エピソード3:ロスト③
「――あー君!! 行こう!!」
次の瞬間、里穂が彼の手を強く引いて、逃げるための一歩を踏み出した。
しかし――彼は立ち尽くしたまま仁美を見つめ、その場から動くことが出来ないでいる。
里穂は額から汗を流し、高い声を出しながら、彼の腕をもう一度引っ張った。
「あー君!! 里穂と帰ろうよ!!」
「……だめだよ、だって……!!」
何とか引っ張って帰ろうと――この場から離脱しようとする里穂に向けて、彼は何度も首を横に振った。
そして、自分の手を握っている里穂の手を強引に振り払うと、仁美に向けて一歩を踏み出す。
だって、今の彼が帰りたいのは……目の前にいる母親のところなのだから。
「お母さん!!」
里穂に背を向けて迷いなく自分へと近づいてくる彼を、しゃがみこんだ彼女が両手を広げて出迎える。
そんな里穂の位置からは、彼女の口元に……先程以上に背筋がゾクリとするような笑みが見えた。
「――だめ!!」
弾かれたようにアスファルトを蹴り、里穂は必死で彼に追いついた。
そして、彼の手首を強く掴むと、力任せに自分の方へ引き寄せる。小柄な彼の体は里穂の方へ引き寄せられ、代わりに里穂が彼の前に出た。
バランスを崩しそうになった彼は、何とかその場で踏みとどまり……里穂に抗議をしようとして顔を上げた。
そして――絶句する。
2人を見つめている仁美の顔が……見たこともないほど、醜悪に歪んでいたのだから。
「お母さ、ん……?」
流石に目を見開いて動きを止めた彼に、仁美が困ったような表情で問いかける。
「どうしたの? お母さんはずっと――に会いたかったのよ?」
その声は優しく、彼がずっと聞いてきたものだった。
でも……どうしてだろう。今、母親に近づくのははばかられる。
大好きで、離れ離れになったのが寂しくて、ずっと会いたかった人のはずなのに……足が、前に進もうとしない。
「え……あっ……」
足をすくめた彼に、仁美は目を細めて手を伸ばした。
「そう、ずっと――を探していたの。でもね、体がちっとも言うことを聞かなくて、歯がゆくて、歯がゆくて……ずっと、ベッドで寝ていたわ。そしたらさっき、ようやく外に出ることが出来たのよ」
仁美はそこまで言って立ち上がると、自分の目の前に立ちはだかる里穂を見下ろし、睨みつけた。
「名倉さんのところの里穂ちゃん、良い子だからそこをどいてくれない?」
「ダメ!! 絶対にダメ!!」
里穂は帽子の下にあるポニーテールを揺らしながら首を横に動かし、彼女を見据えてはっきりとこう言った。
「だっておばちゃん、生きてる人間じゃないもん!!」
「――っ!?」
刹那、仁美が目を大きく見開いた後……ワンピースのポケットに手を入れた。そしてそこからハサミを取り出すと、里穂に向けて大きく振りかぶる。
「そこをどきなさい」
大人からのドスのきいた言葉を受けて、里穂は一瞬恐怖で身をすくめた。
しかし里穂はこれ以上怯まず、唇を噛みしめると……彼女を睨み、震える声を隠すように絶叫する。
「ダメなの!! あー君は……あー君は、里穂とこの町で一緒に遊ぶんだから!! だから、連れて行かないで!!」
「っ――!!」
次の瞬間、彼女は奥歯を噛みしめるように口元を引き締めると、ハサミを握る指に力を込めた。そして――
「邪魔を……するなぁっ!!」
彼女が里穂の心臓目掛けて手を振り下ろし、彼女の小さな体が倒れる様子が……彼にはスローモーションのように見えた。
「里穂ちゃん!!」
自分が彼女の名前を絶叫したところまでは、鮮明に覚えている。
しかし、そこから先は意識が、記憶が、何もかもがプツリと途切れていて……。
――そして、次に気がついた時、彼は布団の上に横たわっていた。
「……?」
現状を理解出来ずに起き上がり、仄暗い部屋の周囲を見渡すと……部屋の隅に自分のカバンを見つける。そして、部屋の広さや窓の位置から、ここが里穂の家の和室だということに気がついた。
「僕、は……」
自分の両手を見下ろし、必死に記憶をたどる。
確か自分は、この部屋にいたところを連れ出されて、駄菓子屋に行って、そこから……。
「――里穂ちゃん!?」
そして、思い出した。
駄菓子屋からの帰り道、突然、自分の母親である國見仁美が目の前に出てきて……里穂に強く否定された仁美が、彼女に向けてハサミを振り下ろしたことを。
あれから、里穂はどうなったのだろうか。大の大人からハサミを振り下ろされて、無傷で済むとは思えない。
まさか――最悪の結果が頭をよぎった。背筋が寒くなり、両手が小刻みに震えだす。
「里穂……ちゃん……!!」
両手を握り、震える唇で彼女の名前を呟いた。
次の瞬間、廊下と繋がっているふすまが開き――名倉理英子が部屋の電気をつけて中に入ってきた。先程の声を聞いて、彼が意識を取り戻したことに気がついたようだ。
彼の隣に腰を下ろした理英子は、その顔色を確認して……どこか安心したように肩をなでおろす。
「気がついて良かった。頭が痛かったり、気分が悪かったり……どこか具合が悪いところはない?」
理英子の言葉に、彼は首を横に振ってから……膝の上で両手を強く握りしめ、震えを隠しながら問いかけた。
「あ、あの……里穂ちゃんは、里穂ちゃんは大丈夫なんですか!?」
「……」
彼の問いかけに、理英子は一度言葉を区切った後……沈痛な面持ちで口を開く。
「はっきり言うとね、里穂は……命は大丈夫だと思うけど、しばらく高熱が続くと思うわ」
「えっ……!!」
次の瞬間、彼は表情をこわばらせて……体の震えを隠しきれなくなった。
原因など、言われなくても分かっている。
先程の件以外に、何があるというのだろう。
「次の日曜日にね、試合があるんだよ!! 里穂も出られるかもしれないの!!」
先程聞いた里穂の言葉と彼女の笑顔が、脳裏をよぎった。
少し考えれば分かる。日曜日まであと数日、仮にそれまでに熱が下がったとしても体力は回復していないし、季節は真夏だ。サッカークラブのコーチが、病み上がりの小学生の女の子を、炎天下の試合に出すなんて思えない。いや、むしろ……先程の理英子の表情を見るに、日曜日までに熱は下がらないと考えるのが妥当だろう。
見える世界の全てが……涙で歪んだ。
「ごめ……な、さ……僕、の、おか、あ、さんが……僕、がっ……!!」
彼は小さな頭を必死に下げると、理英子に向けて声を絞り出した。
里穂の頑張りを無駄にして、彼女の未来を奪ったのは、ここにいる……自分なのだから。
「僕、が……僕が、お母さんに会いたいって言ったから!! 里穂ちゃんは止めてくれたのに、僕が、僕が……!!」
里穂は彼を止めてくれた。必死に手をつなぎ続けて、逃げようとしてくれた。
その手を振りほどいたのは、自分だ。
里穂を巻き込んだのは、彼女を傷つけたのは……自分だ。
声を震わせて「ごめんなさい」と呟く彼の両手に、理英子がそっと、自分の手を重ねた。
「……顔を上げて。これは、誰のせいでもないの」
「でも!! 僕が……僕のお母さんが、里穂ちゃんを……!!」
狼狽しながら頭を振る彼に、理英子は位置を呼吸を整えると、はっきりとこう言った。
「落ち着いて聞いてね、あれは……本物のお母さんじゃないの」
「え……?」
この言葉を聞いた彼は、反射的に顔をあげて理英子を見つめる。
そんな彼を見つめ返す理英子は、一瞬、泣きそうな表情になった後……口元を引き締め、震える声を制御しながら、努めて冷静にこう続けた。
「こんなこと、一人の母親として本当に頼みたくはないんだけど……『お母さんと縁を切った』ことを、了承してもらえないかしら」
その後、混乱する彼に、理英子が現状を説明した。
仁美の気配を察知し、里穂の声を聞いた理英子が現場に駆けつけて、現状を把握した。
しかし、気絶した2人を1人で抱えて逃げる事もできず……どうしようもなくて、彼と母親の『関係縁』を切ったのだ。その瞬間、仁美は彼や里穂に興味をなくして……踵を返し、フラフラと病院の方へ歩いていったのだと言う。
名杙直系から『関係縁』を切られると、普通の『縁故』よりもずっと強力に、修復を『不可能』にする。理英子は自分にそれだけの力があることを把握していたが……目の前にいる2人を守るためには、こうする他になかったのだ。
「――君が、人から出ている『縁』が見えるようになってしまったこと、そして、その能力を制御する必要があることは、ここに来た時に説明したけれど、覚えてる?」
彼が無言で頷いたことを確認した理英子は、彼に眼鏡を外すように指示を出した。そし理英子自身もまばたきをして視える世界を切り替えた後、宙に漂う赤い『縁』を一本つかみ、彼の眼前にかざす。
「この赤い糸は、『関係縁』というの。人間同士の繋がりを示しているんだけど……この『関係縁』は、私と――君を繋ぐもので、これが切れてしまうと……私達は互いに関心がなくなってしまう、理由も理屈も何もなくてそういうものなの。ここまでは大丈夫?」
彼の理解度を確認する理英子に無言で首肯した彼は……改めて、自分の周囲に漂う『関係縁』を見つめる。
部屋中に無数の糸が浮いているような、そんな、不思議な光景。全て赤い糸なので余計不可思議に視えるのかもしれないが……その中の一本、極端に色が違うものが混ざっていることに気付いた。しかもそれは、特に黒く変色しているところから先がない。まるで、鋭利な刃物で綺麗に切断されたかのように。
不思議に思った彼が、反射的に手を伸ばした次の瞬間――理英子が「それには触っちゃダメよ」と冷静に釘を刺す。
「一本だけ、色が違うものがあること……分かった?」
「は、はい……あの、これは、どうして……?」
戸惑いつつ問いかける彼に、理英子はもう一度、呼吸を整えた。そして、目尻に浮かんだ涙を両腕で拭い、彼に事実のみを告げる。
「それが、お母さんと繋がっていた『関係縁』よ」
「え……!?」
「先の色がおかしいのは、見て分かるわね。詳しいことはもう少し大きくなってから説明するけれど……さっきのお母さんは、自分の意志で動いているわけじゃないの。文字通り命を削って、息子である――君を探していた。それで見つけて、取り乱して……その『関係縁』が繋がっている限り、お母さんは是が非でも――君を連れて行こうとするの。だから……」
だから……理英子は一度言葉を切ると、唇をかみしめ、前を見据えた。そして、彼に向けて深く頭を下げると、はっきりと言葉を紡ぐ。
母親と子どもの『関係縁』を自分が切ること。それがどういった未来に繋がるのかを全て理解した上で……理英子は、子どもの命を確実に救うことを優先したのだ。
これが最善だと分かっている。あの場ではああするしかなかったと理解しているけれど……納得するには、もう少し時間がかかりそうな気がした。だって……。
「だから……私の判断で、『関係縁』を切りました。ごめんなさい、お母さんとの繋がりを守れなくて……本当に、ごめんなさい……!!」
だって、彼はこれから――母親への関心を持たなくなっていくのだから。
彼がその言葉の意味を実感したのは――数日後の日曜日、母親が死んだという連絡を受けた時だった。
あれから里穂は回復せず、まだ、39度台の高熱が続いているという。
朝食時に陽介からその話を切り出された彼は、彼自身も驚くほど、それを『単なる事実』として受け止めていた。言うなればニュースの出来事のような、対岸の火事のような、そんな、他人事の気持ち。
数日前までは、あれだけ、『会いたい』と思っていたはずなのに。
悲しい、悔しい、寂しい……その感情が、一切、湧いてこない。
だってそれは、他人のことだから。
自分が倒れている間に、全ては終わっていたのだ。
「……お世話になりました」
事実を淡々と受け入れて頭を下げる彼に、陽介は……言いようのない虚無感を抱いていた。
それから密葬を済ませた後、遺された遺品は名倉家で預かり、遺骨は一時的に、懇意にしている寺に納骨することにした。
夫婦2人の遺骨に関しては、将来的に彼が大人になった時にどうするか決めてもらうことにしている。
それまでは……名倉家で供養していこうというのが、2人に出来るせめてものことだと思ったから。
そして、葬儀の時も、納骨の時も……息子である彼は泣きもせず、動揺することもなかった。むしろ、「周囲が悲しんでいるから同調しておこう」という、子どもなりの気遣いすら感じられたのだ。
加えて、彼は一度も……棺の中の女性を「お母さん」とは、呼ばなかった。
バタバタと初七日まで終わった、とある日の午後。お盆も終わり、夏休みもいよいよ終盤に差し迫った8月下旬。
仁義は1人、和室で本を読みながら……これからの自分はどう生きていこうか、そんなことを考えていた。
当然だが、彼の家はここではない。学校が始まれば、自分が今住んでいる地域に戻らなければならないけれど……でも、戻ったところで、どうすればいいんだろう。
陽介や理英子は、この家で暮らしても良いと言ってくれていた。彼には特別な素質があるから、それを伸ばしていくためにもここにいてほしい、と。
でも、彼はなかなか返事をすることが出来ないでいた。親がいない子どもの末路なんて、施設に決っている。そう考えると、ここで住まわせてもらいながら自分に芽生えたこの特殊な能力と向き合っていくというのは、彼にとっても魅力的に思えた。
でも、二つ返事で了承出来るほと簡単な話でもない。答えのない堂々めぐりを繰り返していると……ふすまの向こうにある廊下から、足音が近づいてきた。その音は大人が発しているものにしては軽く、テンポよく近づいてくる。そして――
「――あー君!!」
扉を開いた里穂は、額に熱を冷ますシートを貼り付けたまま……彼に笑顔を向けた。
縁故に縁を切られると、相手に対して無関心になります。とはいえ、人は関わり合って生きるもの、関わり続けることで『関係縁』が復活することもありますが、名杙直系(第4幕に出ているキャラでは、統治、心愛、里穂、理英子)に切られると、その無関心度がもっと強くなる……と、思ってください。
これは名杙の特性(相手に対して優勢になる)によって、「俺達が切ったんだから無関心になるんだよ!!」という圧が発動してるようなイメージで……え、分かりにくい? 要するに名杙直系に切られると『関係縁』の修復が不可能なんです!!(最初からこう言えよ)




