36 レミーナ
自分の知らないことをどんどん話し出すアルフォンス殿下とクレトにぷんぷんとして歩き出したレミーナ。廊下の角を曲がった途端、はた、と足を止めた。
「あれ……私、どこに向かって歩いていたんだっけ……」
きょろきょろと周りを見ると、右手が部屋が連なっていて、左手は中庭に出られるような作りの廊下だ。
「ええっと、まって。まだ迷ってない、迷ってないよ? だって目的地が分かってないんだもの。ま、まずはそこからじゃない? オチツコウ、オチツケバ、オチツクトキ」
迷った時の呪文を唱えながら、ひとまずどこかに落ち着いて考えようとレミーナは不安な足取りで中庭にでた。
「ここは中庭でどこの中庭かわからないけれど中庭には違いなくてとりあえず座る所があるはず……あった!」
柔らかな木目の横長なベンチがあったことにレミーナは安心する。
ああ、よかった、とレミーナはとすんとベンチに深く座ると、薄い日差しに照らされて温かくなっているぬくもりに癒された。
今年の冬は暖かくてありがたい、と言っていた柔らかな眼差しの殿下を思い出す。
自然と小さなため息がこぼれた。
ないものねだりなのはわかっているけれど、鋭い眼差しではない殿下に会いたくなる時がある。
こんな風にちょっと迷って一人になってしまった時は、特に。
「なんだ、ずいぶん覇気がねぇじゃねぇか」
「あ、ドン室長」
あわてて立とうとすると、いや、いい、隣いいか? と聞かれたのでどうぞ、とベンチの端に身体を寄せる。
どっかりと大きな身体が隣に座ったので木のベンチはぎしぎしと重そうな音を立てた。
わぁ、父さまみたいな大きな身体だわー と感心していると、頭の上の方から勢いのある声が降ってきた。
「ゆっくりしている所、悪りぃが時間がねぇから話すぞ? さっきの養護院の話だ。予算をぶんどりてぇなら実人数の変動を年単位で見せた方が早い。何年分用意する?」
「あ、はい。でしたら五年分ほど」
さっきの話をもう詰めてきたんだ、すごい、仕事がはやい、とゆるんでいた背筋をぴっと伸ばしてレミーナは答える。
「わかった五年分の年単位の総数を出す。もし人数の推移の幅が狭ければどうする? 納得する数字が出ない場合だ」
「ええっと……」
レミーナは口元に人差し指を当てて思考を巡らせた。
ポステーラの例を見ても一年の中で人の動きは推移している。年単位で動いていないように見えても月ごとに出せば人数の変動がわかるはずだ。
「では、年単位の数字がドン室長が見た感じで振り幅が狭いとみえたら、お手数ですが月単位の人数の変動を見える形にして頂けますでしょうか」
「ふむ、月ごとの動きで納得させるか、それならば逆に大幅な動きがあった方がいいかもな。年単位の方は俺の感覚でいいのか?」
「ドン室長は〝鋼鉄の金庫番〟と名のつく方なのでしょう? そんな尊称をもつ貴方の目に見てもらえるのなら、間違いないと思います」
レミーナがしっかりと頷いたのをみて、ドン室長はふんっと鼻で返事をした。
「やれやれだ。殿下やカスパル老に守られているだけのみそっかすかと思ったら存外と芯はあるか」
「ドン室長?」
ドン・ロペスは太い首に手を当て、こきこきと音を鳴らしながらどさっとベンチの背もたれに深く座った。
「レミーナ嬢よぅ、お前さん、これからどうしていきたいんだ?」
「え?」
レミーナは何を言われたのかわからず、上背のあるドン室長を見上げた。
ドン室長は手にもっている資料をくるくると巻いてぱしり、ぱしりと片足だけあぐらをかいた膝に当てている。
「聞くところによると突然殿下の婚約者になったとか? 今までずっと離塔の、しかも令嬢なのに文官なんてのになっている奴がだ。どう見てもお門違いだろう? なのに殿下達はわりと本気でお前さんを王太子妃にと思っているようだ。そこら辺、どうなんだよ」
「……」
ドン室長の言うことはもっともだった。
王太子妃としての教育を受けていないどころか、伯爵令嬢としても向かなくて一人で生きていけるように文官になったのだ。
そんなレミーナを殿下もクレトさんも殿下の側にいる人として扱ってくれる。
でも、レミーナ自身を知らない人の目は、おおかた金庫番の方々がにわかにぼそぼそと呟いていたような声が本音だろう。
王太子妃候補にしては庶民的。
アルフォンス殿下の婚約者なのに女だてらに文官をやっている。
レミーナだって自分が王太子妃に向いてるとは思っていない。王太子殿下の婚約者だということ自体もぴんときていないのが現状だ。
先ほども殿下とクレトがレミーナの意見を聞くでもなく王太子妃になった後のことを話しあっていた。
勝手なこといって、と怒りながらその場を立ち去ったものの、正直なところあの場で話を向けられてもなにも応える事は出来なかったと思う。
「本当に、なんで私を選んだんだろう」
「ああん?」
「あ! すみません独り言です。ええっと、そうですね……王太子妃にまるで向いていないってことは私でもわかります」
「ああ、だからそんなお前さん自身はどうしたいのかって聞いてんだよ」
「私、自身、ですか」
レミーナはまた人差し指を口に当てた。
最初、婚約者選びの舞踏会に来た時は早くその場から抜け出したい一心だった。
結婚もしたくない、王太子妃になるなんて全然頭にすらなく、文官として働いて自分で働いたお金を家に入れて屋敷に住まわせてもらって細々とゆるやかに暮らしていくのだと。
でも突然記憶が飛んでアルフォンス殿下の婚約者になり、殿下と関わりながら時間を過ごす内に、少しだけ自分自身が変わってきたのもわかる。
「殿下が、私といると面白いって、いってくれたんです」
そう言って楽しそうに笑う海空色の瞳が、柔らかく緩んでくれて嬉しかった。
出会ってから最初に一緒に朝食を食べた時に言われたのだった、と思い出してレミーナも自然と口が緩む。
ポステーラで倒れた時は、忙しいのに駆けつけて手を繋いでいてくれた。
王子様然としているのに、護衛騎士のような堅い手でびっくりしたのだ。
グレイの森で殿下は右手だけ残して元の殿下に戻られて、心に残ったのは寂しさだった。
あの柔らかな眼差しが無くなってしまったのが、無性に寂しかった。
面白いと笑ってくれる殿下が、恋しい。
あ……と、思わず息をこぼして口元に手を当てる。
「わたし、殿下が、好きなんだ」
ぴちち、と小鳥の鳴き声が聞こえた。
次の瞬間、ぶわっはっはっと隣でドン室長が腹を抱えて笑いだしたので近くの木に居た小鳥達は姦しい声を上げて飛び立っていく。
「……っ、笑わないでくださいっ!」
「ちょ、まてっ、これが笑わずにいられるかよっ、なんだよお前さん、いま気づくって、腹、はらがいてぇっ」
「し、失礼ですっ! だって恋なんてしたこともないんですものっ」
レミーナは顔を真っ赤にしながら上目遣いにドン室長に抗議するしかない。
ドン室長は片手で顔を、もう片手で腹を抱えながらなんとか笑いを納めてくれるが、どっちにしろレミーナにとっては恥ずかしいことこの上ない。
「ひー、ひー、そりゃそうだよなぁ、なんせ文官なんぞにきた伯爵令嬢だ、ひぃ、やべぇ、あー、もう参った、降参だ降参」
「ドン室長?」
「面白れぇなぁ、うん、いいんじゃねぇ? 殿下の意向やルスティカーナの親父さんうんぬんじゃなくても手を貸してやるよ、気に入った」
「父さま?」
「まぁな、いろいろ心配してるってこった。でもまぁ、いいんじゃねぇか? 王太子妃だなんだっていうより側に居たいって事だろう?」
「あ、はい! それが一番したいことかも」
レミーナははっきりと頷くことができた。
ドン室長はよし、とにっかり笑うとよいせっと重量のありそうな身体を起こす。
「お前さんはお前さんなりのやり方で歩いていけばいいんじゃねぇか? 必要だと思ったことを今の力でやればいいんだよ。そうすればおのずと道がひらけて行くじゃねぇか?」
「ドン室長」
レミーナもドン室長につられて立ち上がる。
「その為にまずは目の前のことを一つずつだ。養護院の件、お偉方がぐうの音も言わさねぇものを作ってやらぁ。二、三日、時間をくれ」
「はい、そうですね。ありがとうございます。わたしもその間にカスパル先生と起案を練ります」
お互いに頷きあうとがっしりと握手をした。
「よし、そうと決まれば早速詰めるぞ、じゃあな」
「あ! ドン室長」
さっとその場を離れようとするドン室長をレミーナは慌てて呼び止める。
「なんだ? まだなんかあんのか?」
「ええ、あの、その、えっと……」
レミーナはちょっとだけ眉をハの字にして気まずそうに顔の前で両手を合わせた。
「すみません……迷子なのです。普段舞踏会が行われるホールはどちらに行けばいいですか?」
「はぁ?」
ぽかんと口を開けたドン室長を拝みたおして途中まで道案内をしてもらい、お前さんここに来てだいぶ経つだろうよと資料でぽかぽかと頭をはたかれたのは内緒の話だ。
帰りは絶対迷いませんと約束させられて別れ、無事舞踏会ホール近くの廊下についた。
「今度は、すみずみまで探しますから。壁が作られた謎、見つけてみせます」
それが殿下がレミーナに薬まで飲ませて隠したかった謎につながる。
「謎を解いたら、私をわたしとして見てくれますか? 殿下」
婚約者としてではなく、王太子妃候補としてではなく、レミーナをレミーナとして見てくれるだろうか。
脳裏に浮かぶどの殿下も、レミーナの問いに応えてはくれない。
「自分の手で、謎を解く。まずはそこから、ですよね、殿下」
レミーナはぐっとこぶしに力をいれて目の前の白と金に縁取られたドアノブに手をかける。
そして、自分の背丈の二倍はある現場の扉を、ゆっくりと開いていった。
遅くなりました、なんとか書けました。
大事な場面はなかなかですね。
レミーナの自覚、
届け、想い。
なん




