57 レミーナ
「ふー、よかった、無事に屋敷を出られて」
レミーナはそう呟くと馬車を降り、一日しかたっていないのに久しぶりに入るような気持ちで王宮の開かれた大扉をくぐった。
昨日、レミーナは急だったがお休みをもらった。
もちろん出仕するつもりで自分の気持ちの立て直しは出来ていたが、夜に大泣きしたのが響いて目元はぱんぱんに腫れてしまったのだ。
しかも朝食時にそれをみた父、オクタビオがいきりたったものだから大変なことに。
娘をこんな顔にしやがって、と理由も聞かずに駆け出しそうになる父を一番上の兄、ファビオが羽交いじめにし、レミーナと母で必死に事情を説明していたら出仕時間なんかとっくの昔に過ぎてしまって。
「とにかく泣いたのはアルフォンス殿下の所為じゃないの! 王太子妃になるのがこわくてお母さまになぐさめてもらっていただけ! でももう大丈夫だからっ! 殿下のお嫁さんにがんばってなるから!」
レミーナが声を張り上げていうのだが、父はかえってうおぉぉっと吠えだし。
「愛する娘にそんな苦労させられるかぁぁぁっ! どいつもこいつもうちの可愛いレミーナに無理難題いいやがってぇぇぇ! 誰がなにいったぁ?! 全員まとめて肉団子にしてやらぁぁぁ!!!!」
と再び暴れ出したからたまらない。まずいと思って兄にいいからやっちゃって! と足払いをしてもらい、膝をついた隙に母と一緒に背中に飛びついて座り込み、家令を通じて親子共々、次兄以外全員一身上の都合で休みます! と連絡をしてもらったのだった。
そして大人の女性二人を背中に乗せながらも性懲りも無く動き出そうとした父に、とうとう母がピシリと扇子を父の目の前に突き立てた。
「もう、ほんと、貴方って人は……レミーナが自分の意思で決めたことなのよ? 親は黙って背中を押してあげるのが筋ってものでしょう?」
静かな、それでいて聞いたことのない冷ややかな母の低い声にぴたりと動きを止める父。すかさず氷のたくさん入った布袋をメイドに用意させて父の首の後ろに当てた母は、目線で部屋に戻りなさいとファビオとレミーナに指示し、ふらふらと立ち上がった父に寄り添いながら一緒に食堂を出て書斎の方へと歩いていった。
「母さんのあんな声、初めて聴いたな」
「うん、私も。でも、お父さまは知ってるみたいだったね、すぐに動きを止めたもの」
「ああ、何かあるんだな、あの声の母さんには」
「うん、何か……あるんだね」
顔を見合わせて頷いたレミーナにファビオは、俺は今から出仕するが、と冷静な面持ちで聞いてきた。
外見は父に似て強面だが、内面は母に近く表情を崩したことを見たことがない。
「レミーナは休むということでいいんだな?」
「うん、お父さまとお母さまも心配だし」
「お前もな。疲れている顔をしてる。少しゆっくりした方がいい」
「はい」
レミーナは素直に頷いて、見送りに玄関のホールに立つ。いつもはじゃあとすぐに出て行くファビオが、珍しくレミーナの隣から動かない。
「ファビオ兄さま?」
不思議に思って、頭二つ分背の高い長兄を見上げると、何か伝言はあるか? と短く聞かれた。
「伝言?」
「アルフォンス殿下に、だ。管轄はちがうが殿下の側近とは顔見知りだから伝えることはできる」
「兄さま……」
歳が十歳も離れているから近いようで少しだけ遠い存在に感じていた兄が気づかってくれる。
「何かカードでも書くか?」
「いえ、それだと兄さまの出仕が遅れてしまうから……明日出仕します、とだけ」
「それだけでいいのか?」
「はい、それで分かって下さるから」
大丈夫か、というようにファビオは太い片眉を上げていたが、レミーナが晴れやかな顔で頷いているので承知した、と短く応じた。
「まぁ、父ほどではないが俺もクラウディオも心配している。何かあったら頼れよ? 自分が動けない時は人を使ってでもなんとかする」
「ありがとう、兄さま。馬舎にいったらクラウディオ兄さまにも大丈夫だって伝えて」
きっと近衛の護衛騎士はいろいろと制約があるのだろう。人を使ってでも、と言ってくれる兄に大きく頷き、頼りにしてます、とにっこり笑った。
「……ずっとこの家にいてくれると思っていたのだがな。殿下といえど妹を任すに値する男か剣を交えてみる必要がありそうだ」
「に、兄さまー? あの、殿下は剣も立つっていうお噂、おーい、兄さま聞いてるー?」
「心配するな、俺が見極めてやる。では行ってくる」
「いやいや心配なのは兄さまの方だからー! ってきいてない……いってらっしゃい……」
殿下、ご、ごめんなさい……どこかで模擬試合が組まれてしまいそうです……。
静かな闘志をみなぎらせて出仕していく兄の背を見送りながら、レミーナは先に心の中で謝り屋敷の中へ戻る。そしてせっかくの休みだからクッキー焼こう、と気を取り直して、一日二回も屋敷の中をバターと小麦粉のいい匂いをただよわせて家の人達を喜ばせたのだった。
今朝はそのクッキーたちを先に渡そうと早い時間に出仕したので、比較的静かな廊下を歩いていく。
廊下ですれ違う人はまばらだ。皆一様にさっと挨拶をしてきびきびとすれ違う。
背筋がぴんとしてる人多いな。ドンさんの金庫番の所みたいに大変な部署もあるけれど、活気がある。……殿下や陛下が、そのように心を配ってくれているんだよね。
レミーナは制服のポケットに手を入れると、小さなカードをそっとなでる。
昨日、厨房で生地をねっていたら届いた一輪の花とカード。差出人は殿下だ。
短くもレミーナの体調を気にしていて、無理をするなとも書かれていた。こちらを気遣ってくれる殿下の気持ちが届いてとても嬉しかった。
だからせめて、少しだけ顔を出して離塔にいこうとアルフォンスの執務室へ急いだ。
長廊下を突き当たりまでいき、右手の角の王宮図書館をちゃんと確かめてから図書館脇の階段を登る。二階にあがったらすぐに方向としては来た道を戻るようにまっすぐ歩く。
方向音痴のレミーナは北とか南とかがいまいちぴんとこない。なので、まっすぐ、かいだんのぼる、右には行かない、まっすぐもどる、という単純な道筋を頼りに身体の向きを決めていた。
こっちでいいのかな、って迷うとほんとに迷っちゃうからまっすぐまっすぐ。
途中、右手に移動できるように交差する箇所もあるのだがひたすらまっすぐ歩く。
濃紺の壁はどこまでも続いているように見えるが、突き当たりの扉がレミーナを迎えてくれた。
少しだけ上がってしまった息を整えて、ノックを二回する。普段ならすぐに開くドアがなかなか動かない。
あれ、叩く回数、間違えた……?
不安になってもう一度叩こうとしたら、ふいに開かれた。
「え? 殿下?」
「あいさつ」
「あ、お、おはようございます、殿下。クレトさんは?」
「ここにいますよー、殿下に先を越されました」
殿下の肩越しにクレトさんが片手でひらひらと手を振っている。もう片方の手は大量の書類を抱えていたので、殿下が自ら開けてくれたんだろうな、とお礼を言おうと目を向けるとあきらかに冷ややかで冬の空のようにかえって冴え冴えときらめいている海空色の瞳と目が合った。
え、え、なんで怒ってるの……? わたし、なにかまずいことした?
ぴきーん、と固まってしまったレミーナの手をとったのは右手の殿下だった。右手の殿下はよくきた、とでも言うように優しく親指で撫でてくれるし、ひさびさに本人と手の違いに目を白黒させていると、殿下は空いた手でパタンと執務室のドアを閉めた。
なんだろう、この雰囲気……後ろの窓を閉められたとりさんの気分なんですけれど……。
うろろとブリザードな視線からなんとか外してクレトさんに助けを求めるのだが、先に片手を顔の前に立てて苦笑いしている。
あ、だめっぽい。
レミーナはわぁ……と思いながら殿下に目を戻した。
「えーっと、無言の圧がこわいです、殿下……」
わけがわからなくてそう正直にいうと、はぁ、と盛大なため息をつかれ、肩にふわりと殿下の頭がのった。
え、ええっ、殿下、あの、わぁぁぁっ!!!!
気がつけば息苦しいほどに抱きしめられていた。その殿下の変容についていけず、別の意味でレミーナは身体はおろか頭の中さえも真っ白になって動きを止めたのだった。




