55 レミーナとフローラ
目を開けるとそこは見なれた自分の部屋の天井だった。
流れ落ちそうになる涙を人差し指でぬぐいながら身を起こそうとすると、右手に肌ざわりの良い布の感触がありはっとする。
「ラミラさま、グレイさん」
グレイは約束通り鏡を手元に届けてくれていた。レミーナはまだはっきりとしない頭を休めるため、鏡を胸元にだきしめながらベッドの端に座っていると、ドアからノックが聞こえた。
「レミーナ、私よ。入っていいかしら」
「お母さま? どうぞ」
扉が開かれ、小さなワゴンを引いたメイドと共に部屋へ入ってきたのはレミーナの母、フローラ。
メイドがベッドサイドのテーブルにサンドウィッチを乗せたトレイと紅茶のポットを置くのをぼんやりと見ているレミーナをみて、眉をひそめて隣に座る。
「レミーナ、体調が戻らないみたいね。夕飯の時間になっても寝ていると聞いたから軽く食べられるものを持ってきたのだけど」
「ん、たべます。ありがとう、お母さま」
自分の意思とは別な形で眠っていたからか、なんとなく身体が重たい。でもおなかはすいているのだ。
母からお皿をもらってシェフがわざわざ食べやすいように作ってくれた白身魚のフライがはさまれているサンドを感謝してパクりと食べた。
まだ温かくて、わざわざ別で揚げてくれたのがわかる。
「明日シェフにお礼をいってね。心配していたから」
わかっているわ、とレミーナは食べながら目線で頷いたとたん、きゅう〜 と応えるように鳴ったお腹の虫にあわてて手を当てる。
赤くなった娘をみて、あらあら、とほっとしたように笑ったフローラは、メイドがカップに紅茶を入れたのを見計らって人払いをした。
「いつもより早い時間に王太子殿下の馬車で帰ってきたから心配してたのよ? あなたは何も言わずに部屋にこもってしまうし」
レミーナのお皿が空になるのをみて、今度はたまごサンドのお皿を渡してくれる。
ちょうど今度は卵系を食べたいと思っていたので、よくわかるな、と思いながらまたぱくぱくと食べる。
「お父さまにお聞きしても知らぬ存ぜぬの一点張りだし、そのくせあなたのことは気になるのか食事中でも何度も部屋に見にいかせるし。もう、そんなに気になるんだったら起こしましょうか? っていっても寝かせとけっていうし。ほんと溺愛すぎて困っちゃうわ」
「けほっ……お、お母さま、もう、もう十分」
フローラがしゃべりながらどんどんどんどんお皿にサンドをのせてくるので、次々と食べていたレミーナのお腹はぱんぱんになってしまった。
「そう? もっと食べてもいいぐらいだけど。はい、お飲み物どうぞ」
「あ、ありがとう、お母さま。紅茶も一杯で十分だからっ」
「あらあら、レミーナは食が細いわねぇ」
「おかーさま、それちがう! お兄さまたちと比べてるでしょ? 女子はこれぐらいで十分だから、ほんと、食べている方だから」
そーお? と片頬に手を当てて首をかしげている母に、レミーナはそうですっ、と返して紅茶を飲み干した。
そんなレミーナを微笑ましそうにみている母の視線が気恥ずかしくなり、お皿を持つために横に置いていた鏡を文机に置こうと手元にひきよせると、あら? とフローラが声を上げた。
「レミーナ、ちょっとその鏡、よく見せて?」
「えっと、これは……」
なぜここにあるのかと聞かれたらどうしよう? グレイさんのところに寝てる間にいってきたっていってもとても信じられない話だし……!
なんて言ったらいいのかしどろもどろになっているレミーナに痺れをきらしたのか、フローラはちょっと失礼、と娘の手元にある鏡を取ってしまった。
「お、おかーさま、強引っ!」
「別にいいでしょ? 隠すようなものでもないじゃないし。ああ、やっぱり……! ねぇ、レミーナ、こちらはアルフォンス殿下から頂いたのよね? だってラミラさまの鏡だもの!」
「ど、どどどどぉしてそれを⁇⁈」
「んふふふ、驚いた?」
母は肩をすくめて少女のように笑うと肩を下ろし、懐かしいわ、と鏡の支柱を愛おしそうに撫でた。
「これね、ラミラさまがまだご令嬢の時に私がお誕生日にプレゼントしたものなの」
「ええっ! おかあさまが?!」
「そう、ラミラさまがベルナルドさまの王太子妃になる前にね。ふふっ、二人でお泊まり会もしたのよ? 楽しかった」
あなたは知らないでしょうけれどさっぱりとした方でね、と話し出す母に私も鏡の中で会った! と言いたかったが、レミーナはぐっとこらえた。
ラミラの最後の場面は彼女の名誉にかけても見せたくないし、それになにより、一方通行だとしてもラミラの姿をみれるのはレミーナしかいない。
楽しそうにラミラとの思い出を語っている母に、私は見られるけれど貴女は見られない、というのはかえって辛いんじゃないかと思った。
「デビュタントのお披露目も一緒で並びが隣同士でね、小声で素敵なドレスねって声をかけてくださったの。私は舞い上がってしまって、あなたも素敵、って応えたのだけど、後で考えたらみんな同じような白いドレスと赤のサッシュじゃない? すごく緊張していた私を見かねて声をかけてくださったのよね。それに気づいた時にますます素敵な方だな、と思って。すっかり好きになってしまって仲良しになったのよ」
「殿下からはラミラさまとお母さまにご縁があるだなんて聞いたことなかったけれど」
「そりゃそうよ、殿下もあなたも生まれていない時の話ですもの。ご存じないんじゃない?」
ラミラさまから、殿下、レミーナの元にきてまたこうして眺めることができるなんて、とフローラは目を細めている。
本当はおそらくラミラがグレイの所へ移るときに持っていったと思うのだが、レミーナはやはり黙った。
こうやってお母さまにも言えないことが増えていく。そういうものだ、って受け止めないと。
わざわざ言うことではないとはいえ、自分の家族に遠慮なく話すことができない、というのはレミーナにとって辛いことだった。
余計なことをしゃべらないようにと口元を引き締めていたのだろう、鏡からこちらに目を向けたフローラがけげんな顔をした。
「どうしたの? そんなこわばった顔をして」
「え、そ、そう。うん……」
普通にしているつもりだったのに顔にでちゃうんだなぁ、とため息をついて、レミーナは少しだけ考えてフローラに話し出した。
「今日ね、初めて陛下とお話したのだけど、ダメ出しをされたの。王太子妃になる覚悟がないなら王宮にこなくていいって」
「あらー……陛下、さすがねぇ」
「おかあさまー」
別になぐさめて欲しいわけじゃないけれど、あなたの娘がけなされたのにその言い方ってどーなの?
じと、とした目で母をみると、仕方ないじゃない? と逆に軽くいなされた。
「陛下は昔から人の弱い所につけこむのがお上手な方よ? そんな人の前で貴族社会にも慣れていないひよっこのレミーナなんてすぐ見抜かれてしまうわよ。それで、どうすることにしたの?」
「うん、それでも出仕するし」
その次に口にしようと思った言葉はやはり重たくて少し間をおいてしまった。それでもレミーナは勇気を出して、母に告げる。
「……王太子妃になれるよう、がんばる」
「そう……」
フローラは喜ぶでもなく悲しむのでもなく、深い息とともに呟くとしばらく黙った。
そして手に持っていた鏡を丁寧にサイドテーブルに置くと、レミーナの隣にもどって両手を握り、これもご縁かしらね、と笑った。
「この言葉を言うのは実は二回目なの。一度目は私の親友だったラミラさまに。そして二度目をまさか自分の娘に、……レミーナに伝えるとは思わなかった」
「お母さま」
フローラはレミーナの両手を包み込むようにさすりながら優しく頷く。
「〝いつでも、はなれていても、あなたのことをずっと想っているわ。だから何かあったときは迷わずに呼んでね。小さなことでも、大きなことでも〟」
「……っ……おかあさま……!」
レミーナはたまらなくなって母に抱きついた。
あとからあとから涙があふれてくる。
柔らかく背中を叩いてくれるその手に何度助けてもらっただろう。デビュタントで傷ついて帰ってきたときも、文官になりたいといって父に反対されたときも、いつも母は抱きしめてくれていた。
この温もりと別れなければいけない未来がこわかった。未知の世界に入っていくのがこわかった。
自分のより所なしに、知らない場所で一人で立つのがこわかった。
「王族になるというのは言葉にできない重圧だと思うわ。家族にも言えないことが出てくるかもしれない。でも私たちはずっと貴女のそばにいる。何も言わずに抱きしめてあげられるわ。だから呼ぶのよ? レミーナ。ただ抱きしめて、って、そういえばいいの」
「……っ……っ……はい、おかあ、さま」
いつなんどきでも、貴女は私の大事な娘よ? それを忘れないでね……。
そういった母の声も少しだけ震えていて、レミーナはぎゅっと強くしがみつくと、何度も何度もうなずいたのだった。




