58 レミーナとアルフォンス
クレトが少しだけですよー、とのんきな声をかけてパタンと部屋を出て行ったようだけど、レミーナはそれどころじゃなくて。
「殿下っ、し、心臓がはれつしそうです」
「だろうな、慣れろ」
うわぁぁ、殿下が命令したっっ……!
今まで常にこちらを思って言葉を選んでくれていた殿下が! でもなんとなく腕の力も強いし、抱きしめてくれているというよりか少し寄りかかってきている感じもするし。
もしかして疲れてるの?
レミーナはどきどきする気持ちを抑えながら勇気を出して背中に手をそえた。
「殿下、お疲れですか?」
「……心配した。貴女が屋敷に戻っても泣いていたと聞いたんだ」
「え? 誰に?!」
思わず身体をそって顔を見たのがいけなかった。まだ怒っている目をしているのに、こつりと額を合わせてきた。
「貴女の一番上の兄上だ。名前は、ファビオといったか」
「に、にぃさま、あれほどやめてといったのに……って、殿下、ち、近い」
「婚約者ならこれぐらいが普通だ」
ほ、ほんとに? そういうものなの⁈
顔の火照りが耐えられないぐらい急上昇してきているのに、目の前の人は涼やかな声。ていうか、恥ずかしすぎで視線なんて合わせられないよ!
ぎゅっと目をつむって、あの! と強めの声を出す。
「だ、大丈夫ですから、もう心に決めましたし大丈夫ですっ!」
「決めたか……」
少しだけ息をのむ気配がしたかと思うと、抱きしめられていた腕がほどけた。
殿下の右手がそっと指先を掴んでくる。
「聞こう。貴女の覚悟を」
透き通るような冬空の瞳をして、殿下は頷いた。
ゆるやかに拘束がとかれて執務机の斜め横にある長椅子へ導かれる。向かい合うのではなく隣に座ってくれるのが嬉しかった。
臣下ではなく、近しい者として接してくれる。
それはとても嬉しい事なのに、その背に負っている重さを一緒に待つんだ、と思うと緊張感がひたひたとせりあがってきてレミーナの指先は冷たくなっていく。
「えっと……」
きっと心配させてしまったから殿下に顔を見せて、少しだけ話して自分も安心してから仕事に行こう、ぐらいの気持ちでここにきたからすんなりと言葉が出てこない。
突然緊張する場面になってしまって、レミーナの心はどんどんとおいつめられていく。
息がうまく吸えないような、そんな苦しさがこみ上げてきたとき。
ふわりと頬に、硬い感触が触れる。
右手の殿下がやわらかく頬をなでてくれている。
「殿下……」
「くそっ、また先を越された」
「殿下?」
目線を上げるとくやしそうな顔をした殿下が近づいてきて、撫でられている頬の反対に口づけを落としていく。
「貴女にとっては同じかもしれないが、私にとってこの右手は時折切り捨てたくなるぐらい忌々しい存在だ。告げたくなければ無理をしなくていい、と言いたいのだろう。私も同じ気持ちだ」
物騒な事をいう殿下に、それはいやですっ、でもありがとうございます、とほっとした気持ちでいったらすごく不機嫌になった。
「こいつの方が好きだというのは無しだ」
「ちがっ、そういうことじゃなくて」
レミーナがあわてて否定をすると今度は頬を撫でていた右手がびくりと震えて、すぐにむにーーと引っ張ってくる。
「ちょ、ちょっと、殿下、ひっぱるのやめて、ちがう、そうじゃなくて」
「どういうことだ? どっちが好きなんだ」
ちょっと、やめて! 殿下も右手の殿下もいいかげんにしてって!!
「なにいってるんですか、どっちがじゃなくて、どっちも殿下でしょ?! 右手もあなたも全部好きなんですっ!!」
馬鹿なこといわないでくださいって言葉は続かなかった。右手の殿下は耳の後ろから後頭部をさっと掴んで首を上にむけるようにするし、殿下はそれに合わせたように口を塞いだから。
「……前も思ったが、そんなに驚いた顔をするな。あと目は閉じるものだ。息も止めるな」
こころもち前よりも長い口づけにどうしたらいいのか分からなくて微かに震えると、殿下はすぐに離れてそんな事を言ってくる。
苦笑しながら覗き込んでくる瞳が明るい。知ってる、この色は殿下の機嫌がすこぶるいい時の色だ。春の光をおびたような柔らかい海空色。
「そんなの……はじめてだから、わからないです……」
「そうか、わからない、か」
思わず、といったように殿下は口元を手でおおい、あさっての方を向いている。何かを堪えているみたいな様子でレミーナは眉をひそめた。
笑ってるの? なんで?
「だって仕方ないじゃないですか、ずっと家に引きこもっていたようなものなんです! 恋なんてしないと思ってたし、一人で生きていくつもりだったんです!」
「ちがう、いや、ちがわないが」
「なんなんですか、初心者だって笑うんだったらこういうことしないで」
くやし涙が出てきそうになってレミーナは殿下から距離をおこうと自分と殿下の間に腕を入れたら、そのまま強く抱きしめられた。
「可愛いな、と思っただけだ」
耳元で囁かれて、逃げ出したくなった。
もう一度口付けていいか、と今度は確認されてどう応えたらいいのか分からない。でも嫌なわけじゃないから、その思いだけは伝えたくて少しだけ上を向くと、ふっと笑った気配がした。
見つめ合うなんてできなくて、目を伏せていると口元が柔らかい感触に包まれる。しばらくして息が上がってしまい、もうむり、と小さく胸を叩くとさらに拘束は長くなってしまった。
扉からのノックがなければずっと唇を甘く噛まれていたかもしれない。
レミーナが肩で息を整えていると、殿下は側を離れてドアに向かう。一旦外へ出て何かしら話をしているようだったが、戻ってきた時にはトレイを持っていた。
「あの、クレトさんは?」
きっとノックをしたのはクレトだろうと、レミーナが尋ねると、殿下は涼しい顔で用事があったのでそちらに向かわせた、といった。
「貴女のそんな顔は見せられないしな。少し落ち着くまでここに居たらいい」
そういう訳には、と長椅子から立ち上がろうとするのだが、いいから、とトレイを近くのテーブルに置いて柑橘のジュースを手に持たせてくれる。
赤くなってしまった顔に当てたいぐらいの冷たいジュースは正直、嬉しかった。さわやかな香りが鼻腔を通りぬけて、目が潤んでしまうぐらいの火照った気持ちを抑えてくれる。
「それで、どう決めたんだ?」
殿下は先ほどの行為なんてなかったかのように冷静にきいてきた。その切り替えの早さに目をぱちぱちとしたレミーナだったが、さすが冷静冷血な鬼教官、いやアルフォンス殿下だ、とグラスをテーブルにおいて姿勢を正した。
「私はアルフォンス王太子殿下のお側に立ちたいと思います」
「王太子妃、でいいのか」
少しばかり驚いたような顔をしたので、そうだろうな、と思いながらゆっくり頷いた。
「王太子妃で構いません」
ラミラさまのように、貴方の母上のように凛とした声が出せているだろうか。そう思いながらレミーナはくっとお腹に力をいれた。
「不束者ですが、末永くよろしくお願い致します」
同じ目線でお互いに座ったまま、静かに告げた。
かたや王子然とした白地に銀の刺繍が入った仕立ての良い官服、かたや簡素な深緑色の文官の制服をまとっている男女がこの部屋にきてやっとまともに見つめ合った。
「ふっ、王太子妃で構わない、とはな」
「あ! すごい上からですよね、失礼な物言い、申し訳ありません」
今度はきちんと頭を下げて謝ると、いや、と殿下は頭を上げるように、といった。
「他の者の前でなければいい。貴女はそのまま、正直なままでいて欲しい。そこが良いところだ」
「……ありがとうございます」
自分自身を認めてくれる存在の、なんと大きな事か。
殿下を右手の殿下と分けないで考えているレミーナと同じように、殿下もそのままの自分を受け入れてくれる。
ああ、だからこの人なんだな。
誰からも、家族からもほんのりとレミーナそのものを受け入れてもらった気持ちになったことはなかった。
アルフォンス殿下だけ、そのままのレミーナでいいといってくれる。ともに生きていきたいと思う理由をみつけた気がして、レミーナは胸が熱くなった。




