50 レミーナ
アルフォンス殿下を伴って部屋に入ると、リアナが給仕室と応接の間の壁に手をあてて妃殿下の名前を呼んでいた。
「リアナさん?! まさか、妃殿下が壁の中に?!」
「お、おそらく! こちらから声が聞こえるので……っ! アルフォンス殿下!」
振り向いたリアナが殿下を見て驚いている。おそらく許可なしに男性が入る部屋ではないのだろう。でも今はそんな事をいっている場合じゃない。妃殿下の荒い息づかいが部屋に響いている。
「失礼ながら部屋に入らせてもらった、こちらから壁の中に入る場所は?」
「分かりません、妃殿下からカードは送られてくるので、どこかしら小さな隙間はあると思いますが」
不安げに壁を見るリアナに、レミーナもアルフォンスから離れて壁を触る。
この王宮は小さなからくりがたくさんある。どこか押すところとか、一階の隠し部屋みたいに壁を上げるレバーとか……!
レミーナはなにかデコボコしたものはないかと壁に目をこらすのだが、白く美しいクリーム色に上品に型押しされたつる草の紋様がついているだけだ。
レミーナは壁からはなれ、アルフォンス殿下の元に戻る。
「殿下! 殿下はご存知ないのですか? 壁の向こう側にいける入り口とか」
リアナがいるから詳しくはきけないけれど、これだけ伝えればレミーナが知りたいのは殿下と一緒に抜けた隠し通路の事だとわかるはずだ。でも殿下はすまないが、と首を横に振った。
「私が知りうるのは自分の管轄の区画だけだ。こちらの区画で分かる者といったら妃殿下と」
「まぁ、おひぃさんの夫である私だけだろうなぁ」
突然、楽しげな太い声が響いてレミーナはびくりと肩を跳ね上げた。
「クソ親父」
「うう……こしぬけ……」
冷ややかな声と壁から届いた苦しそうな声に、ひどいっ二人とも! と残念そうな太い声が響く。
危機的状況なはずなのに、レミーナはあぜんと口を開いてしまった。
「クソ親父にこしぬけヤローって……もしかして、へい、か……?」
「あはは、こんにちはお嬢さん。かわいい格好してるね」
「あ、これは」
慌てて侍女服のまま黒い裾をつかみ深く膝をおって壁に向かって令嬢としての挨拶をする。
「ふうん、綺麗なカーテシーだがそんな格好をしているとますます王太子妃にはみえないねぇ」
壁の向こう側から淡々と評価されている様子に、レミーナの背中がひやりと冷え、嫌な汗がつたった。
「まだ王太子妃候補だ、問題ない」
アルフォンス殿下がレミーナの隣に立ち、さりげなく腰を支えてくれた。しかし、まだ王太子妃候補、という言葉にレミーナは静かな衝撃を受ける。
「ふん、その候補者どのはそなたの言った意味も汲み取れないようだぞ? コミニュケーション不足はお前の落ち度だ」
「レミーナ?」
殿下は戸惑ったようにこちらを見ている。レミーナは動揺した心を隠してなんでもないです、とへらりと笑うが殿下は眉を潜めた。
「はぁん、確かに、まだ候補者のようだ。当て馬でも用意すれば自覚するか?」
面白そうに不穏な事を言い出す陛下に、ぎくりと身体を震わすレミーナ。そんな様子にますます自分の方に身体を寄せるような仕草の殿下に、レミーナはそっと手を重ねた。
すると、壁の方の様子が変わる。
「ぐふっ、おひぃさんやめ、腹を攻撃するの、やめ、ぐふぉぉっ!」
「レミ……たん、いじめる……の……ゆる、さないっ……こしぬけっ」
「や、やめて、その不名誉なあだ名で夫を呼ばないでよ、おひぃさんっ」
「おまえの、名、など……こしぬけで充分……っつ!」
「ああぁ、無理するから」
はな、せ、という声が弱々しくなっていく。レミーナは壁の向こうの様子が心配になって殿下を見上げると、海空色の目は呆れたように細められていた。
「で、殿下、妃殿下は大丈夫なのですか……?」
「ああ、クソ親父が出てきたならば問題ない。あの二人はいつもあんな調子だ」
殿下の言葉に、そうなんだ……! とレミーナは心の中で驚きの声を上げる。
外から見ている分にはわからないけれど、陛下と妃殿下はすごくすごく、外と中の顔が違いそうだ。
「まぁ、そんな訳でおひぃさんは連れていくよ。しばらく安静だ。ここにも戻さない。ああ、それから候補者どの」
レミーナは陛下に話しかけられて、はっと顔を上げる。
「謎を解く気があるなら解いてこちらへおいで。その場合、後戻りはできぬ。バカ息子はそなたの自覚が伴うまで待つつもりのようだが私はせっかちでね」
歌うような軽い口調がだんだんと静かになっていく。レミーナはぴりりとした空気に、知らずと息を殺した。
「アルフォンスの隣に立つ者と謎解きは同義だ。そのつもりがなければこのまま自分の屋敷に戻るがいい。王宮に出仕もしなくてもいいよ。案外、その方が幸せなのかもしれぬしな。ではそのつもりで対応するように」
最後はしっかりした王らしい声音に、その場にいた全員が壁に向かって正式な礼を取る。
それに満足したのか、じゃあね、と軽い口調にもどった。そして、よっほっ、と掛け声が壁から伝わってきて、おろせこしぬけっ、という言葉と共に気配は消えていった。
レミーナは、しばらくの間膝を折り腰を曲げた状態から動くことができなかった。
そんなレミーナに、ぽん、とゴツゴツとした手が頭に乗る。
「茶でも飲もう」
「ご用意いたしますわ」
殿下の声にリアナがすぐ応じ、冷めてしまった紅茶ポットを片付ける音がする。
レミーナは、唇が震えそうになるのを噛んでこらえた。肩をやわらかく押されて身体を起こすが、顔を上げることができない。
肩に置かれた手がゆっくりと背中に回った。
導かれて殿下の腕の中に入ると、目の前にある獅子の紋様が織り込まれた飾りボタンの形がゆっくりと崩れていく。
だめなのに……!
レミーナは震える手で殿下との間に隙間を作ろうとするが、その動きをみてさらに腕の力は強まった。
「でんか、わたし、そんなしかく、ない……」
「今は侍女服を着ているからか?」
「ちがっ」
からかわれたと思って抗議に顔を上げると、殿下は苦笑してこちらを見つめていた。
「時々、私の婚約者殿は自分の思い込みで物事をとらえることがあるらしい。クレト曰くそれは、私の言葉が足りないからなのだそうだ。これでも改善したつもりだったのだがな」
そういって海空色の瞳が凪いだまま近づいてきたかと思ったら、レミーナの目尻にたまった水溜りを唇で吸いとっていった。
その優しさに、レミーナはまたぽろぽろと泣けてきてしまう。
「おかしいな? 止めたはずなのに」
わからないような口ぶりで、それでもレミーナの身体を抱いて頭を撫でてくれるのだ。
レミーナは腕の力を抜いて殿下の服をつかんだ。
ぎゅうっと、その布皺に顔をうずめる。
「わたしに、覚悟ができてないって……っいつから、気づいていた、の?」
しゃっくりをこらえながらレミーナが問うと、見ていれば、と簡潔な声が降ってくる。
ああ、殿下はわかっていたんだ。
好きだって言ったのに、自分から告白したのに、それに伴ってついてくる王太子妃としての責務には震えていた。
「すき、だけどそれだけだった。殿下の求められている王太子妃としての重みが、こわかったの」
「わかっている。答えが出ていないことも」
そんな事ではだめなんだって、わかってる。
でも心がついてこないのだ。
殿下と一緒にいたい。
お菓子を作ってお茶を用意して、一緒にお話したい。
でも王太子妃は……。
小さく、いまはまだ、と震える声で告げると、ああ、と一言だけ、耳におちてくる。
「まって、頂けますか?」
「考える時間はすくない。それでもいいのなら」
淡々と話す、変わる事のない殿下の声音が少しだけくやしかった。
どちらでもいいなんて、思っていないと信じてる。
もし、私が王太子妃はできないっていったら、どうなるんだろう。
婚約は解消?
アルフォンス殿下には新たな王太子妃候補が側に立つ……?
いや、いや!
でも、私はとなりに立てるの……?
声にならずに、嗚咽だけがこぼれた。
そんなレミーナの強ばった頬を、硬くて、でも温かな手が包む。右手の殿下だけではなくて、左手も。殿下の親指が溢れてとまらない涙を何度もぬぐってくれる。
レミーナ、と呼ばれて無理やり目線を上げると、海空色の瞳が揺るぎない強さでこちらを見つめていた。
「どちらかを選ばなければならない時はこれからも数多くある。どちらを選んだとしても悔やみそうな事もな」
「殿下……」
「心のままに決めればいいんだ、私や身分の事などは考えなくていい。貴女はどうしたいか。ただそれだけを考えればいい」
「でもっ、それだと絶対……っ後悔します」
「ああ、そうだ」
アルフォンス殿下は静かに頷いた。
「悔やみながら決めていくんだ。捨てた道も背負いながら、それでも歩いていくんだ」
沁みわたる声音とその眼差しはレミーナの脳裏に焼き付き、いつまでもレミーナの心に響いた。