1 レミーナ
くぐもった声が聞こえる。
聞き覚えのある声が誰だかわからなくて、眉をひそめながらまぶたを開けると、見慣れない豪奢な縁飾りの天幕が見えた。
「レミーナ!」
視界に飛び込んできたのは母の顔。美しく結い上げられた明るめな栗色の髪をレミーナはぼんやりと見つめる。
「あれ? 母さま、もうお支度したの?」
「レミーナ、何を……」
「うん? ここは? あれ、私なんでもうこんな格好……」
さっと顔色を変えた母に気づかず、レミーナは自分の格好を見つめた。王宮主催の舞踏会は夕方からのはずだ。
「フローラ殿、レミーナ嬢はもしかしたら舞踏会の熱気にあてられたのかもしれません。今晩はこちらで休んでいかれるがいい」
やわらかな物言いにレミーナは顔を上げると、こちらを見つめる海空色の瞳があった。
穏やかな微笑み、少し癖のある短い金糸の髪は遥か遠くから眺めた事がある。
そう、祝賀の時のロイヤルバルコニーで。
「アルフォンス……王太子殿下?」
なぜ殿下がこんな所に、という疑問と共にずきずきと額近くに鈍痛がひびいてくる。
眉をどんどんと歪めていくレミーナをアルフォンスは見つめて、気分が優れないようだ、まだ横になった方がいいかもしれないね、とだけいってフローラへと目を向けた。
「フローラ殿も泊まられていくならばそのように用意しましょう。どうされますか?」
「ぜひお願いします。あの少しだけ娘と二人で話す時間を頂けますでしょうか。混乱しているようなので……」
「もちろんです。では落ち着かれたら衛兵に声をかけて下さい。すぐに侍女が準備するので。私も明日の朝また様子を見に来ます」
「申し訳ありません、気にかけて頂いて」
「いえ、私にとっても大事な方なので」
では、ゆっくり休んで、とレミーナに声をかけると近衛騎士と共にアルフォンスは部屋を出ていった。
レミーナはきっちり、一、二、三、と心の中で数えて大きく息をはくと、まったく同じタイミングで母がため息をついた。
「母さま」
「レミーナ」
「「どういう事?」」
またも同時に同じ言葉を吐いて長い長い息をはく。
「ここはどこ? 王宮の中なの?」
「何いってるの、一緒に舞踏会に来たじゃない」
「えぇ?! 舞踏会は今日の夕方でしょ?」
「もう終わって今、皆さまが帰った所よ」
「うそっ、記憶にないっ!!」
「どうやらそのようね……」
母は心配そうに自分と同じ色を持つ娘の前髪を梳いた。
「どこかで打った? たんこぶは出来ていないみたいだけど……」
「痛くはないけれど頭がおもいわ……私、倒れたの?」
「そのようよ。殿下が体調の悪いあなたに気づいてこちらの部屋で横にならせて下さったのよ。あなたが居なくなってしまったと探していた私達もすぐに呼んで下さったわ」
額を押さえながら周りを見渡すと天蓋付きのベッドの上に寝かされている。レミーナが身を起こそうとすると、母は枕を縦にしてベッドヘッドと身体の間に立ててくれた。
「ありがとう、母さま。えっと、じゃあ舞踏会はもう終わったのね? 父さまと兄さまも一緒に来てる?」
「ええ、もちろんよ。ただ、あなたがなかなか目覚めそうにないから一度屋敷に戻ったわ。明日の仕事の用意をしてここに戻るって」
えー?! いいわよ、ただの頭痛だもの、とレミーナは押さえていた手を軽くふって大丈夫と母に言った。
「大事ないと思うから、家で休んでって言って? 二人ともこの間から忙しそうだったじゃない?」
「それはそうなのだけど……それよりもあなた、いつのまに殿下と」
思案顔の母が問いただすようにレミーナを見るのだか、レミーナこそ目をまんまるにして聞く。
「殿下とってなに? さっき初めて会話をしたぐらいよ?」
「そうよね、あなたときたら社交もそっちのけで職場にこもっているのですもの。出仕した時にお会いしたの?」
母の問いにレミーナはぶんぶんと首を横に振った。
レミーナは宮廷文官として毎日王宮に出仕している。といっても仕事内容としては幼い頃からの家庭教師だったカスパル先生の助手だ。
王宮の敷地内にある離塔にこもって先生の膨大な資料を整理しつつ分かりやすくまとめている。
「王宮の門で名前をいったら中には入らないで直接仕事場だもの。会ったことないわ」
「じゃ、なんだってレミーナを……」
形の良い眉を少し寄せて細い指を顎に当てた母を見て、レミーナは嫌な予感がした。
「なに、母さま。私がなんなの?」
「婚約者にお決めになったと聞いたわ」
「誰が婚約者になったの?」
「あなたがアルフォンス殿下の」
「王太子殿下の婚約者がご披露されたの?」
「まだ披露まではしていないわ、あなたが倒れてしまったから」
ん? 私が倒れたからって、なんでご披露が延期になるの?
さらりと母が言うのでレミーナはどうやら聞き逃してしまったらしい。
「よく分からないのだけど、私が倒れたから殿下は心配してご披露を延期されたの? そんなの気にしないで披露されたらいいのに」
「そうはいかないでしょう。当事者無しで披露とはいかないわ」
「あ、そのご令嬢も具合が悪くなってしまったの? でもそうよね、突然あなたが婚約者です、って言われたならばびっくりしちゃうわよね」
「レミーナ、あなた本当に大丈夫?」
フローラはレミーナの片手で頬を包むともう一方で首筋に手を当てる。
「熱はないわよ、母さま。大丈夫」
「そのようだけど……私が言ったことは耳に入っているの?」
「え? アルフォンス殿下が婚約者をお決めになったって話よね」
「そうだけれど、婚約者はあなたに決まったの」
「おめでたいことよね……え?」
「あなた、レミーナ、あなたなのよ? 大丈夫?」
「え? ……えぇ?! なんで?! なんでわたし?!」
これでもかと見開かれた若草色の瞳をみて、フローラは困った顔で、そうよね、やっぱり殿下の思い込みかもしれないわよね、と頷いた。
「殿下があなたと話していて、たいそう楽しかったので婚約者にしたいとおっしゃったのよ」
「話したことなんてないわよ」
「そもそもあなたが楽しそうに殿下と話した事自体信じられないけれど、お話はしたみたいね、あなたが覚えていないだけで」
「え?」
フローラは心配そうにレミーナの目を覗き込んで、ゆっくりと小さな子供にいい含めるように言った。
「今夜は王太子殿下の婚約者を選ぶ舞踏会で、あなたはアルフォンス殿下と個室に入ってお話をしたらしく、殿下はあなたをたいそう気に入って婚約者に決めたわ」
「……うそ」
「本当よ」
「うそっ」
「本当」
「記憶にないーーーー!!!!」
叫んだ娘に、ため息をつく母。
呆然となったレミーナに、とにかく明日殿下にお会いしたら今の現状をお伝えしてよく話し合いなさい、いいわね? じゃないと問答無用で婚約者にされてしまうわよ? と声をかけ、ドアの先に居る近衛騎士に、すみません、寝支度をお願いします、と頼んだ。
入れ替わりに入ってきた王宮の侍女さんたちがあれよあれよとレミーナをナイトドレスに着替えさせて就寝の支度をしてくれる。
でもベッドに入っても睡魔は一向に訪れてくれず、レミーナは必死になって今日の記憶を辿るのだが、何度考えても午前中までの記憶しか思い出せないのだった。