41 レミーナ
ぱたん、と背後で扉のしまる音がした。きっとクレトさんが部屋を出ていったのだ。それがきっかけにか分からないけれど、頭上でため息と一緒にレミーナの耳に呼気がかかる。
ち、ちかい……!
思わず抱きついてしまったけれど、これじゃ話もできない。すこし身体を離そうともぞもぞ動いたら、背中を支えていた腕が少しゆるんだ。
「落ち着いたか?」
「は、はい。すみません」
声が近い。恥ずかしくてなかなか顔が上げられない。動揺して目を瞬かせていると、ふにっ、と片頬を摘まれてみよーんって伸ばされた。
「んー! なにしゅるんでしゅか、でんかっ」
レミーナは手を殿下の胸元に当ててつっぱり、逃げようと身体を離す。すると殿下はくくっと肩をふるわせてこちらを見ていた。
柔らかな瞳が穏やかに凪いだ海の色。
「海空色に、戻った……」
「うみそら色?」
「あ、いえ、その」
自分で作った色の名前、なんていったら笑われちゃう。
レミーナはなんでもないですっ、と首を横にふってまた目を伏せてしまった。
みてられない、みてられないっ……殿下なのに鬼上司なのに。
ほんの数分前にどん底まで心が冷えたのに今は沸騰寸前まで急上昇していてちょっとついていけない。
こんなに心をわしづかみにされて、こんなに振り回されるなんて。
拒絶されたと思った時は、自分を殿下の前から消し去りたいくらい目の前が真っ暗になって逃げ出したかった。
そしていまは優しくみつめられてるのに耐えられない。
「で、殿下っ」
「どうした?」
「す、座りませんか」
「ああ、そうだな、すまなかった」
殿下は一つ頷くと、さっと身体を離して長椅子のソファへエスコートしてくれる。ほっとして座ったのもつかの間、隣に殿下も座ったので、またふわぁぁと心の中で叫んでしまった。
ちらっとここまで連れてきてくれたクレトさんが来ないかと、背後の扉をみても開く気配がない。
するとまた頭上からくすりと笑った気配がした。
「クレトはしばらく来ない。どうした? ここまで来たのには何か用事があったのだろう?」
「わっ、え、ええ、はい」
自分の少しの仕草で考えている事を見破られてドキッとする。
それもあって、レミーナはだんだんと頭の中がぐるぐるとしてきた。
ええっと、何を聞くんだったっけ……殿下に私の事をどうおもっている、とか? いやいや無理無理そんなこと……ええっと謎解きのこと? だったかな、ああ、まとまらないっ。
身体は殿下の方に向けていてもなかなか話し出す事が出来ず、制服のプリーツを握ったり離したりしてしまう。
レミーナはどうしようと動揺する自分の両手を見つめていると、少し影が差し、節のある左手がレミーナの右手を取った。落ちつかせてようとしてくれたのだろう、今度は殿下の右手がぽんぽんと上から重なり添えてくれる。
その労ってくれる両手に、レミーナはだんだんと自分を取り戻すことができた。
「……ありがとうございます、殿下」
「ああ、真っ白になったり真っ赤になったり、忙しないからな。まともに話しも出来なければここに来た意味がないだろう」
「うう、誰のせいだと……」
相変わらずのブリザードっぷりに恨み節をこめながら見上げると面白そうにこちらを見ている殿下がいた。
口は冷たいのに、優しい手、楽しそうな海空の瞳。
「殿下……戻ったの?」
消えてしまった以前の殿下が蘇ってきた気がして、レミーナは思わず口をついてしまった。
「いや、なにも変わっていない。右手も相変わらずだしな」
殿下は苦笑いをしながら一度だけ自分の右手を見ると、すぐにレミーナを見つめた。
しんとした風のない夜のような色をした眼が、こちらに向けられる。
レミーナは息をのんだ。
「レミーナ、代償は変わらない。私はこれから先もおそらくこのままだ。……以前の私の方が良ければ、現状の謎解きをやめることもできる」
殿下はゆっくりとレミーナを見すえ、一つ一つ噛んで含むように言った。
「以前のようには戻らない。グレイの所では君はそれでもいいと言っていたが、本当は違うのじゃないか? 以前の自分を追っているのであれば」
「っ今も以前も殿下は殿下です!」
「しかし君は」
殿下は少しだけ間をあけると、静かに告げる。
「何度も戻ったかと尋ねる。私には、以前に戻ってほしそうに見える」
「ちが……! そうじゃなくて私はっ」
レミーナは思わず立ち上がってアルフォンス殿下を見た。
見上げるようにこちらを見ている姿を初めてみた。失礼なことをしてる、とか、立場が、とか、そんなことは全部吹きとんで。
レミーナは手を伸ばす。
ぱちん、と、冷えている頬を両手ではさんだ。
そうじゃない、前とか今とか、そんなんじゃなくて、殿下だから、殿下だからいいのに。
「前も今も変わらなく殿下が好きなんです!」
見開いた海のような空のような色に告げる。一度口をついたら、想いが止まらなかった。
あふれる心が、とまらない。
「今の殿下は私に冷たいから、前の柔らかな殿下が恋しくなるんですっ。でもそれでも殿下は殿下で変わらないって、ちゃんと分かってる。戻った? って言っちゃうのは、前の殿下は、きっと私の事、少なからず想ってくれてたからっ。だからつい……聞いてしまうの。今は、今のあなたは」
「泣くな」
「っ泣かせているの……だれだと……なんで、笑ってる……の?」
「嬉しいからだ」
「いみ、わかんないっ!」
今度こそ声を上げて泣き出してしまったレミーナの手を掴んで殿下は引き寄せてくれた。
くしゃりと崩れ落ちたレミーナを抱きとめて、目元をぬぐったり額にキスをして。殿下の首にすがったレミーナの頭をずっと撫でてくれた。
やがて想いを吐き出してほっとしたのか、首元から伝わるゆっくりとした脈動に安心したのか、呼吸が落ち着くにつれてレミーナの瞼はとろりと落ちていく。
少しずつ力が抜けていっているのが分かったのだろう、殿下がレミーナ? と声をかけてくれたのは聴こえていたのだが。
声をかけつつも変わらずに髪を撫でてくれる心地よさと、背中に伝わる腕の温かさに深い息をついた。
気がついたら翌朝でルスティカーナ家の自室のベッドで。侍女のリサが、おはようございます、レミーナ様、昨夜のアルフォンス殿下はまるで絵本から出てきた王子様のようでしたよ! と起き抜けのレミーナに興奮したように教えてくれた。
曰く、殿下自らレミーナを馬車に乗せ、同乗してルスティカーナ家まで運んでくれたとの事。
屋敷の者がレミーナ様を預かろうと申し出たら、自分がベッドまで運ぶと申されてここまで運び、乱れた髪を直して額にキスを落としたのだという。
「それを家の者がいる前で堂々とされる姿、まさに王子! レミーナ様が昔から読んでいた『おしゃべりなカナリア』の最後の場面みたいでしたよ! 私の中でめでたし、めでたし、が流れました!」
「全然、めでたしめでたしじゃない……」
「レミーナ様?」
泣きすぎて頭痛のする頭を抱えながら、ぽすんと枕につっぷす。
「おろおろして勢いでうっかり告白……? しかも殿下からのお返事はなにも聞いてないなんて、さいあくとしかいいようがないよ」
呆然と呟くレミーナにリサが不思議そうに聞いてくる。
「レミーナ様、相思相愛になられたのでは?」
「ちがうの、リサ」
レミーナは顔を半分だけリサの方に向けてため息をつく。
「私の片思いかも。殿下は好きともなんとも言ってくれなかったもの……」
「ええ?! とてもそうには見えませんでしたが」
「ううん、たぶん、そう。親しくはおもってくださっているけれど、妹のように想ってくれているだけだと思う。だって兄さまみたいだったもの」
ぽんぽんと頭を叩いてくれる手も、髪を撫でてくれる優しさも、知った温もりだった。
幼い頃、父や母に叱られて泣いて部屋のカーテンの中にかくれていたレミーナをみつけていつも抱き上げてくれたのは一番上の兄、ファビオ。またおてんばしたの? って笑いながら背中をとんとんしてくれるのは次兄のクラウディオ。
昨日の殿下は、首元に抱きついてわんわん泣いているレミーナを慰めてくれたファビオやクラウディオの仕草にそっくりだったのだ。
「レミーナ様は、恋をなされているのですね」
リサの声が柔らかい。でもささくれ立つレミーナの心は、その穏やかなやさしい声を今は聞きたくなかった。
「リサ、もう少し寝るわ」
「はい、本日は休日ですものね。承知いたしました」
休みでよかった、とレミーナは思った。
この二日でなんとか気持ちを立て直さなきゃいけない。
リサが部屋を出ていったのをドアの音で確認して、ごろんと仰向けに転がる。
「片思いでもいい、なんて、物語の中だけの話ね……」
冬の木漏れ日が目にしみてきて、レミーナはまだ起きぬけで力のない片腕を眉間に当てた。
国中の女性が黄色い声を上げる人に恋をしてしまった。
国内外に目を光らせ、執務に励む人に対して叶わぬ想いが胸に広がる。
「わたしだけを見て、だなんて」
到底無理な相手だ。
アルフォンス・ファレーロ殿下はルイビス王国継承者第一位の、王太子殿下なのだから。




