エピソード3:ロスト④
「里穂ちゃん!?」
驚いた彼は本にしおりを挟むもの忘れて立ち上がると、入り口にいる彼女の元へ駆け寄った。
髪の毛をおろし、パジャマ姿の里穂は、少し紅潮した頬のまま、口元に右手の人差指をあてて「シー」といたずらっぽく笑う。
「お母さんにはお昼寝してるからお買い物行っていいよって言ってあるんだ。だから、里穂がここにいるのは内緒なんだよ」
「じゃあ寝てなきゃ……部屋に戻ろうよ」
困惑する彼に向けて、里穂はブンブンと首を横に振った。
「やだ!! あー君と遊びたい!!」
「遊べないよ。だってまだ熱があるんでしょう?」
「ない!!」
大声で断言する里穂の首筋に、彼はそっと手を添えて……そこがまだほんのり熱を持っていることを確信すると、これみよがしな溜息をつく。
「熱、まだちゃんと下がってないと思うよ。部屋に戻ろう?」
「やだ!! あー君と一緒がいいの!! 一緒なの!!」
熱が上がりそうな勢いで盛大に首を振る里穂に……困り果てた彼が、少しだけ譲歩するしかない。
「えっと……じゃあ、僕も一緒に里穂ちゃんの部屋に行くよ。それならいいでしょう?」
「本当!!」
刹那、里穂がパァッと目を輝かせて彼を見つめる。
「あー君、里穂のお部屋に遊びに来てくれるの!?」
「え? あ、うん……」
なし崩し的に頷いた瞬間、里穂が彼の手首を掴んだ。そして……。
「じゃあ、行こー!!」
「あ、ちょっ……!?」
慌ててバランスを崩しそうになった彼は、ギリギリのところで持ちこたえて……自分を引っ張っていく小さな背中に、言いようのない申し訳無さを感じていた。
2階にある里穂の部屋に足を踏み入れた瞬間、彼女と繋いだ右手に少しだけ違和感を感じた。
「……?」
立ち止まった彼が周囲を見渡しても、当然のように何もない。右手にも何の変化もない。そんな彼に「どうしたの?」と首をかしげる里穂に、とりあえず「何でもない」と返答してから、彼はそっと扉を閉めた。
6畳ほどの室内には、勉強用の机とベッド、本棚代わりの3段ボックスが2つほど。壁際にある押入れタイプの収納には洋服の入ったクリアケースが積み重なっているのが見える。
思いの外整頓されていた室内を移動しながら、彼は自分が部屋を出るタイミングを完全に失ったことに気付いていた。そして……。
「あー君と一緒なんて、嬉しいなっ!!」
彼の手を握ったままベッドの上に座り、自分をニコニコと見上げる里穂に対して……彼は愛想笑いを向けながら、どうやってこの部屋から出ていくことを許してもらえるのかを思案する。
しかし、特に有効な策が見つけられないまま、言葉を探して棒立ちになってしまった。里穂はそんな彼から一度手を離して、大きな眼差しと共にじぃっと見上げる。
「あー君、里穂のベッドに座っていいよ? 壊れないよ?」
「え? あ、うん、ありがとう……」
このまま立ち尽くしても何も解決しない。彼がオズオズと里穂の右隣に腰を下ろすと、隣に座る里穂が足をプラプラさせながら口を尖らせる。
「お母さんも心配しすぎなんだよー。里穂、もう元気なのに」
「熱は本当に下がったの?」
「下がったよ!! でも、まだお外に出ちゃダメなんだって!!」
母親への不満を口にする里穂に、心が……痛んだ。
夏休みの彼女から楽しみを奪ったのは……彼なのだから。
「……ごめんね、里穂ちゃん」
思わず口に出した謝罪の言葉。里穂は足の動きを止めて彼を見つめ……次の言葉を待つ。
「僕のせいで、熱出しちゃって……試合にも出られなくて……」
「あー君……」
「僕と、僕のお母さんのせいなんだよね。でも……ごめんね、里穂ちゃん。僕はもう、お母さんのこと……よく、覚えていないんだ」
『生痕』への対処法、それは、『生痕』が執着している人間との『関係縁』を切ること。
『関係縁』を切れば相手への関心が薄れて忘却が進むので、この現象は落ち着いていく……と、言われている。
彼の場合、名杙直系の理英子から『関係縁』を切られたこともあり、母親への関心の薄れ、及び忘却は、思っている以上に早かった。
葬式で泣くこともなく、法事も淡々とこなす。遺影を見ても他人のようで、写真の中にいる女性が自分の母親だと思えない――と、様子を尋ねた陽介に対して彼がなんの抑揚もなく答えたのは、つい先日のことだった。
勿論、父親のことはちゃんと覚えている。表情、声、思い出――その全てがセピア色で、たまに思い出すと会いたくて泣きそうになるけれど。
その隣にいたはずの母親に関する記憶は、そのほとんどが忘却の彼方にあった。
顔は写真を見ているから何となく把握しているけれど、声はもう思い出せない。母親と何をして、どんな時間を共に過ごしたのか……具体的なことは思い出せないし、思い出せないことに対して悲しいとも思わない。
彼にとっての母親は、その程度の存在になっている。
今も淡々とそう言った彼に、里穂は一度、唇を噛み締めた。
そして……彼の右手を握ると、前を見つめて、こんなことを言う。
「じゃあ、里穂が覚えてるね!!」
「え……?」
言葉の意味が分からず、彼の口から間の抜けた声が出る。里穂は自分を凝視する彼を笑顔で見つめ、言葉の意味を説明し始めた。
「あー君はどうしても忘れちゃうんだよね。だから……あー君の代わりに、里穂が覚えてることにしたんだ!!」
「里穂ちゃん、何を……」
「えっとね、里穂が仙台駅で挨拶した時、あー君が後ろに隠れちゃったから。あー君のお母さんがね、代わりに「宜しくね」って言ってくれたんだよ。すっごく優しかったの!!」
そう言われても、彼にはピンとこない。けれど、里穂は確かな確信を持って話を続ける。
「それでね、その後に動物園に行ったの!! 大きなゾウさんに餌をあげたんだよ!! その時に里穂と里穂のお父さんの写真をとってくれたのは、あー君のお母さんだったよ」
「里穂ちゃん……」
「後はね、えっと……そう、夕ご飯の焼肉屋さんに行った時、里穂が焼き肉のタレでお洋服を汚しちゃって、その時に最初に気付いて拭いてくれたのも、あー君のお母さんだったよ」
今の彼には、里穂が語っていることが事実なのか……確証を得ることは出来ない。確かに先日、仙台で初めて名倉家と対面した後は、2つの家族で八木山にある動物園に遊びに行き、仙台市内の焼肉店で食事を食べた。
だからきっと、里穂が語っていることは正しい。
何か、何か思い出したい……そう思った彼は、無意識の内に、里穂と繋いだ手を握り返していた。
「あ……」
次の瞬間、少しだけ靄が取れたような、そんな感覚を抱く。
そして……その靄の先に人影がいるような、そんな気がした。そこにいる人物が……彼を見つめているような気もする。
誰だろう。
そこにいるのは……誰だろう。
「それでね、洋服を汚して落ち込んでた里穂と、あー君にも、バニラアイスを一口くれたの!! すっごく甘くて美味しかった!!」
「アイス……」
そうだ、確か……自分のデザートのアイスはチョコレートだった。そして、目の前にいる女性は白いバニラアイスを食べようとして、正面からの視線に気付き、首をかしげる。
―― 一口、食べる?
その言葉に頷くと、彼女は口元に笑みを浮かべて、スプーンで一口、バニラアイスをすくった。そしてそのスプーンごと彼に手渡して、彼が咀嚼している様子を眺めながら……。
――美味しいね、有都。
そう言って、笑ってくれた。
そんな母親の笑顔が……脳裏をかすめた。
「あ……」
彼――有都は両目に大粒の涙を浮かべ、里穂の手を一度ギュッと強く握った。
そして、俯いて肩を震わせ……言葉を絞り出す。
「お母さん……」
けれど、もう一度、母親の笑顔を思い出そうとして……自分の力だけでは思い出せないことに愕然としてしまった。
「おかあ、さんっ……!!」
「あー君……」
「忘れたくない……やだよ、忘れたくないよ!! お母さんのこと、ちゃんと、覚えていたいのに……っ!!」
里穂と手を繋いで、彼女の話を聞いていると……まるで回路が繋がったみたいに、思い出すことが出来るけれど。
でもこれは、一時的なもので……先程のように結局自分一人では思い出せないし、どうせすぐにまた、無関心になってしまう。
大切な人との思い出を、忘れてしまう。そんな自分が本当に悔しい。
刹那、里穂は彼の手を強く握り返した。そして、涙目ですがるように自分を見つめる彼に笑顔を向けると……あいていた左手で彼の目に浮かぶ涙を拭い、力強くこう言った。
「大丈夫!! 里穂がまた、お話してあげるからね!!」
「里穂ちゃん……」
「あのね、里穂のお母さんが言ってたの。里穂があー君にお話してあげれば、あー君もその時は思い出せるかもしれないって。だから大丈夫!! これからもいっぱい、いーっぱい、お話してあげるからね!!」
そう言って、白い歯を見せて笑う里穂に……有都は何度も頷いて。里穂の手をもう一度、今度はさっきよりも優しく握った。
ここまで語り終えた仁義は、ユカを見つめた後……自分の右手に視線を落とした。
ユカもつられて仁義の右手を見つめ、気になっていることを尋ねる。
「今も……お母さんのことは、よう思い出せんと?」
その言葉に、仁義は「まちまちです」と曖昧な返事を返す。
「里穂の側にいて、里穂から話を聞いていると……恐らく名杙の優位性もあって、断片的に思い出せることはあります。でも、今のように一人の時は……無理ですね」
「そうなんやね……」
「僕はこうして、なし崩し的に『生痕』と関わりました。正直、この経験が今回の件でどこまで役に立つのか分かりませんが……何か出来ることがあると信じていますので、協力させてください」
彼の言葉に、ユカは「勿論」と首肯した。
「仁義君がおらんと、ケッカちゃんは石巻でなーんも食べれんまま露頭に迷ってしまうけんね。じゃあ、その夏からずっとここにおると?」
「そうですね。『縁故』として生きていくことを決めて――僕は自分に、『柳井仁義』という名前をつけました」
里穂の部屋で話をしたその後、階下で里穂の母親が帰ってきたような物音が聞こえたため、有都は慌てて涙を拭うティッシュを探した。
そして……ティッシュ箱を差し出す里穂を見つめて、あることを決意する。
今はまだ、未来のことまで考える余裕はないけれど。
でも、少なくとも……明日もまた、里穂の笑顔に会いたい。
そして、この恩を返していきたい。
そのために今の自分に出来ることは、何だろう。
「里穂ちゃん……」
涙を拭った有都は、自分から里穂の手を握って……一度、息を吸い込んだ。
迷いが全く無いと言えば嘘になる。自分がこれからどうなるのかも、よく分かっていないけれど。
でも、少なくとも今の彼は……里穂や里穂の家族と一緒に、この家で、この町で生きていきたいと、そう思うから。
「僕……『縁故』っていうのになる。だからこれからも、里穂ちゃんと一緒にいても……いいかな」
刹那、里穂が目を大きく見開いて彼を見つめた。そして、確認するように問いかける。
「あー君、里穂と……一緒?」
「うん、一緒」
「ずっと……一緒?」
「ず、ずっとかどうか分からないけど……もうしばらくは、一緒だよ」
「夏休みが終わっても、一緒?」
「た、多分……」
一言を発するごとに彼へ近づき、念を押すように尋ねる里穂に、有都が何度も首を縦に動かして。
彼の答えに嘘がないことを確認した里穂は、「よろしい」と言わんばかりの表情で頷いた後……。
「やったぁっ!! あー君と一緒だぁっ!!」
今日最大の大声を出した後、満面の笑みと共に勢いよく立ち上がる。
「り、里穂ちゃん落ち着いて!? まだ熱は下がってないからね!?」
何度も嬉しそうにジャンプする里穂を、有都が慌てて諌めたのだった。
その日の夜、有都は改めて……里穂の両親に、この家に置いて欲しいことを頼みに行った。
そして、自分にあるこの素質を伸ばして欲しい、とも。
彼の決意が変わらないことを確認した2人は、仕事で使うための偽名を考えるように指示を出す。
何でもいいから決めて欲しい……こう言われて、最初は少し困ってしまったけれど。
まず、母親の旧姓をとって名字を『柳井』にした。そして、下の名前は父親と同じ『◯義』にしたかったので、母親の名前である仁美から一文字拝借して、『柳井仁義』とした。
数日後、彼の転校手続きをしていた理英子にこの名前を告げると、理英子は目を細めて「素敵な名前ね」と頷いて、この名を了承してくれた。
そして里穂にも、今度からはこの名前で生きていくことを告げると……とても嬉しそうに目を細めて、彼の手を握る。そして、屈託なくこう言った。
「同じだね、仁義君は……里穂と一緒」
こうして彼は――柳井仁義として、石巻で生きることを決めたのだった。
仁義の本名「有都」は、海外っぽい名前をつけたくて、色々な意見を出したり、出してもらったりした中から決めました。しかし、なかなか漢字が決まらなくて……エンコとしてあるき出す前なので「歩」は却下して、「都が有ることに気付いて(石巻に)定住した」ということで、「有都」という漢字をあてはめております。まぁ、ここからの彼は引き続き仁義ですので、宜しくお願いします!!
そして本文中のイラストは、ひのちゃんとおがちゃんから描いてもらったものをそれぞれ使わせていただきましたー!! お二人ともありがとうございます!! 里穂可愛いよ里穂。




