりと略礼している。
「お前ら盗み聞きかっ」
「失礼な、それをいうなら扉の前ですったもんだし始めないでくださいよー。レミーナさま、我ら下の者の気持ちを代弁してくださってありがとうございます! 殿下、そう言う事でお仕事を振る際はご一考してくださいねー」
「もちろんまだ仕事に慣れていない者に関しては考慮する。お前たちは対象外だ」
ひどいっ! とクレトは目を見開き、両脇の護衛騎士はがくっと首をたれてしまったので、レミーナはあああと思ってついポケットに入れていた殿下用のお菓子を取り出す。
「えっと、その様子だと殿下がいつも無理難題いってるんですね? いつもごめんなさいです。少しですがこれでも食べて元気だしてください」
「まて! それは私のために持ってきてくれたのじゃないのか?」
「そうですが、殿下のはまたにします」
「そ、れは……」
ばっさりと貴方の分を渡すといわれて殿下は絶句して固まってしまった。
あわてたクレトがよっしゃこのお菓子でちょっとだけみんなで休憩しましょうそうしましょー!! と声高にその場にいた男たちを執務室に放り込んですぐにレミーナの元にきた。
「レミーナさま、お菓子の予備ってありますか? ありますよね?!」
「あります、あります! 殿下の分は後でまた届けようと思っていました」
「よ、よかった! その旨、伝えておきます。ひゃー……今日の執務が手につかなくなるところでした。よかったー」
「そ、そんなに? なんか大事になってしまってごめんなさい」
「いえいえ! お気になさらずに! レミーナさまのお気持ちもとても嬉しいのです。それにあんなあたふたした殿下が見られるのも最高なのでレミーナさまはそのままでいて下さい」
クレトがにっこりと笑って頷いてくれるのでレミーナもほっとして、じゃあ後はお任せしますと会釈をして廊下を歩き出した。
朝の柔らかい光が差し込んできた廊下を、ゆっくりと道筋を確認しながら戻っていくレミーナの後ろ姿をクレトは見守る。
「夫の部下の為に気遣いができるということは……レミーナさま、奥さまになられるお気持ちが固まったのですね」
穏やかに微笑みながら片手を胸にあて、深々と頭を下げた側近はすぐに執務室の扉を開ける。
紅茶でいいですかー? ミルクいりますかー? あ! 私の分も残して置いてくださいよ、残さないと給仕しませんよー!! と明るい声を上げて足早に入っていった。