プロローグ:仙台支局は踊る、されど……
2018年の本編を始めるにあたって、やはり仙台支局から始めねばなるまいと思いました。
さぁ、今年もそこそこ長丁場になると思います。最後までお付き合いいただければ嬉しいです!!
7月中旬、梅雨明け直後の宮城県内。
ほとんどの小中学校では本日終業式が執り行われ、夏休みに突入した。東北とはいえ照りつける日差しが眩しくて強いため、多くの人は涼しい場所を求めて、早足で駅前のペデストリアンデッキを歩く、そんな夏の日の15時過ぎのこと。
東日本良縁協会仙台支局の山本結果は、事務所内にある応接用のテーブルに3人分の資料を用意しながら……立ち直し、壁にかかっている時計を見つめた。
小学校高学年程度の身長に、目鼻立ちの整った顔つき。室内にも関わらずしっかりとキャスケットをかぶり、髪の毛は耳の横で2つに結っている。襟のついた半袖シャツと7分丈の黒いスキニーパンツを着用しており、足元はスニーカー。一見すると今日から夏休みに突入した小学生だが、その表情には外見年齢以上の落ち着きが感じられた。
見える範囲では彼女1人なのだが、応接スペースの向こう側、衝立を超えた先には、2人の同僚がそれぞれに仕事をしている……はずだ。見えないけれども仕事をしているだろう。決して15時を過ぎたからといって、ユカを差し置いておやつを食べるわけがないじゃないか。そんなに薄情な同僚でもないはずだ。
「そろそろ来るはずなんやけどね……」
ユカが立ったまま開く気配のない扉に視線を向けて肩をすくめる。そして……机上に置いた資料を見下ろして、これからやってくる2人のことを思い返す。
これからやってくるのは、名杙心愛と森環。心愛はこの仙台支局でも働いている名杙統治の妹で、仙台市近隣の私立中学に通っている中学2年生だ。
心愛は元々『縁故』という特殊な職業を生業にした家柄に生まれており、類まれない素質に恵まれていた。しかし、過去のトラウマを超えられずに、その道に進むことを躊躇って……どうすればいいか迷っていた女の子。
今はそのトラウマを自分の中で昇華して、自分自身のこれからを模索している。最近は『縁故』の仕事へも積極的に取り組もうとしているので、ユカ自身も、彼女の今後の成長がとても楽しみだ。
心愛は統治の妹ということもあり、ユカともそれなりに関わりがある。元々彼女の研修担当はユカなので、今は秋の『中級縁故』試験へ向けて、更に実績を積み重ねていきたいところ。まぁ、このまま成長出来れば、問題なく突破出来るだろう。
ここまでは良い。
問題は、あと一人の彼――森環の方だ。
彼は心愛と同じ中学校に通っており、同じクラスの中学2年生。どこか掴みどころのない少年だという印象を抱いている。
ユカとは以前、心愛の中学校に発生したトラブルに対応するため、実際の校舎内に足を踏み入れた際に少しだけ顔を合わせたことがあるのだが……本当に顔を合わせただけで、直接しっかりと会話をした記憶はない。それくらい『部外者』だと思っていた。
だから、そんな彼に『縁故』の素質があると統治から報告を受けた時は、本当に驚いた。
それは、名杙統治が週に一度、秀麗中学校に出入りすることになったその初日。
早速校内で迷った彼は……衝撃的な出会いをすることとなった。
その日、来客用の玄関から、事務室に軽く挨拶をした統治は……スリッパに履き替えて、まずは校長室を尋ね、改めて挨拶をしておく。その後は職員室にいる教頭に挨拶を済ませてから、いざ、倫子と心愛がいる『生徒会室』へ向かおうとした。
が……。
「……ない」
先程教頭からもらった校内の案内図を見ているのだが、『生徒会室』という教室は見当たらない。
特別教室として存在すると思っていたので、思わぬ誤算になってしまった。
職員室の前で、1人、地図とにらめっこをする統治。生徒が訝しげに彼を見ながら通り過ぎていく中……そんな統治の姿を見つめる視線があった。
「……ん?」
先程から自分を見つめる視線に気が付き、キョロキョロと首を動かすと……校舎を繋ぐ渡り廊下からコチラへ向かってくる男子生徒が、顔をしかめながら統治を見つめているのだ。
学校指定のジャージに身を包み、短い髪の毛と凛々しい顔つきなのだが……普段はちょっと鋭い彼の目線も、今は統治を見るので精一杯。
統治はジャージの胸元に記載されている彼の名前を確認してから、一度目を軽く閉じて、世界の見え方を切り替えた。そして、目を開いてから改めて彼を見つめ――
「君は……」
「……お兄さん、随分濃い『紐』を持ってるんすね」
彼――森環と同時に口を開き、早々に『縁』が見える学生と出会ってしまったことを悟る。
「森くん、君は……」
「え? どうして俺の名前知ってるんすか?」
「いや、そこに書いてあるから……」
統治は困惑しつつ、彼のジャージを指差す。それで「あぁ」と察した環は、無言でとある方向を指差した。
「生徒会への用事だったら、この建物の3階へどうぞ。空き教室にいるはずっすね」
「あ、ありがとう……」
思わず流されそうになった統治は、違う違うそうじゃないと慌てて思考を切り替えた、が。
「じゃあ俺、部活あるんで」
環はそう言ってくるりと踵を返すと、スタスタと歩き始める。統治もすぐに追いかけようとしたのだが……彼は慣れた様子で生徒同士の合間をすり抜けて、統治からどんどん遠ざかっていく。彼が小柄なこともあり、あっという間に見失ってしまった。
「……何だったんだ」
考えれば考えるほど不思議な少年だという結論に至る。普通は『縁』が視えることをひた隠しにするものだが、まさか、自分から話しかけてくるなんて。
「彼は……一体……」
ここでどれだけ考えても埒が明かないし、そろそろ廊下にいる中学生から不審者のような目で見られるのも心苦しくなってきた。
あのジャージの色は心愛と同じだったので、恐らく彼は2年生だろう。
とりあえず一度、3階にいるという生徒会メンバーと合流しよう。
統治は1人でそう決意すると、環が消えた方をもう一度確認して……階段へ向けて歩き始めた。
そしてたどり着いた3階の空き教室、統治の姿を最初に見つけた島田勝利が、首を傾げながら近づいてきた。
制服を着崩すことなくきっちり着ており、統治へ向けてキビキビと歩いてくる。彼はこの学校の生徒会の副会長を務めており、友人も多いムードメーカーだ。
そんな彼は……以前、『縁故』になれる素質を開花させたのだが、自分の意志でその才能と縁を切ったことがある。
「あれ、名杙さんのお兄さんじゃないですか。どうしたんですか?」
「島田君、心愛はいるか?」
「ええいますよ。とりあえずどうぞどうぞ!!」
勝利に招き入れられて室内に入ると、机の上にあるプリントを仕分けていた妹の心愛と、生徒会長の阿部倫子がいた。
心愛はくせ毛を高い位置でツインテールに結い上げており、夏用の制服はスカートが若干短い。一方の倫子は年齢以上に落ち着いた雰囲気で、統治に向けて軽く会釈をする。
「名杙先生、今日もお疲れ様です」
2人は事前に統治のことを知っていたので、特に驚くこともなかった。
「え!? 知らなかったの僕だけ!?」
そんな勝利をとりあえず無視して、統治は真顔で心愛に彼のことを尋ねた。
「心愛、森環という少年を知っているか?」
「え? 森くん?」
唐突な問いかけに、心愛は倫子と顔を見合わせてから……。
「今日は確か陸上部だから、ここにはこないと思うけど……」
「ここにはこない……彼は生徒会にも所属しているのか?」
「所属っていうか、助っ人として助けてくれるの。えぇっと、陸上部とパソコン部は正式な部員なんだっけ……?」
「彼はどれだけ掛け持ちしているんだ……!?」
統治にしてみれば、部活は1つに絞ってそれに打ち込むものだと思っていたので、掛け持ちのみならず生徒会にまで顔を出している彼のフットワークの軽さが理解出来なかった。
とはいえ、彼はパソコン部にも所属しているらしい。ということは、いずれ必ず、統治とも接点が生まれることになる。
「お兄様……森くんがどうかしたの」
突然兄の口から飛び出したクラスメートの名前に、顔に疑問符を浮かべた心愛が統治のスーツの袖を引っ張った。
「心愛、彼に『縁故』の素質があることは知っているか?」
「えぇっ!? 嘘でしょう!?」
刹那、心愛が部屋中に響く大声と共に目を見開き、隣の倫子が「あらまぁ」と呟いて統治を見つめる。
そして勝利はまず話の輪に入ろうと、「要するに」と話をまとめ始めた。
「要するに……森くんも、過去の僕みたいに、糸がうじゃーってして、ぐわーってなってる世界が見えてるってことですか?」
勝利の説明に一瞬顔をしかめた統治だったが、「あぁ」と首肯してため息をついた。
「彼から俺に話しかけてきて、俺の『紐』が濃いと言っていた。恐らく……視えていると思う。誰か、そんな話を聞いたことはないか?」
統治の問いかけに3人は顔を見合わせ、それぞれ首を横にふる。
「心愛、森くんと同じクラスだけど……一度もそんなこと言われたことないよ。信じられない……」
「そうか……」
3人の反応からこれ以上の情報を引き出せそうにないことを悟った統治は、どうしたものかと1人で思案する。
『縁』が視える状態を放置しておくのは、あまり良いことではない。ましてや真っ先に統治が持つ名杙の因縁に反応したのも気になる。
彼は一体、いつからこの状態に?
「お兄様……?」
心配そうに自分を覗き込む心愛に、統治は一度頷いてから……3人に協力を仰いだ。
「俺はこれから、パソコン部に顔を出してくる。もしも……もしも彼がこの部屋に来たら、俺が戻るまでなんとか引き留めて欲しい」
「分かりました!!」
誰よりも元気よく返事をした勝利に一抹の不安を抱きつつ……統治は一度この部屋を出て、パソコン室へ行こうと踵を……。
「……すまない。誰か、パソコン部が活動している場所を教えてくれないだろうか」
脳内に校内地図がないことを思い出し、心なしか引きつった顔で助けを求めるのだった。
その後、パソコン部で何とか環を捕まえた統治は、彼をパソコン室に残して、尋問したことがある。
手近な椅子を持ってきて向かい合って座り、無言でしばし見つめ合う。
勿論統治は視え方を切り替えて、環の『縁』を確認している。確かに彼の『因縁』は少し変質しており、つい最近、『縁故』としての能力が引き出されてしまったことが想像出来た。
とりあえずは、当たり障りのないところから聞いていこう。統治は脳内で質問を組み立てると、彼へのインタビューを開始する。
「森君はどうして、陸上部とパソコン部の掛け持ちを?」
「両方とも興味があるんで」
断言する環の瞳に迷いはない。本当にそれ以外の理由はないらしい。
「生徒会も同じ理由?」
「えぇまぁ。パソコン部の部長と生徒会長が同じクラスで、前は部長もちょっと手伝ってたみたいっすけど、勉強が忙しくなったら無理になったって愚痴ってたんで」
統治は内心、「彼は困っている人を放っておけないお人好しなのか?」とも思ったが、多分違うと直感で判断して、その考えを忘れることにする。
そして……統治は環と繋がっている『関係縁』を掴むと、核心を問いかけた。
「……ずっと、この『紐』が視えているのか?」
この問いかけに、環は何のためらいもなく首肯する。
「えぇまあ。視えてますね」
「それは、いつ頃から?」
「んー、5月の連休前くらいっすね。部活中に100メートル走ってたら、サッカー部のボールが頭にぶつかって、そこから」
「それについて、誰かに話をしたことは?」
「ないっすね。そもそも信じてもらえないっすわ」
あっけらかんと言い放つ環に、統治は更に踏み込んでいく。
「妹の心愛も俺と同じ能力を持っていることには気付いているのか?」
「まぁ、何となく。ただ、名杙よりも先生の方が強くて怖そうだったんですぐに気付きました」
「視えるようになってから、具合がわるいことが続いたり、調子が狂ったりしたことは?」
「いや、いつも通りっす」
彼の顔色や言動から、嘘をついているようには思えない。
しかし、本来は視えないものが視えるというのは、あまり良い状態ではないのもまた、避けられない現実だ。
かつて……伊達聖人が、一般人でも一時的に『縁』が視えるようになる眼鏡を開発した際、苦笑いでこんな感想を漏らしていたのだから。
「自分もこの眼鏡をかけてみて感じたんだけど……『縁故』の能力って、常に脳や感覚がマックスで動いてる状態に近いんじゃないのかな。統治君は慣れたものかもしれないけど……いやぁコレ、地味にキツイねー。改良の余地があるなー……」
勿論彼は『無理やり』視えるようにしているので、覚醒している環とは状況が異なる。
しかし彼は、『縁故』としての能力に無自覚で影響を及ぼしてしまう心愛とも接点が多いのだ。今後、学校生活を続ける中でどんなことになるのか予測出来ない。
とりあえず、今は……視覚的な刺激を抑えることで、彼の脳や感覚の高ぶりを抑える必要があるだろう。
「森君、今の君は、本来視えないはずものが視えてしまっている、異質な状態だ」
「はぁ……でも、別に困ってないっすよ?」
「今は困っていないかもしれないが、そのうち不都合が生じるかもしれない。今日は持参しなかったんだが、視え方を抑える眼鏡があるんだ。明日、それを持ってもう一度――」
統治がそう言った瞬間、環が無言で立ち上がった。
「も、森君……?」
ポカンとしている統治を一瞥して、環は足元に置いていたカバンを持ち上げる。
「5分たったんで、失礼します」
「いや、まだ話は終わっていな――」
「――あと、俺、視力は悪くないんで。眼鏡とか本当にいらないです」
「いや、そういうことじゃないんだが……ちょっと!?」
統治が慌てて立ち上がって追いかけようとするが、環は既にスタスタと扉の方へ向けて歩きだしている。その背中には「もう話しかけられても何も答えません」という、強固な意志すら感じられた。
呆然とその場で立ち尽くす統治に、扉を開いた環が振り返ってペコリと会釈する。
「じゃあ、お疲れ様でした、名杙先生」
「気をつけて……」
これ以上追いかけても、今の彼は何も喋ってくれないだろう。
遠ざかっていく足音を聞きながら、統治は1人、椅子に座り直して――天井を仰いだ。
そんな彼が色々あって――眼鏡をかけると視力の低下を疑われて、親からパソコン関係を禁止されてしまうから、眼鏡をかけないために『縁故』の修行します――環は正式に、『仙台支局』で研修を受けることになった。それは先月上旬、政宗とも面談をして決定していることである。
本当は6月中旬から研修を始める予定だったのだが……先月はユカが劇的に体調を崩してしまい、生死の境を彷徨っていたのだ。政宗や統治もユカのフォローや仕事に終われ、結局、今になるまでまともな研修を始めることすら出来なかった。
過去に体調を崩しやすかった時期はあるものの、それを乗り越えてからは健康優良児だと思っていた。それがまさか、宮城に来てわずか数ヶ月で……こんなにボロボロになってしまうとは。
職場復帰したものの、政宗や統治が自分に対して遠慮していることは気付いていた。ユカが彼らの立場だったら同じ態度になっているとも思うけれど、でも……少しだけ、悔しさは残る。
「……取り戻さんとね」
ユカがボソリと呟いて、改めて扉の方を見つめた次の瞬間――ドアノブが動く。
そして、開いた扉を抜けてきたのは――
「……なんだ、片倉さんか」
「お疲れ様です。随分な出迎えですね」
目当ての人物ではないことを悟ったユカが、扉から顔をそむけて溜息をつく。
ユカからぞんざいな歓迎を受けた彼女――片倉華蓮は、トートバックを持ち直しながら扉を閉めた。
毛先が肩につくくらいの長さの髪の毛に、赤いフレームが印象的な眼鏡。パステルブルーのシャツワンピースに、白いスキニーパンツとデッキシューズを着用していた。
どこからどう見ても、クールな印象の漂う女性なのだが、実は彼女は生物学的に男性である。本名は名波蓮、色々あって、ここで働く時だけは女性として働くように命令されている、人生罰ゲーム中の男子高校生である。
彼……もとい彼女もまた、本日より夏休みに突入したため、早めの出勤となったのだろう。それはユカも知っている。しかし……。
「片倉さん……髪、切ったと?」
今まで彼女は、長い髪を一つに結っていることが多かった。それが今日はバッサリとカットしており、とても涼しげに見える。
ユカは彼女の変化に首を傾げて……。
「……伊達先生に失恋でもしたと?」
「暑いので短いウィッグに変えただけです。冗談でもやめてください」
華蓮が心底嫌そうな顔で吐き捨てるので、ユカは「ゴメンって……」と取り繕いながら、そっと彼女と距離をとった。ちなみに『伊達先生』とは、彼の世話をしている胡散臭い人である。
そんな華蓮が、応接用の机に用意された資料に気が付いた。
「今日は……心愛さんと森君の研修でしたね」
「そうなんよ。でも、あの2人いっちょん来んとよ……」
約束は15時、今はもう15時15分になろうとしている。ユカが口のへの字に曲げて毒づくと、華蓮が冷静に情報を提供してくれた。
「確か……仙石線がトラブルで遅れてましたよ。そのせいじゃないですか?」
「え? そうなん?」
「私は地下鉄ですが、仙台駅周辺でそんな話を聞きましたし、2階の改札口が混雑していました。心愛さんならメールで連絡をくれそうなものですけど……届いていないんですか?」
「へっ!?」
ここでユカは、スマートフォンを自分の机上に置きっぱなしにしており……1時間ほどチェックしていなかったことに気がついた。慌てて踵を返して自席に戻るユカに、華蓮が「ヤレヤレ」と言わんばかりの表情でため息をつく。そして……歩みを再開して、衝立を超えた。
「お疲れ様です」
「こんにちは片倉さん、お疲れ様」
部屋の奥に席がある彼――佐藤政宗が、真っ先に彼女に気がついて軽く手を挙げる。短い髪の毛は清潔感があるように整えられており、人当たりの良い風貌。今は長袖のワイシャツにノーネクタイという出で立ちの彼が、この『仙台支局』を束ねる支局長だ。
「明日からはもっと早く来れるんだよね、助かるよ。あ、短いウィッグも違和感ないね」
「ありがとうございます」
笑顔の政宗に向けて特に表情も変えず抑揚もなく返答した時、政宗の手前の席で作業をしていた名杙統治が、イヤホンを外して軽く会釈をする。
「名杙さん、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
形式的な挨拶を終えたところで、統治は再びイヤホンを装着して、パソコンに向き直った。
ここにいる4人が、『仙台支局』で主に働いているメンバーである。ちなみにあと1人、生きている人間ではない『分町ママ』という女性もいるのだが……こんなに日が高い時間は、彼女の出勤時間ではない。今頃どこかの木陰で涼みながら、ビールでも飲んでいるのだろう。
華蓮は自席でスマートフォンを確認して慌てて返信しているユカの後ろを通り、急ごしらえに用意された自席に荷物を置く。そして、ノートパソコンを起動しながら、パソコン脇のトレイに提出された書類に視線を向けて……。
「……山本さん、5箇所全てに印鑑押してくださいと伝えたはずですけど」
「引き出しにあるけん押しとって!!」
ユカがそう言いながら立ち上がり、コーヒーを飲んでいる政宗の方へ近づいていった。
「ちょっと政宗!! あのメールはどげんなっとるとね!! 今日の研修、途中からかわってくれるんじゃなかったと!?」
「あー……」
ユカに詰め寄られた政宗は、きまりが悪そうに視線をそらした。
「16時から急遽対応したい案件が入ったんだよ。だから俺の分まで研修を頼むって、15分前にメールしただろ?」
「それくらい口頭で言いにこんね!! っていうか直接謝罪しろっ!! 結局今日、2時間あたしが担当せんといかんってことやんね!!」
脳内に用意していたのは、1時間分の資料の内容だけ。頭を抱えるユカに、政宗が笑顔で自分の分のレジュメを差し出した。
「このレジュメに添って進行してくれれば……まぁ、多分、大丈夫だ」
「なんねその多分って!!」
「俺の分までしっかり頼んだぞ、『ケッカ』」
彼はユカのことを、昔なじみのあだ名で『ケッカ』と呼ぶ。
そして、彼の笑顔には……謎のゴリ押し効果があるのだ。しかも今回は不可抗力、断るという選択肢など、最初から存在しない。
「……一つ貸しやけんね、政宗」
ユカが口をとがらせながら、彼の手から資料をむしり取った次の瞬間――来客を告げるインターフォンが、事務所内に鳴り響いた。
東日本良縁協会仙台支局。
彼らは今日も、それぞれの役割を担って……前に進み続けている。
「第4幕は里穂と仁義の話です」と言っていたくせに、2人が登場していないという……ま、まだプロローグだから!!
ちなみに、環の物語に関しては、下記2つで語っております。
・外伝『2017年もりたま生誕祭小話・『縁』が視える少年』(https://ncode.syosetu.com/n9925dq/18/)
・ボイスドラマ『エンコサイヨウ隙間語⑥ 秀麗中学ゴーストバスターズ!!(見習い)』(https://mqube.net/play/20171018664343)
お時間がある時に、あわせてお楽しみください。