Ⅴ.誓約
「無事に生還しましたイザナギは、黄泉のケガレから身を清める為に、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原という処へ往き“禊”を行ないました。実際にはこの時たくさんの兄弟が生れたのですが、イザナギの“体内”から生れた事により、アマテラス・ツクヨミ・スサノヲの三柱は、三貴子として地を治める任務を任されるのです」
クラマはこの刻、初めて目の前にいるこの男が“ツクヨミ”という名である事を知る。併し、何は有れど、伊弉諾が無事に還って来られてよかった。併し伊弉諾は、天照同様に引き篭っていると素戔嗚は言っていたが―――?
「あぁ、あれですか。あれを天ツ神の間では“身を隠す”と云うのですが、謂うなれば隠居の事です。スサノヲが海原を治めない事に怒ったイザナギは、淡道という処へ隠居するという、所謂“脅し”に掛るのですが、あれはアマテラスを産んだ時点で役目を終えていますからね。放っておいたのです」
「・・・・・・」
クラマは気まずくなった。一度の不信が之程に尾を曳くとは。父親に対しての言い様がすごく冷めている。
「併しアマテラスの場合はそうもいきませんからね。彼女に、高天原を治める事が即ち地球生物の生死に関るという自覚が有った事が救いでした。御蔭で、サナト=クラマ、貴方がこう遣って派遣されて来られたのですから」
「併しながら、我が金星も温暖化により存続の危機に瀕している。早よぅ済ませて還らなば、金星が危ない」
「承知しております。早いところアマテラスに出て来て貰わねば・・・その前に、今はツクの事が心配です。外へ出てもよろしいでしょうか」
男が立ち上がる。クラマもついて行く事にした。共に例の水鏡へと向かった。
・・・黙々と、膝まで伸びる新緑の草々の合間を縫って歩く。カサカサとだけ聞えた。光も無いのに、この草達は、艶やかに光っている。
「・・・どうしてスサノヲは、今居る大地を踏み荒してまで、根の国へ往こうとするのでしょうね」
男が不意に、ぽつんと呟く。クラマは男の横顔を見た。乾いた声に、冷めた眼差し。湿っぽい言葉との差が、男の神秘さを生んだ。
今居る大地を踏み荒してまで―――その甚大な被害を受けたのが、天照の治める高天原であった。直接的な被害は海原周辺にしろ「伊弉冉の棲む根の国へ往く」と泣き叫ぶ幼き素戔嗚の涙や叫び声に因る津波や落雷は、高天原にも及んだ。結局、伊弉諾が彼を見限り、淡道へ隠居してしまうと、素戔嗚は好き勝手をする様になる。
始りは、クラマと同じ様に、根の国へ往く前に天照に挨拶をしようと高天原へ向かったらしい。併し、高天原を荒しておいて何をしに来た、まさか高天原を奪いに来たのかと早合点をした天照が素戔嗚を迎えた時は、男装をし、弓矢を携えて武装していた。素戔嗚は信じて貰えなかったのである。
素戔嗚はその様な邪心が無い事を、天照に証明する必要が有った。その時にしたのが『誓約』である。誓約とは、或る事柄、この場合「素戔嗚に邪心があるかどうか」について、そうならばこうなる、そうでないならばこうなると予め宣言をし、そのどちらが起るかに依って吉凶・正邪・成否等を判断する占いの事。素戔嗚は、安河のこの席で
「俺の心は潔白だから、優しい女神が生れる」
と、言ったと云う。天照に十束剣を渡す。天照は受け取り
「では、私が其を噛み砕きましょう。あなたは、之を」
と『八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠』を渡した。二柱は互いの物を交換し合い、黙々と其を噛み砕いた。天照が噛み砕き、ふっ・・・と息を吹きかけると、霧が発生して、女の子が三柱、生れた。
「まぁ・・・何て可愛らしい御子」
天照は喜んだ。
「私が名前を付けてよろしいかしら」
「どーぞ」
素戔嗚が了解すると、天照は嬉しそうに三柱を交互に見て、名前はどれにしようかと吟味していた。素戔嗚も珠を噛み砕き始める。
「では・・・あなたは奥津島を守る媛御子・多紀理。あなたは、市寸島を守る媛・狭依。あなたは・・・水が烈しく流れる、滾る意の、多岐都。
この三柱を“宗像三女神”と付けましょう」
「いい名じゃん?」
素戔嗚が噛み砕きながら誉める。この時ばかりは、険悪となっていた姉弟仲も戻りつつ有る様に思えた。
併し、一度壊れた信頼というものは修復する事が難しく、この場合、特に素戔嗚は繊細だった。三番目の子にして、末子である。甘えん坊にして淋しがりやだったであろう。只、母が恋しかったのかも知れない。その盛りの内に父親から追い出され、姉に刃を向けられたとすらば・・・ただ純粋に、傷ついたのかも知れない。
素戔嗚には高天原を奪いに来たという“邪心”こそ無いにしろ、実は棄て鉢にはなっていたのかも知れない、とクラマは思った。
そうして、素戔嗚の吐いた息から五人の男の子が生れた。
「まぁ何て凛々しい!」
天照はまるで、自分の子が生れたかの様に歓び、はしゃいだ。
「素戔嗚、あなたが、この私の子供達に名前を付けてくださるかしら」
「“私の”?」
素戔嗚が訊き返した。自分の吹き与えた息による子である。噛み砕き生れた珠は天照の物であるが。天照は屈託の無い笑顔で言った。
「後に生れた男神は、私の珠より生れたので私の子、先に生れた女神はあなたの剣より生れたのであなたの子よ」
―――思えば、どうとでも受け取れる誓約である。「俺の心は潔白だから、優しい女神が生れる」―――聞く限り、誓約の前、後、いつこの言葉を述べたのかがはっきりしない。天照がこう述べたので、素戔嗚が女神が生れるのだと言ったのかも知れないし、素戔嗚がああ述べたので、天照が合わせたのかも知れない。当るも八卦、当らぬも八卦。之が占いの正体なのか。
「えぇーじゃーあ・・・そっちの二柱、農業ってコトでアメノオシホミミとアメノホヒ。そっち二柱、姉貴の子だからアマツヒコネとイクツヒコネ。あんた、熊野の神だからクマノクスビね」
「すっっごく、面倒くさそうに付けるのね・・・・・・名前に漢字すら当ててくれないし」
天照がぐすんぐすん言う。素戔嗚の生んだ五柱のムサイ男共をその両手でいっぱいに抱いて
「大丈夫よ・・・漢字はお母さんが当ててあげるから」
と言った。母親の板についてきた天照を見て、素戔嗚は思いっ切りひく。
宗像三女神は羨ましげな顔をして、素戔嗚に抱擁を求めたりもするが、彼は
「は?誰がやっかよ」
と言って、遂に意に介す事は無かった。天照は彼を見直した様で、深く頭を下げ、素戔嗚の高天原の滞在を認めた。
―――その時からである。彼が高天原で乱暴を働く様になったのは。
「お止めください素戔嗚!之では作物が育ちませぬ!」
素戔嗚は荒れに荒れた。田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散したりを繰り返し、高天原に居坐った。天照も、武装して迎えた事に負目が有るのか、素戔嗚が何をしても見て見ぬ振りであった。
ところがある日、天照が機屋で神に奉げる衣を織っていた時―――
「美しい衣ですね、アマテラス」
「でしょう。この衣の文様は“水”と“縄”を模しているのです。地球にしか存在し得ないものと、之から始る人類の文明に期待を籠めて。私が考えたのですよ」
「ええわかります。織り方がとても写実的で見易いもの。之が河でしょう?」
機織女と、談笑を交えながら進めていた。この機織女は特に天照と親しく、彼女の心の支えでもあった。
「・・・よくわかったわね」
天照が目を丸くした。
「あなたの織り方が上手なのですよ。あ、そろそろ梭が必要になってきますね。今、持って来ます」
「有り難う」
上から、藁の様な物がぱらぱらと落ちてくる。天照は天井を見上げた。手で落ちてくる藁を受け止め、また・・・と呆れた。
(・・・いつまで、居る心算なのかしら・・・)
溜息を吐き、織機の隅に頬杖をつく。機織女が梭を奥の間で探している間、天照は己の思考に没頭していた。
(・・・でも、だからといって根の国に往かれても困るのよね・・・)
そこが天照の弱点であり、素戔嗚が粗暴な行為を増長させる原因でもあった。そして、伊弉諾やツクヨミは其を利用していたのである。
藁に雑じって、茶色の、粘り気の有る物が落ちてくる。天照は不審に思って、再び天井を見た。
―――馬の脚。
「アマテラス。梭を――「退きなさい!ワカヒルメ!!」
え―――?天照が叫んだと粗同時に、皮の剥れた馬が上空から降ってきた。其を目の当りにした機織女は、腕に力を入れてしまう。
「きゃああぁぁ!!」
愕きの余りに自らの陰部を刺してその機織女は死んでしまった。女というものはつくづく霊的な存在であって、天照にはこの時「同じく陰部に傷を負い亡くなった母・伊弉冉が重なった」と云う。
伊弉冉は元来、天照が生れる前に死んだというのに。
「母・・・ですか。私にはよく解りませんがね・・・」
男が素っ気無く言う。
「母といいましても、伊弉冉から産まれた訳では有りませんから。繋がりは特に無いでしょう。会ってもいないのならば猶更です」
・・・この男は、家族の誰をも当てにせずに生きてきたのだと、クラマは思った。誰よりも、冷徹、鋭利。現在云われる次子の特性か。
「・・・着きましたよ」
昨日の、水を張った大きな壷が見える。月が小さく顔を出していた。
天照はこの怒り・悲しみを外に表す事無く、クラマに冒頭での通信をした後すぐ、他の誰にも言う事無く天の岩屋戸に引き篭った。
高天原の神々が其を知った時には、既に空は暗くなっていた。気づいた時には、全ては終っていたのである。
素戔嗚は空を飛んでいた。こんな芸当、普通の神には出来まい。鳥は思考が回らぬから出来まいが、自分なら、地球も出られるろうか。併し、自分が往きたいのは、果てしなく上空なのでは無い。果てしなく地下なのだ。
(・・・・母さん)
イザナキがカグツチを斬り殺した件について。正直、ひいた。顔を蒼くして隣を見ると、兄さんは諦めた様な顔をしていた。
其から兄さんは、父さんと話す時間を徐々に少なくしていった。元々いい子だったけど、もっと父さんの言う事を聴く様になって、でも心は、いつも此処に在らずな感じだった。
俺はというと、兄さんと逆の行動に出ていた。脅しになんか負けない。父さんの思い通りに生きてなんか遣るものか。
『母さんの棲む“ネノクニ”に往きたい・・・!』
あんなの、最初は口実にしか過ぎなかった。海原を治めろという“命令”に逆らう為の。父さんの思惑通りにいかせない為の。
だってそうだろう?兄さんの言う通り、俺はあの女と何のツナガリも無いんだから。母神だなんて云われても、納得なんて出来ない・・・でも、いつしかこう想う様になったんだ。
『・・・親父が自分の子を殺してしまう程に愛した御袋。一体どんな女だったんだろう』
兄貴は、そこまで考える事を放棄してしまったんだろうけど。
(・・・御袋に、逢ってみたい)
素戔嗚が急降下する。地面が近づき、彼の髭が黄土に触れんとす。
途端、黄土に裂け目ができ、大きな穴となって彼に差し迫ってきた。
「!!」
「ワ・ラ・・ワ・・・・・ノ・御子―――」
髪の何処までも長い―――之は女か。併し、其にしても醜い。が、直後に顔が変り、美しく若い女へと変貌を遂げた。
「逢いたかった―――!素戔嗚―――我が御子―――!!」
伊弉冉だ。素戔嗚は釘付けとなった。母親の細く白い腕が、素戔嗚を抱く―――柔かい。母親に抱かれるというのは、こんなに心安らぐものであったのか。
「か・・・あさ・・・・・・」
素戔嗚が思わず、伊弉冉を抱しめる。穴が急激な速さで閉じる。素戔嗚を中へ閉じ込めた、まま。そして、単なる坂となった。
―――その近くには、桃。