Ⅵ.月夜見と月
「・・・・・・!」
ツクヨミが杖も無しにツクを呼ぶ。両手を前へ突き出して、距離の均衡を取ろうとしていた。併し、ツクは止る様子も無く、地球に迫る。
水を張った壺には、いつもは水面のツクが綺麗に縁におさまるのに、本日はおさまらずツクの窪地まではっきりと映る。其だけ接近しているという事か。
水の零れが激しい。之程までに零れる事など、今まで無かった。
「やはり・・・あの杖が無ければ・・・・・・!」
杖は素戔嗚に取られてしまった・・・基より、彼に舐められた時点で禍がうつり、腐っている。今更返されたところで迷惑極りないが。
(・・・・・・。ツクを呼びつつ焔も上げている・・・;)
触らぬ神に、崇り無し。クラマは少し離れた所で、彼がツクを操るさまを只、見守る事位しか出来なかった。
「く・・・・・・!」
だが、男の腕は着実に疲弊していた。力を保つ事が出来ず、段々と両の腕が重力に逆らえず下ろされてゆく。迫る月に圧されてゆく。
「月夜・・・」
―――次の瞬間。
がらっ!
突如壺が崩れ、中の聖水が草原へ流れ出す。草原全体に水が行き渡ったと同時に引力が増し、月がジャイアント・インパクトを起す。若しかして、この頃の月とは、火星ほどの大きさの天体だったのであろうか。
「クラマ!!」
ツクヨミが叫び、クラマの腕を掴んで共に伏せる。もう己の手では抑え切れないと判断したのだろう。心の準備にぎゅっと目を瞑った。
「――――!!」
―――月の光を受けた草原に潤う水が、反射して色ではない色に変化する―――
「・・・・・・?」
・・・身体に、何の衝撃も加わらない。ツクヨミは恐る恐る眼を開けた。月は、限り無く距離は近いが、本日も変り無く、兎が餅をついている。
「え・・・・・・?」
男がゆっくりと起き上る。見上げると、隣で共に伏せていたクラマが既に立ち上がって、月を見ていた。
「クラマ・・・・・・?」
月を背景に立つクラマの姿は、まさに“異界の者”であった。白銀色に輝く長い髪。姿形は似ていても、持ちしものは違う。
地球の神をみて神秘的に思えていた彼も、地球の神からみれば充分に神秘的であった。
「・・・・・・貴方が、ツクを、止めたのですか―――?」
余りの彼の落ち着き振りに、本当は月の番人なのではないかと錯覚を起してしまう。クラマはゆっくりと、首を横に振った。
「―――我ではあらぬ」
言って、クラマは今、自分達の立っている草原を指さした。
見ると、水を帯びた草原全体が鏡となり、自分達の姿を映していた。
「之は―――!」
「―――案ずる勿れ。ツク、衝突せぬ」
その巨大な姿見は、彼等の像を突き抜け、彼等の立つ地表を貫けて、もう一つの世界を見せていた。当時の鏡は、単に光線を反射する平面ではない。世界の「こちら側」と「あちら側」を分ける水晶体の様な物だ。この観念は通文化的に存在し、世界各地で見られる。
「あちら側」は地球の真の姿であった。岩石圏を越え、コンラッド不連続面という境界を通って地殻を往き、モホロビチッチ不連続面から岩流圏・中間圏といったマントル部を過ぎて、グーテンベルク不連続面へ往ったのち外核・レーマン不連続面・内核へと進む。此処が地球の中心の様だ。
更にまた、各不連続面を通って核・マントル・地殻・岩石圏を過ぎ、地表を貫けて、今度は気象現象の生じる空の対流圏を往き、また対流圏界面という境界へ入りオゾン層の存在する成層圏へ入った。オゾン層の三つの酸素原子まで、その鏡はよく見せてくれた。
成層圏界面を越えて空にある中間圏・中間圏界面から『電離層』と呼ばれる、四段階の、電波を反射する領域を持つ熱圏。そして遂に大気圏を越えてしまう。初めて知る真実に、クラマも男も目を放せずに自然の映し出す鏡像に魅せられていた。
その先に存在するのは、月。だが、可也遠い。更に遠い、金色に耀く丸いものが自分の故郷・金星である事も、クラマは注視していた。
「遠い・・・・・・」
ツクヨミはぽかんとして、鏡をしゃがみ込み見ていた。
「あれほど近くに感じていたのに・・・」
「本日、之也。日頃、どれだけ離れているか知れぬ」
月はとても静かに、地球の周りを一定の距離からつかず離れず、公転していた。最も近くに位置していても、衝突なんて考えられない。
「はは、はははは・・・・・・」
男は暫し呆然としていたが、やがて苦笑し始める。併し、その顔は段々と曇り始め、悲しみの色に染まってゆく。
「・・・・・・杖が無かろうと、壷が無かろうと、ツクは“ツク”だったのですね・・・・・・」
男が鏡面に、顔を突っ伏す。すると、一滴の雫が零れ、其が波紋を呼び、美しき惑星系が元の草原へと姿を戻した。
「・・・・・・」
金星も消え往く。
男は崩れる様に倒れ、草原に顔を埋めた。其のまま、起き上らない。素顔は見られたくないらしい。
「・・・・・・私は・・・何か、勘違いをしていた様です・・・・・・」
男が、草原に顔を隠した侭言う。クラマはその場に佇んだ侭、只、相手を見下ろすという失礼をしない様に目だけ瞑っていた。
「・・・私は、家族の誰をも信じてはいませんでした・・・唯一つ、信じていた“言葉”が有りました」
その言葉は決して、信頼できる者から発せられたものでは無かった。かといって、自発的に見つけたものでも無かった。
「『夜を統べよ』―――・・・イザナギより命ぜられた言葉です。信じるものが何も無い私にとって、夜を治め、ツクを呼ぶ事は、其のまま私の使命となりました」
素戔嗚は其に“力”で逆らった。彼は母を信じていた。振り返ればあの時、自分は父親に逆らう術を持たなかったのだけなのかも知れない。
「『ツクはそなたの言う事しか聴かない』・・・そう言われ、私の心は大いに揺れました―――“自分がいなければ、回っていかないのだ”“ツクだけは、私と共にいてくれる”と―――併し、アマテラスとスサノヲは言うのです『守る地が無いというのは、羨ましい事だ』と・・・・・・自由でいい。気軽でいい、と」
男は寝返りを打ち、クラマに背を向けた。段々と、口調が自嘲気味になってゆく。クラマは其でも、黙って聴いていた。
「併し、守る地が無いという事は、住む場所が無いという事―――夜を統べるので、休めない事は有りませんが、昼間は旅の如く地を彷徨っていないといけない。確固たるものが無いという事は、そういう事なのです・・・・・・」
男の声が叉、涙に滲む。だが無理をして笑って、しわがれた、だが甲高い妙な声となった。
「私は、ツクが私について来ていると思ったのですが、実際は・・・・・・私が、ツクに幻想を懐いていたのですね・・・・・・」
男がツクを誘導しなくとも、ツクは勝手に動いているし、或る一定の距離までいけば、勝手に停まる。男は信じ、生き甲斐としていた“使命”迄をも失ったのだった。
「之から・・・どうしましょう」
男が柄にも無く大の字になり、態とらしく明るい声を出す。そう遣って頑張るさまが、逆にとても痛々しく思えた。
「私は、父に言われたたった一つの、確固たる任務を果せなかった。之では、淡道まで往っても合わせる顔が有りませんね」
「―――否。未だ、使命は終えぬ也」
え―――?男が起き上り、立ち続けるクラマを見上げる。クラマはゆっくりと眼を開け、灰緑の瞳を男の方へと転がした。不敵に笑う。
「我、聞きし汝の使命は、夜の食国を知らせし事。日月を読み伝えし可能な者は汝のみ也」
そうして月を見上げ、今何刻ぞ、と男に訊く。男は変らずその場に耀き続ける月を見上げて
「・・・・・・本日は、後の月。丑初です」
と、杖無しで言った。するとクラマは微笑んで
「―――やはり、汝が居らねば、ツク・地球共に回ってゆかぬ」
と、嬉しそうに言った。
「―――のう、ツクよ」
クラマが月に呼び掛けると、月は白銀から急に真赤に耀きの色を変え、数瞬の内に新月となって姿を隠してしまった。男はえ!?と愕いて、思わず草原に眼を遣り向う側の月がどう変ったのかを視ようと地面に手を着くが、鏡面で無いのでもう視えない。
「―――恥らっておる」
「まさか、嫌われた訳では有りませんよね!?私が女々しいから!!」
仄々(ほのぼの)としたクラマと、焦っている男。月というのも叉、情感豊かである。
「あ!今ので日月が変ってしまった!読み直さねば!!」
男が困って時間を読み直していると、今度はどーん!!と差し迫り、先程いた場所に戻って来た。顔は相変らず紅いが。
定位置に居ないと彼が困ると察して出て来たのだろう。
「・・・・・・」
「良い事ではあるまいか」
之まで何の音沙汰も無かった月の意外な素顔を見て、言葉の出て来ない男に、クラマは声を掛けた。諭す様な口調に、男も耳を澄ます。
「最早対等なのだ。汝、ツクを先導せし者ならぬと気づいた。“使命”では無い“友”としてツクと接せよ」
「友として―――」
「―――のう、ツクよ。そうして貰うた方が嬉しかろう」
クラマが言うと、ツクは今度は月震を引き起し、ブルブルと左右に揺れた。其を見た男が
「嫌がっている様ですけど―――」
と、ぼそりと言うと、ツクは焦った様に有り得ない速さで自転をくり返し、決して見せない裏側のクレーターを何度も見せた。汗っぽいものが押し寄せている気がするのは本当に気のせいか。
「―――のう、ツクよ。汝が秤動起すは月夜見を恋ひかぬ故であろう」
「解りました!ツクを信じてよいという事が、確りと!!」
男が顔をツク並みに紅くして、クラマの言葉を遮った。こうまでされては、嫌でも認めざるを得ない。之迄の悩みは何だったのだろう。
「・・・・・・改めまして・・・之からも、よろしくお願い致します」
まるで見合の様だ。男が恥しながら言うと、ツクは今迄以上に耀き更に大接近して来た。
「ツ・・・ツク!地球が壊れる!!」
「月夜見」
意味も無く両手で距離を取ろうとする男とツクのお取込中、クラマは・・・失礼。と一言言って話し掛けた。月夜見が目を見開く。
「・・・何でしょう」
月夜見が若干、声を低くして訊いた。彼の心身問題が解決した所で、まだ家族問題が残っている。
クラマには、もう、解決策が浮んでいた。
「望日―――」