Ⅶ.スサノヲの危機
一人の男が、天照の篭る岩屋戸の前に佇んでいた。所々で磐をこんこんと敲いたり、磐に耳を付けたりしている。
「・・・・・・云わせて貰おう」
咳払いを一つ、声低くすると、男は片方の眼窩に填め込んだ鏡を光らせて言った。
「君は、正直いって頭が悪い。岩屋戸に篭る前に、解決策が一つや二つあった筈だろう?」
・・・・・・無論、磐の向うから返事は無い。否、有る筈が無い。この言い回しで、心を鎖す事はあれど開く事はまず無いだろう。
「人類を本当に想うのであれば、そんな非!合理的な遣り方では進まないぞ。もっと合理的に!現実的に!理性を働かせて!事に励まねばならない」
くどくどと説教を始める男。一頻熟語を並べ立てて言い終えて静かになると、しくしくという小さな音が耳に入ってきた。
男が磐に耳を当てる。すると、そのしくしくは少し大きくなった。天照が向う側ですすり泣いている様だった。
「・・・・・・」
男が面倒そうに頭に手を当てた。少し焦りの色も浮んでいる。ここにきて、漸く気を遣い始めたのか、周囲をぐるりと見廻して
「・・・まぁ、弟君も弟君だがな」
と、呟いた。
この磐へ続く何千段もの階段を、自分の背丈よりも長い黒髪を引き摺って一段一段を着実に昇る男がいた。髪は腰のところで結ばれており、女と区別が殆どつかない。引き摺られているのにも拘らず、その髪は艶があり、しなやかであった。
鳥居が見えてきた。天照の篭る、天岩屋戸と呼ばれる磐のある鳥居である。その鳥居に、丁度すっぽり填る形で、男が佇んでいた。
「・・・君はつくづく、家族に恵まれなかったと私も思う事は思うよ。役割が大きい割に協力者は少ない」
男が取り敢えず相手の心情に合わせて言う。言いながら、天照の篭る磐に寄り掛って、考え事をしている様だった。
「――せめて弟君がいればと思わない事も無いが、そこは割り切るべきだ。弟君の方がよっぽど割り切っている様に私には見えるがね。そちらが賢明な脳の使い方
「思兼神」
思兼神と呼ばれた、片眼鏡に一髻の男は驚いて振り返った。何やら気まずそうである。其でも一瞥し、落ち着いた声で言った。
「―――月夜見」
怜悧であり、鋭利。割り切りがよく、よほど姉より政治向きだと思っていた男の印象が、本日は、違った。
「・・・貴方の智慧を、御借りしたい」
「スサノヲが―――視えない―――!?」
月夜見は口をわなわなと開いて、クラマを見た。信じられないといった様子だった。
「そんな・・・・・・」
クラマは黙って、盲人の如くまた眼を瞑る。月は変らず白銀色に耀いている。
月夜見は地面に両手を着いて、呆然と、己を蔽わんばかりに生長し月に光る草を見つめていた。
「まさか―――」
「根の国へ、往かれたや」
―――!月夜見が非難する様な目つきでクラマを見上げた。そんな言い方、露骨すぎる。併し、考えている事は月夜見も同じであった。
根の国とは、死者の棲む世界。詰るところは“この世”ではない、我々が“幽霊”と呼ぶ者達の行き着く“あの世”。
例外はいつだって必ずいるが“幽霊”というのは一般の人間には視えない。尤も、彼等は神であるので・・・
月夜見は驚いた眼でクラマを凝視した。
「―――我、金星より参りし尊天也。霊は視えぬ」
「スサノヲが・・・霊化している・・・・・・?」
月夜見が口に手を当てる。言いながら、霊が視えない特性は金星に係るのか、尊天に係るのか気になるという、冷静な部分も残ってはいた。
「・・・では、貴方は“マガ”の存在も判らなかったと――?」
「―――否“気”は感じた」
クラマはうっすらと眼を開ける。その眼は物が視えているのか視えていないのか、傍から見ている者には判別が付かなかった。
「金星と似た空気也。重く、やや粘りのある―――」
地球へ降り立った時、とても身体が軽いと感じた。空気もとても澄んでいて、新鮮。併し素戔嗚からは、寧ろ金星に近い硫黄のにおいがする。
「“マガ”の一部になってしまう・・・・・・!?」
“ツク”を呼ぶ杖に触れた時は腐ってしまったが、何れ触れる事さえ出来なくなってしまうだろう。禍は気体の様なもの。たとえ視えても触れられなければ、存在を実感する事など出来ない。
月夜見は素戔嗚が消えるとなって初めて、彼を家族だと実感した様だった。恐怖を感じ、うろたえる。
「すぐに連れ戻さなければ―――!!」
月夜見が立ち上がり、黄泉比良坂へ駆け出そうとする。が、クラマが其を引き留めた。
「どうされたのです、サナト=クラマ―――!!」
根の国は一度足を踏み入れただけでも、天上で生きる神々には大きな傷を残す事になる。クラマが思うに、地下の根の国は気圧が高い。低所ほど、その上方にある空気柱の高さが高くなるので、気圧は高くなる。慣れない月夜見が往けば、素戔嗚の様に魂が萎縮してしまうかも知れない。
一度だけ伊弉冉へ逢いに根の国へ入った伊弉諾も、この両の眼に映るかはあやしい。
「―――我が、往かん」
クラマがそう言うと、月夜見は愕いた顔をして逆に彼を引き留めた。
「いけませんクラマ!根の国にはマガが蔓延っている・・・貴方を往かせる訳には!!」
「金星の温室効果と酸性雨で慣れている」
すると、月夜見は意味が解せぬのか少し困った顔をしたが、すぐにいえ!併し!と叫んでクラマの篠懸を引っ張った。
「之は、我が宮家の問題です。貴方をこの様な危険な問題に付き合わせる訳には・・・其に、貴方はスサノヲが視えないのでしょう!?其でしたら猶更・・・」
「案ずる勿れ」
クラマが錫杖で地面を踏み鳴らし、シャリン、と音を立てる。其処を中心として熱風が巻き起り、余りの風の強さに男は思わず篠懸を握る手を離した。
「・・・・・・!」
クラマが黄泉に向かって歩き出す。熱風はクラマについて吹き荒び、彼が一歩進む度に彼の周囲を30周近く回る、高速回転をした。
「貴方は・・・・・・!」
男が余波に飛ばされそうになる。風の余波の前に月は立ちはだかり、高速で回り風を受け流していた。
「―――我が名は護法魔王尊。禍を超えた“魔”を統率せし仏也」
クラマが振り返る。その貌は宵の明星でよく見えない。が、その背には羽根の様なうっすらとした影が見え、姿が素戔嗚と重なった。風は相変らず強く吹いている。
「―――建速素戔嗚命は我に任せよ。汝、天照大御神を任す」
「併し!」
くっ!と月夜見が両手を突き出し、防御を張る。草原全体に広がった水鏡が反応を起し、空気が真黒に変化して禍の様になり広まった。
「な・・・!禍!?」
「優先順位は天照大御神也。太陽出ねば、万物は生き永らえぬ」
クラマが去る。風を失ったマガは重力に引っ張られ、水鏡の底に沈んだ。
かっ、かっ、かっ、かっ
意味も無く大して底の無いぺたぺたした靴を高く踏み鳴らして、思兼神は歩いていた。何か、考え事をしながら
―――本日は月夜見の様子が少し違った様な気がする。
本日はやたらと湿っぽい。之迄持っていた冷徹さ、ともすれば身内でもバッサリと切り捨てる冷酷さを、彼は寧ろ好いていたのだが。あの月夜見が、姉の身を案じる様になるとは。
(――心境の変化というものなのだろうな・・・)
だが、思兼神にはまるで興味の無い分野であった。
・・・併し、やはり賢明な脳の使い方をしていると思兼神は思った。感情に流されない。今、彼が湿っぽさに任せて出ていったところで埋められるほど浅い溝では無い事を、理解したうえで智慧の神である自分を頼ったのだから。
只、また自分の仕事が増える・・・・・・