Ⅲ.三貴子の闇
「・・・眼の方は、もう、大丈夫ですか―――?」
禊というものは、雨に当たる事と似た様なものだと思った。こざっぱりとしたクラマに、男は岩清水を灌ぎ渡す。其を飲むと、体の中まで綺麗になる様な気がした。
「―――あの声の主は―――?」
「あれは、私とアマテラスの弟で“素戔嗚”といいます。三貴子の一人で、我が父・伊弉諾が禊で鼻を漱いだ際に生れました」
そこから!?・・・クラマは覚悟した。之は、話が長くなりそうだ。
端折って説明するとすれば、父の伊弉諾は妻・伊弉冉と共に別天ツ神という5柱の性別の無い神に命じられ、天浮橋に立ち天沼矛で混沌をかき混ぜ島を創った。
『こをろこをろ、こをろこをろ・・・』
引き揚げると、矛の先から滴り落ちた塩が積り重なり島になった。この島の名が『淤能碁呂島』
二神はオノゴロ島に降り立ち、其処に天御柱を建て結婚、八島や神々を産み出した。
『伊弉冉・・・』
『・・・如何、伊弉諾』
『汝が身は如何に成れん』
伊弉冉は、どう答えればよいのか迷う。『汝が身は如何に成れん』其は「貴女の体はどの様に出来ていますか」の意。だが彼女は、伊弉諾が之から自分に何を為すか、予測が出来ていた。
ずっと、待っていた。だから、恥らわない。
『我が身はなりなりて、成り合はざる処一処あり』
『・・・・・・然様であるか』
伊弉冉が、伊弉諾の頬に触れる。伊弉諾は微笑んだ・・・必ず、受け容れてくれる。彼は確信が持てた。だから、大胆になれる。
『我が身はなりなりて、成り余れる処一処あり。故この我が身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合はざる処を刺し塞ぎて、国土を生み成さんと以為ふ』
波が、オノゴロ島に押し寄せる。二柱で創ったこの島が、二柱の婚礼の舞台となり、二柱の建てた天御柱が、二柱の結納の証となった。伊弉諾が、頬に触れる伊弉冉の指を握る。
『・・・・・・産む事如何』
伊弉冉は涙を流した。其処からまた、神が生れる。
『・・・・・・はい・・・・・・!』
二柱は、熱烈な接吻を交した。
「―――」
クラマは軽く咳払いをした。聴いている此方が恥しくなる話である。今時、この様な強烈なプロポーズ、誰もしない。
「まぁ;そうして、我々の両親は之より人類がする様に、人類の棲む島や子を産んだのです」
男が焦った顔で言った。
「ここは、我々の母・伊弉冉がどの様な神であったかを知って戴く為の説明ですので、軽く流して戴いて結構です。私もスサノヲも、伊弉冉から生れたわけでは有りませんからね―――」
「・・・・・・」
クラマは男の翳りの含んだ顔を、黙って見つめていた。男が続ける。
「その様な中で、伊弉冉は“迦具土”と呼ばれる神を産みます。私やスサノヲから見れば“義理の兄”といったところでしょうか」
ところがこのカグツチという神は、火の神であった為に、出産時に伊弉冉の陰部に火傷を負い、之が元で伊弉冉は死んでしまう。
伊弉諾は悲しみに暮れた。この涙から、神がまた生れた。そして、遂に。
『汝が我が最愛の伊弉冉を殺った!』
伊弉諾の荒れ様は凄まじかった。生れた子供に罪は無い。当時では出産は命懸けであり、子が無事に生れただけでも立派なものだ。
併し彼は、妻の死の直接の原因となった自分の子を愛する事が出来なかったのである。
『ち・・・ち、うえ・・・・・・!』
俗に謂う虐待。俗に謂う子殺し。之が、未来の人類に通ずる問題であった事を、この時、誰が、想像したで有ろう。
伊弉諾は狂乱していた。見世物として壁に飾っていた十束剣・天之尾羽張を手に掛ける。フラフラと焦点定まらず歩き続け、カグツチの姿を捜す。
『貴様なぞ、生れてこなければよかったのだ・・・・・・』
ぶつぶつと呟きながら、カグツチの隠れる物置の前を通り過ぎる。日頃の暴力により、動く事も侭ならなかった彼は、命の危機に瀕しても、息を潜めて只通り過ぎるのを待つしか無かった。
(・・・・・・)
・・・往ったか。酸素の存在するこの地球では、息の音を止める事も難しかった。はぁっと二酸化炭素を一気に吐き、今の内に酸素を補充しておく。
また息を止めて、すぐ来ても確認できるよう、戸に潜み神経を集中させる。そこで、戸が本の少し、小さく開いている事に気がついた。
(之では見つかる・・・・・・!)
音がせぬよう、じわりじわりと戸を閉めようとする。だが、何故だか中々閉らない。怖くなり、音も気にせず力をいっぱい入れた。
がっ!
―――戸の隙間から、指が出てきた。
血走った眼球が、カグツチを捕える。力が抜けて、戸は勢いよく滑り大きな音を立てて向う側の戸に重なった。
『お願いします殺さないで殺さないでお願いです殺さないで―――!!』
天尾羽張がカグツチの胸を貫いた。血が噴き出し、伊弉諾の全身に降り掛る。この血から、また神々が生れた。
『―――殺して遣った』
伊弉諾は、しみじみと、三貴子のうち男神二柱にこの話をした。其は自慢なのか、皮肉なのか。其とも、自分に逆らえばいつだって殺して遣るという、脅しなのか―――
クラマの眼前にいるこの男と素戔嗚の反応は、正反対なものだった。だが、心の底に秘めた想いは、大してそう、違わない様に思う。
“この父親は、信用ならない”
「―――正直、私も伊弉諾の事は尊敬できません。たとえ其だけ伊弉冉を想っていたとしても」
男が冷静・・・と謂えば聞えはいいが捉え方に依っては冷たいだけの声で言う。素戔嗚の気持ちも少しは解るという事か。
「其が素戔嗚が反抗してよろしいという理由にはなり得ませんが」
「・・・・・・;」
仲の悪さは筋金入りの様だ。地球を救済する事が家族問題の解決と同列とは。もう笑うしか無かった。
(―――還りたい・・・・・・金星に・・・・・・)
クラマは正直落ち込んだ。
「其から父は、有ろう事か伊弉冉を追って黄泉へ向かうのです」
「黄泉へ―――!?」
クラマが愕く。感情の起伏の少ない(様に見える)彼が愕くのだ。男は其に少々驚いた様に見えた。
黄泉とは死者の世界と勉強したが、如何も此方金星の事を指しているように思える。“イザナミ”と云う名も、馴染みが有った。
だが“イザナギ”と云う名は聞き憶えが無い。健在であるか訊いてみたかったが、縁起でも無い気がした。訊けなかった。
「素戔嗚が“根の国へ往く”と言っていたでしょう。“根の国”は黄泉と同義で、彼方は父と同様に、黄泉へ向い、伊弉冉に会おうとしているのです」