37 レミーナ
きぃ、とかすかな音を立てて開いた扉の中を入っていくと、一度は失われた記憶と同じような景色が広がっていた。
入って向かい正面には二、三人が一度に座れる長い座椅子。その手前に長円テーブルがあり、右手には一人用のソファ。
左右の壁には天井まで届く大窓があり、床まで届く臙脂色のカーテンが金の紐で結ばれている。
ただ、一点だけ大きく違っているのがレミーナの真向かいにある壁だ。
記憶の中で色鮮やかな紫色のドレスが広がっていた場所は、横の壁と同じ乳白色の壁で覆われていた。
「ここ、よね。昨日は突然壁ができていて驚いちゃったけれど」
レミーナは正面壁まで歩いていって、そっと触ってみる。
目をつむって浮かび上がる映像には、この部屋の奥にもう一つ部屋あり、手前の会談する部屋から奥の部屋へ続く部屋の間仕切りに当たるカーテンの中へ妃殿下が引きずられていったように見えている。
しかし目を開くとずっとここにありましたとでも言うようなしっかりとした壁。押しても叩いても動くようなものでもなさそうで。
「わたしが記憶を失っていた二、三週間の間に壁を造ってしまえるのかな……壁って、そんなに早く出来るもの?」
例えば広い場所で少しだけ別の事をしたいときは、間仕切りができるように持ち運びできる衝立を使ったりする。
簡易的な衝立は折りたたみ式になっていて、広げると間仕切る壁の役割をしてくれるのだけれど。
レミーナはつーっと壁に人差し指を当てながら端から端へと歩いてみても、折りたためるようなでこぼこはない。
「うーん……どこからどう見ても壁にみえる」
「そうですよ〜 壁ですよ〜」
「ふぁいっ?!」
大きめのひとりごとにまさかの返事が来てレミーナはびっくりして振り向く。
そこには箒やモップ、はたきなど、掃除道具を抱えた、いかにもお掃除をしにきた年配のメイドさんだった。
「お仕事中すみませんが私も仕事でして〜、しょうしょうどいて頂いてもよろしいでしょうか〜」
「あっ、はいっ! すみませんっ」
黒ぶちの眼鏡の奥にくりっとした大きな目が見えるメイドさんは、慌てて二、三歩下がったレミーナににっこりと笑って、こちらこそすみませんね〜、と全くすまないとは思っていない声音で義務的に言うと、窓際の壁に向かっていき、臙脂のカーテンの裏手をごそごそしている。
「あ、あのなにを……」
「ん〜? お掃除ですよ〜? まったく、普段使ってない壁なんかおろしちゃって。掃除がしにくいったらありゃしませんよ、あ、危ないからもっと離れてくださいね〜」
「あっ、はいっ」
そういってまたレミーナが数歩はなれると、メイドさんはあー、じゃまくさいじゃまくさいといってカーテンをきゅっとまとめて、その留め金の近くにある取っ手付きの小さな車輪を回しはじめた。
すると、ぎぎぎっと車輪が鳴りながらレミーナの目の前の壁がゆっくりと下から奥の方へ上がっていき、白い壁であったものは天井に張り付いた。そして、レミーナの記憶通りの奥の部屋が現れたのだ。
レミーナは思わず口を押さえてしまう。
そっ、そんな仕掛けになっていたなんて……!
はぁ、やれやれ、やっと上がりましたね〜、なんて言いながら腰回りのしっかりしたメイドさんはその身体つきとは裏腹にてきぱきと部屋の角にある花瓶や左隅にある天蓋のベッドのサイドテーブルを布で拭いていき、床に箒で掃きはじめた。
突然予期せぬ形で現れた部屋を呆然と見ていたレミーナだったが、こちらを気にもせずさっさっと掃除を始めているメイドさんに気づいて慌てた。
はっ、まって、現場っ、現場だからっ。
「ええっとっ! あの、すみません、私はレミーナ・ルスティカーナというものですがっ」
「ん〜、文官さんがこちらに御用なんてめずらしいですね〜」
掃く手を止めずにメイドさんは顔だけこちらを向ける。
レミーナは片手を伸ばして彼女の掃除を一旦止めたいのだが、なんと声をかけていいのかわからない。
ええっとどうすればいい? えーっと、えーっとカスパル先生、なんて言ってたっけ⁇ 働いている者を片っ端からつかまえて、話を聞くのじゃ、とかなんとか言ってたよね?
「ええっと、すみませんが少しお話をお聞きしたいのですがっ」
「はぁ、掃除の時間は決まっているのでなるべく手短にお願いしたいですけれど」
「あ、じゃあ、私も手伝って、って、現場の維持はいいのかな、でももしかして毎日掃除されているのならもう意味はない……?」
「ん〜、なんだかよくわからないけれど、ここは私がいつも掃除していますよ〜」
「あ、じゃあ手伝います……」
何か起こった時はその場を維持するっていうのは王宮に勤める者共通の認識なのだから、メイドさんがいつも通りに掃除しているなら特に変わった事はなかったということだ。
でもそれじゃあ、私が見た光景はどうなっちゃうんだろう。
うーんと悩みながらも渡された雑巾でメイドさんが箒で掃いたところから雑巾をかけていく。
「あら〜 文官さんお掃除上手ね〜」
「今の職場で仕込まれましたから。よく知った者でないと何がどこにあるのかわからなくなるのでメイドさんに入ってもらうわけにもいかず、私が掃除しているのです」
「へぇ〜、文官さんなのにね〜」
「助手のようなもので、何でも屋さんです」
膝をついて根気よく拭いていると、初冬の室内でも汗が滲んでくる。
これを何部屋もやっているなんて、メイドさんってすごい。
「ふぅー、なかなかキツいですね、掃除の担当はこのフロア全てですか?」
「まさか〜、渡り廊下からこちらの三部屋だけですよ」
「そうですよね、ずっと同じ部屋ですか?」
「いいえ〜、季節ごとに交代しますよ? 冬から春にかけては私、メリルの担当です〜」
そういってメリルは箒をはいてしまうと、レミーナがかけている雑巾の跡が残らないように今度は乾いたモップを取り出して丁寧にレミーナの後を追って拭き始めた。
「おっと、すこし急ぎますね」
「おねがいします〜」
レミーナはメリルに追いつかれる前に雑巾をかけねばとしばらく集中して拭き掃除に専念した。そして部屋の端まで到達してやった、と起き上がる。と、くらりと立ちくらみがした。
「あっ、とっと」
倒れるまではしないけれど、目の前がチカチカと一瞬暗くなった。その瞬間、またあの忘れえぬ光景がよみがえってくる。
床に広がる紫の布地、つる草と鷹の意匠。
「妃殿下……どこにいっちゃったの……」
レミーナは額に手を当てながら思わず呟いてしまった。
「立ちくらみですか? ゆっくりそこのソファにすわりましょう」
離れていたメリルがいつのまにか側にいて、腕をとって背中を支えてくれた。
ちょっと待っててくださいね、とメリルは掃除道具がある場所にいくと、携帯用の水筒を持ってきてくれてレミーナに持たせてくれる。
すみません、頂きます、と口にふくむと、ジャミールという香りのあるお茶が喉を潤してくれた。鼻に抜けるすっきりとした香りが曖昧になりそうな意識をはっきりとさせてくれる。
「冷たいジャミールがおいしいです、ありがとうございます」
「いえ〜、この仕事けっこう体力つかいますからね〜、気分が良くなってきたならよかったです〜」
せっかくだから休憩しちゃいましょ〜 と言いながらメリルはレミーナとは反対側にあるソファに立ちながら寄りかかった。
「えっと、メリルさんは座らないのです?」
「そんな身分じゃないのですよ〜」
「えー……いいと思うけれど」
「ふふ、レミーナさんは気さくな人なんですね〜、文官さんなのに嫌な顔一つせず掃除もしてくれるし」
「いえ、メリルさんのお仕事の時間を頂いていることになるのですから。あとお手伝いするのは慣れていますしね」
レミーナが口元を綻ばせてにこりと笑うと、メリルさんは、あらかわいいわ〜、文官さんなのにかわいいわぁ〜 とからりと笑った。
メリルの心からの笑顔が見れて、レミーナも嬉しくてほっこりする。
もうちょっとお飲みなさいな〜 と水筒のお茶をまた勧めてくれたのでありがたく頂き、メリルのここの掃除以外のお仕事とか、レミーナの二人の鬼上司の話をして盛り上がった。
一息ついたあと、そうそう、とメリルが思い出しようにレミーナに世間話をするようにいった。
「さっき妃殿下の事をおっしゃっていましたけれど、もしかして妃殿下をお探しです〜? でしたらお部屋にいらっしゃるとおもいますけれど〜」
「ふぁい?!」
思わずがばりと顔を上げるとメリルは不思議そうに首をかしげてこちらを見ていた。
「文官さんは関わりがないから知らないかもですか〜? お姿は見えないけれど確かにいらっしゃいますよ〜? 食べ終えたお食事のトレイもあるし、お着替えした後もあるって。隠れっこでもしてるんじゃないかって私の同僚はいってましたよ〜。高貴な方のやることって不思議ですね〜」
いや、それってお隠れになっているか、誘拐されたか、軟禁されているか……ええ? でもお部屋に妃殿下が居た気配があるってどういう……えええ??
なんでもないように語るメリルの言葉が謎すぎて、レミーナは少しだけ涙目になりながら頭を抱えた。
遅くなってしまいましたがなんとか更新できました。
お待ち頂いてありがとうございます。
まだまだ謎は謎のままですがちょっと妃殿下の様子がわかってきました。
楽しんで頂けますように。
なん




