Ⅳ.黄泉物語
『伊弉諾・・・!』
死んだ伊弉冉は、咄嗟に戸の奥へ隠れた。此処は死者の国。何故貴方が居るの―――!?若しかして、貴方も死んだ!?
一方、入浴中の美しい女の身体を見た様な気がした伊弉諾は、其を伊弉冉と確信し、奥の戸へと突き進む。伊弉冉は水音を立てぬよう身を潜めた。裸よりも見られたくないものが、この黄泉にはある。
『・・・伊弉冉』
伊弉諾の声が、愕くほど近く透き通って聞えた。何て綺麗なのでしょう。やはり貴方は、天上に住まう方。
伊弉冉は過剰に反応し、つい水音を立ててしまった。
『!やはり伊弉冉・・・!おはすのだな!』
伊弉冉は首を横に振り、伊弉諾の声を聴くまいと努めた。併し愛し合った相手の声を無視する事は難しい事で、耳をどんなに塞いでも否、塞げば塞ぐほど、大きくなって聴こえてくる。
(否・・・!逝にし者は還らない。之が生きとし生けるものの理・・・)
『伊弉冉!』
己を必死で律しようとする伊弉冉を、伊弉諾の呼び掛けが邪魔をする・・・愛しい。愛しているわ。愛しているけど・・・邪魔しないで。
『還ろう!伊弉冉!』
『我“よもつへぐい”した者也!もう我、黄泉の国の住人也!逝にし者は還らぬ!』
気づけば泣きそうな声で叫んでいた・・・逢いたい。逢って抱しめたいけれど、逢うという事は生き返る事。其は生命倫理に反する事。人類に課す規則を、自らが侵してはならない・・・唯一つ、心残りが有るとすらば。
『汝と共に創りし人類の住まう土地は、未だ完成してあらず!!』
・・・愛しい我が子供達。人間。せめて、せめて棲むべき土地を整備してから、死にたかった。
『・・・・・・わかりました』
伊弉冉は立ち上がった。水が身体から滴り舞い、泉の水面は波紋を呼ぶ。
『黄泉神と相談しましょう。お願いですから、私の姿は見ないでくださいね』
・・・負けた。伊弉冉は己の身を恥じた。黄泉神なんて存在しない。頭を冷す時間を、考える時間を与えてください。
伊弉冉は泉から上がり、奥の間へと入って往った。振り返らない。伊弉諾は
『よい答えを俟っておる!!』
と澄んだ声で叫んだ。
また蛆が湧いてきた。伊弉冉は頭に纏わりつく大雷を丁度いい枕にしながら腹に乗る黒雷を愛玩動物の様に左手の若雷で撫で、右手の土雷に湧き出でる蛆を取らせていた。彼女が元の美しい姿に戻れるのは泉に浸かっている時のみで、こう遣って、地上へ上ると身体は腐り、蛆が湧き、声は噎び、八雷神が纏わりつく。この雷神が自分の裸体を隠してくれるのだが、伊弉諾には裸よりもこちらを見られたくなかった。
(如何したのだ・・・)
伊弉諾は心配になっていた。黄泉神との交渉が其程までにうまくいっていないのか。伊弉冉と別れ、相当な刻が経っている。
若しかしたら、黄泉神に逆らったとして、何か危険な目に遭っているのかも知れない。ならば助けに往かなければ。もう之以上、誰にも伊弉冉を傷つけられたくない。
伊弉諾は左の角髪に付けていた湯津津間櫛の端の歯を折って、火を点し、中を覗き込んだ。
『――――!!』
『追え!そして殺せ!決して逃すな!!』
伊弉冉は黄泉の住人・予母都志許売に命令して伊弉諾を追わせた。黄泉の住人に命令する事が出来るほど、闇に染まっていた。
考えてみれば、この腐った身体で、この染まった精神で、生き返っても出来る事など無かったのだ。
伊弉冉は赤い涙を流した。血の涙。自分が伊弉諾に裏切られた事を知った。伊弉諾は結局、自分を待てなかったのだ。信じて貰えなかったのだ。
そして、自分の変貌に恐れ慄き逃げた。真先に逃げた。所詮は、自分を見てくれだけでしか判断していなかった。ありのままの自分は受け容れてくれないのだ。
(何の為に来た、伊弉諾―――!!)
憎い。憎い。憎らしい。人類など知った事か。汝と共に産む子なぞ、汝と同じ末路を歩むに決っておる。往ね。往ね。往ね―――――!!
『何をほうけておる、雷神!妾の身体にくっついておらず、早よぅ伊弉諾を追え!!黄泉軍を呼べ!総じて追おうぞ!!』
『はぁっ、はぁっ、はぁっ―――!』
伊弉諾はあても無く逃げていた。あんな、あんな化物、我が妻では無い―――!!
自分が逢いたかったのはあの頃の妻だ。共に国産み・神産みをした頃の。見てくれ云々では無い。あの頃から変らない“こういう神”だというのが好きだったのだ。
どんなに美しい女でも、その女が罪人となれば話は別だ。どの様な者でも、してはならぬ事はしてはならぬのだ。
伊弉冉を罪人だとは思わない。だからこうして逢いに来た。だが、汝は変ってしまった。自分が愛していたのは、総てを闇に受け渡してしまった染まった汝などでは無く、どの様な時でも純粋な、まっさらで染まらぬ汝。悪い方へ変った汝など、見たくはない。
『あら、女は変るものよ』
『!』
伊弉冉の手下に追い着かれた。なればもうじき伊弉冉も来る。手下は空中を飛びながら、伊弉諾に話し掛けた。
『貴方は、女に幻想を懐いている様ね。其とも―――天ツ神から、男から誘うべきだって聞いたから、女は男の思い通りになるものだって、思い込んでいたりするのかしら―――?』
・・・醜い女だ。言っている事がよく解らない。不意に女の鋭い爪が伊弉諾に迫り、その爪は指から離れて黄泉の壁に突き刺さった。
『ねぇ―――?』
身体の均衡を崩し倒れる伊弉諾に迫り来る。被っていた蔓草の冠が転がり落ちる。と、冠の降り立った処に葡萄の樹が生った。
喜んで葡萄にむしゃぶりつく女。その隙にヨロヨロと立ち上がる伊弉諾だが、思う様に脚が動かない。緊張が解けた様だった。
『く・・・』
そうこうしている内に、食べ終えた女の爪が伊弉諾を掠る。頬には血が滲み、角髪にしていた長い髪が解けた。
『いただきまーす♪』
『――――!!』
女が裂けた口で以て伊弉諾に喰い掛る。目を強く瞑る伊弉諾。右の角髪に付けていたもう片方の湯津津間櫛が零れ落ちた。
『――――・・・?』
恐る恐る目を開ける伊弉諾。二度目の奇跡か、湯津津間櫛から筍が生えており、女の裂けた口はそちらの方へ吸い寄せられていた。
『コノ、役立タズガアァ!!』
その隙に逃げようと背を向けた瞬間、噎び塞がった何重もの声が木霊状に拡がり、続いて筍を朴歯っていた女の
『ぎいやああぁぁ!!』
という途轍もない叫び声が響き、太鼓の音と共に弾ける音がした。黄色い汁が、飛び散る。
同じ黄泉に棲む、仲間だったのではないだろうか。伊弉冉に纏わりついていた八柱の雷神が、女の魂を屠っていた。
―――此処に、自分の求める伊弉冉は在ない様だ。
伊弉諾は十束剣を懐から取り出した。今まで逃げていたのが嘘の様に、何の躊躇いも無くスパスパと斬ってゆく。
―――黄泉は穢い。
女の魂を屠っている間に、雷神は全て斬り刻んでしまい、辺りは黄色い汁に浸かった。伊弉諾は冷やかな眼で其を見、こう吐き捨てた。
『・・・何だ。皆、黄色い成分なんじゃないか』
どうしてカグツチ(息子)を殺したのか。疑問に思わない訳では無かったが、伊弉冉がああなった今、間に生れた子の事などどうでもよかった。
やっと出口が見えてきた。黄泉比良坂という、黄泉と地上の境の坂だ。併し伊弉諾には時間が無かった。
1500もの黄泉軍が追って来ていたのだ。十束剣で幾体は払うが、数が多すぎて雷神の如くスパスパという訳にはいかない。何とか黄泉比良坂の坂本まで来ると、誂え向きに桃の樹が生えていた―――二度有る事は三度有る。
伊弉諾は徐に桃の実を三個もぎり取ると、一・二・三・・・と一定の調律で坂の下に居る黄泉軍に静かに落した。自身が今まで逃げ腰だったのが嘘であるかの様に、黄泉軍は退いてゆく。一挙に静まり返った中で、伊弉諾はもう一つ、黙って桃の実をもぎ取ると、桃割れから毛に沿って柔かい皮を愛おしそうに撫でた。
・・・昔、彼が伊弉冉の髪を優しく撫でた様に。
共に人類の棲みよい地球を創ろう。二柱で立てた壮大な夢は、幻となってしまったが。
『―――人々が困っている時に、助けとなって遣ってくれ』
そう言って、彼はその桃に“意富加牟豆美命”と名づけ、接吻をした。
『おのれ!イザナキぃーーー!!』
! 伊弉諾は桃の実を樹の幹と枝の間に腰掛けた。併し坐りの悪い尻は、次の衝撃で樹から転がり落ちる事となる。
『くっ・・・・・・!』
伊弉冉が坂を上る速度は、黄泉軍などより遙かに速かった。咄嗟に大岩を盾にして伊弉冉の進攻を防ぐが、気を抜くと圧されてしまう。
・・・伊弉冉め、いつからこの様に怪力になったのだ。
『妾に逢いたかったのではないのかえ?』
・・・口調が違う。完全に闇に摂り込まれてしまったか。
植物の蔓の様に、伊弉冉の指が大岩を蔦って伊弉諾に絡みつく。怯んで手を引っ込めると岩が押し寄せてきた。
『・・・伊弉諾。妾はとてもよい事を思い付いた』
くすりと哂う伊弉冉。否、この者は果して伊弉冉なのか―――?少なくとも、伊弉諾にはそうは思えなかった。
『妾と共に棲みたいので有ろう?だが妾は、太陽の光の下には棲めぬ』
伊弉冉が汚泥を吐き出す。その口、以前は生命を吹き込んでいた筈。だが今は、その汚泥で皮膚を穢し、その強い悪臭で呼吸を妨げる。伊弉諾は咳き込んだ。
『―――汝も、黄泉へ来ればよいのだ。なれば永久に、妾と共に居られようぞ』
伊弉冉が、求婚した日にしてくれた様に、優しく伊弉諾の頬に触れる。併し其は、あの頃とは似ても似つかぬ蔓の指で。どんなに取り繕おうとも、あの頃にはもう戻れない。伊弉冉が死んだ時点で、伊弉冉は伊弉冉で無くなってしまったのだから。
―――之が、生命の尊さ、なのかも知れない
『・・・・・・愛しておったぞ、伊弉冉』
転がってきた桃を、伊弉諾は拾おうとする。圧され、圧されて、遂に彼はその桃を掴んだ。
併し黄泉比良坂から外れて彼は脇の草原に投げ出される。岩という障壁が無くなり、伊弉諾は愈々(いよいよ)黄泉へ引っ張られた。
全身に絡みつく伊弉冉の指。大きな息を吹き込んだ様な雑音の声が、黄泉の穴から反響して聞えてきた。
『いざ、往かん』
『否、往かぬ!!』
力を振り絞って、伊弉冉に向い桃を投げた。するとその実は伊弉冉の眉間に命中し、彼女は千切れる様な悲鳴を上げ、空間が歪んだ様に全身が揺らめき、口からは黄色い汁や汚泥が吐き出された。
身体に纏わりついていた蔓の指が消え、伊弉諾は草原に投げ出された。
黄泉に繋がる道が塞がる。伊弉諾は黄泉の穴を覗いた。其処には、あの頃の美しい伊弉冉が居た。
『―――来ないの?』
あの頃の美しい声で、伊弉冉は言う。だが、一方の伊弉諾は、息は荒いながらも醒めた眼で伊弉冉を見ていた。もう、間違えない。
『―――往かぬ』
『何故―――?』
すると伊弉諾は、ささやかながら笑みを浮べた。
『・・・人類の先祖となる神を、産まねばならぬ』
『・・・貴方、御一人で―――?』
伊弉諾は、黙って肯いた。
『・・・・・・もう、妬けちゃうわね』
そう言って、伊弉冉も微笑んだ。
『―――なれば私は之から毎日、1日に1000人ずつ人間を殺そう』
すると伊弉諾は表情を変えずに、こう、切り返した。
『―――其なら我は人間が決して滅びぬよう、人類に1日に1500人生ませよう』
之が、夫婦最後の会話であった。