ⅡⅩ.宴の裏側~黄泉と冥土~
ゴオオォォォ・・・
地下特有のひんやりとした空気に、びゅーびゅーと細い隙間風が流れ込んでくる。その風はとても熱い。
「・・・・・・・・・」
その痛い風を顔に受けて、素戔嗚は目を覚ました。
(そうだ、俺は確かあの金星のクラマを怒らせて・・・)
素戔嗚はぞくっとした。クラマの血管がぶち切れた。仕舞いには眼を飛び出させて・・・
こう云えば可也のグロい誤解を沢山の者に与えるが、文章上は一概に間違っているとも言い難い。
何せ、クラマ自身の表情もグロい訳では無いが相当に険しかったので、取り敢えず怒っている事に変りは無いのだ。
・・・・・・仏の顔も、三度まで。
もう怒らせない様にしよう。素戔嗚はクラマの影にびくびくし乍ら両腕で己を抱いた。
・・・その時、ポロリと
「――――!!」
・・・右腕が、素戔嗚の二の腕から腐り落ちて仕舞ったのである。
「な・・・っ」
ばしゃっ。朽ちた右手が床に落ちると、ジュゥ・・・と燻り原形無くして融けて仕舞った。素戔嗚が居るのは今、立ち枯れや熔解等で異形の姿へと変り果てた処。素戔嗚の衣装も、所々にて溶け破れていた。
――――此処は、何処だ
じわ・・・っ。素戔嗚の皮膚が爛れ、彼の身体が崩れてゆく。身を焦される熱さと痛みに、彼は恐怖が先走った。
「クラマ!クラマ!!」
肉体は朽ちて、黄泉に生ける別の元素へと変異する。さすらば、もう清浄な地球へと戻る事は不可能だ。
伊弉冉は、消えかける自我を圧して伊弉諾を、そして血の繋がらない素戔嗚をも変異せぬよう守っていてくれたのに。自らの肉体を玉櫛笥として。
御蔭で伊弉冉は成仏できず、金星へ転送される前に羞恥を膿んで美しい肉体を啄まれて仕舞った。
・・・父子揃って、何と愚かな不逞を働く者よ・・・
『成程・・・他者を思う“心”が、黄泉を善悪分類無きものにし、道敷大神を生んでおるのか―――』
素戔嗚は、名を呼んだクラマよりも数段嗄れた声が聴こえてくるのに薄薄絶望を抱きながら、半分はすがる想いですぐ振り返った。
振り返ると其処には、神の何倍もの大きな笏を持ち道服を纏った武神が、眉をつり上げて哂っている。
『ようこそ、地獄へ・・・・・・』
「地獄・・・だと・・・・・・!?」
素戔嗚が咄嗟には理解できない様子で異空間と化した世界を見廻す。其処は素戔嗚は未だ見た事の無い、宇宙。
空の無い天上は其の侭、暗い宇宙空間を映し出していた。
「・・・・・・っ!?」
息が苦しい。突如酸素が薄くなる。身体が自分のものでない様な感覚。素戔嗚は喉元を左手で押え、倒れ込んだ。
『はっはっは。苦しいか?苦しかろう。地獄には大気が無い。ぬしのその薄っぺらな肺では、屎泥処にさえ耐え得るか判らぬな』
息苦しさに涙を溜める素戔嗚を笏で指す。眼前にて笏を一振りすると、泥や糞等といった汚物が盛大に噴き出し、素戔嗚を汚した。
その行為は、嘗て彼がクラマや高天原の者々に行なった仕打そのものであった。
『屎泥処の地獄には獣の殺生をした者が落される。ぬしにも思い至る節が在るのではあるまいか―――?』
咳き込む素戔嗚。まともに武神を見る事が出来ない。思い当る節なら在った。ワカヒルメが死んだあの一件についてだ。
『本来ならば機織女の罪も問う所ではあるが、事故の要素多く更生の余地ありと甘い判決が下っておってな――・・・些か儂としては不本意だが、屎泥処・闇冥処・極苦処の三処償いで赦して遣ろう』
活きよ、活きよ・・・・・・獄卒達が語り掛けると、失いかけていた意識が強制的に呼び覚まされる。本来ならば疾くに窒息している筈であるのに、苦しみが延々と続く。死を迎える事の出来ない終りの視えない苦行に、素戔嗚は永遠の恐怖を刻みつけられる事となった。
―――死ぬ(終る)事の出来ない苦しみ。
『・・・死を引き止めようと臨むなど、全く以て愚かしい。火星でも嘗て不死を望んで悲惨な結末を迎えおったが、内惑星は何ゆえ其処まで生に固執するのか、冥王星にはとんと解らぬわ・・・』
冥王星は別名・閻魔の星と呼ぶ。金星の護法魔王尊が死者の裁きを下す者なら、冥王星の閻魔大王は罪ある死者の行先を決める者であった。
素戔嗚が冥王星で見た空は、大気が一切邪魔をしない宇宙空間其の侭だった。
「・・・・・・閻魔羅闍」
頭襟代りの布を外し、第三の眼を露出させた状態で、クラマが宇宙空間に現れる。第三の眼は覚醒しているクラマ自身とは無関係のリズムを刻み、安らかに目蓋を閉じていた。
「・・・ほぅ。ぬしがその眼を継いだのか」
閻魔が親しみのある声で言った。クラマは肯く。
「梵天は息災であるか」
梵天とはクラマの父の事である。クラマの父は地球根源の神である天之御中主神と同じ、金星根源の神であり、また先代の魔王尊であった。閻魔とは旧知の仲であったから、クラマも見知った相手である。
「・・・否。父は―――」
会話は出端から挫かれた。クラマは歯切れ悪く答える。魔王尊は世襲制であり、先代が金星を離れ宇宙の塵となる事で第三の眼と共に次代に継承されるのだ。詰り、其が星を担う者の死である。
「――何?未だ700年程しか経っておらぬではないか!内惑星の輩は全く、すぐ逝におって・・・軟弱にも程があるわい!」
閻魔が荒ぶり、息子である只其だけのクラマに当る。クラマは黙って耐えた。冥王星にとっては700年程度の時の流れかも知れないが、冥王星と金星ではそもそも公転周期が違う。冥王星の1年は、金星にとっての実に151年である。心拍と同じ様に、身体の大きさではなく公転軌道の大きさで、彼等の寿命の長さは決る。鼠の寿命が短くて象の寿命が長い様に、金星の守護神は長くは生きられぬ為に世代交代を繰り返し、冥王星は星が誕生した時からずっと閻魔が護っている。
「詰らぬなぁ・・・折角奴の事が多少なりとも解ってきたというのに・・・之で何度目ぞ。何処ぞの首相みたいではないかー・・・」
閻魔、グレる。首相はまぁ、死んで交代という訳ではないが、外国の首脳が懐いているであろう心情という点で現代に通ずる深い御言葉だ。
「之では浦嶋太郎だわい。儂が知らぬ内に生命総入れ替えが行なわれておる。全く以て寂しくなるな」
ぬ。閻魔は妙な声を上げて梵天の息子を見る。護法魔王尊は深く頭を下げると
「我が邪眼が幻影への姿現し、感謝致す」
・・・礼を述べた。
閻魔は笏を口許に当てると、唇を尖らせて詰らなさそうな表情を取った。
「・・・フン。どうせ儂は汚れ役だわい。地獄の番人なぞその様なものだ」
素戔嗚は確かに地獄の苦しみを体験したが、実際に死んで冥王星に転送された訳ではない。全てはクラマの第三の眼が映し出した幻影で、閻魔の姿を少し許貸して貰った“精神世界の”地獄だ。詰るところ、言う事を利かない餓鬼への“お仕置き”である。
「内惑星の卑俗な考えなど、儂にはさっぱり解らんわい。全く。その判決の甘さは父親譲りか」
素戔嗚の遣った事は、確かに簡単には赦してはいけない事である。高天原全体を禍に落し、金星の黄泉との境界を失いかけた。
其は生命倫理の崩壊をも意味する危険な所業だ。
「―――其とも、ぬしには死に逝く者を引き止めんとする奴の情が理解できると申すか?黄泉の世界の住人よ」
死を知らず、知るは生き地獄の繰り返しの閻の魔王が問う。死にすぎて、然程珍しい仕事でもない魔王尊は首を横に振った。併し
「・・・我迎ゆ方故解らぬ。されど、されどこそすれば―――非常に興味深き事也。我之迄に裁きし者は、保身、物欲、子孫繁栄(犯持戒人)が動機であった。第二人が視界に入りし動機は初めて也」
“寂しかった”。多少エゴイスティックであったとしても、其は他者を想える心。
“死にたくない”と他者を贄にするのではなく、共に生きたいと願う純粋な心。
世界に在るのは自分独りだけではない。自分だけが生きてきた訳ではない。そういった自覚が芽生えている証だと、クラマは判断した。
「其が心こそ、生命争わず共に生きるに欠かせじ進化と、我想いし」
数多く生れ、すぐ死へ至るこの内惑星での限りある生命を大切にして欲しい。真理を知る醜い邪眼とは不相応に白い前髪が、ふわりとゆっくり額を覆った。
「其で100億が悠久の刻を太陽と共に紡ぐと申すか。遣る事為す事小さきものよな。好きにすればよい」
還れぃ。もう二度とぬしにも会わぬであろうがな! 閻魔はさっさと踵を返し、笏でクラマを追い払った。其でいながら、立ち竦むクラマをちらと見遣る。
「・・・閻魔羅闍」
・・・錫杖も無いのに鈴の音が
「・・・10世紀が後、1000年後に開かれし太陽系調査会議、金星代表我が出席也。逢ひし事をば愉しみとしている」
・・・何を云うておる。6年と半年後だわい。閻魔は器用に笏を使ってあっかんべえをした。
幻から現実へと還る。スイング‐バイで遠ざかり、時間と空間の感覚が早まって冥王星が見えなくなっていく中で、地獄の主は影像の向う側から、此方に向かって最後に声を掛けた。
『・・・・・・素戔嗚が禍、完全に断って遣ぁたぞ』
『・・・・・・忝い』
あの世へ引き摺り込まれかけていた魂が浄化されて還される。
禍というものは若しや今日で謂う霊感で、素戔嗚は霊感が強かったが故に、母が姿をした霊の誘惑にあてられたのかも知れない
・・
・・・
「ん・・・」
―――黄泉比良坂の入口に、大きな桃の樹が在った。素戔嗚は桃の樹に寄り掛って眠っていた。ごろん、と桃の果実が頭に落ちる。
「いてっ」
素戔嗚は完全に目覚めた。コロコロと桃が転がり、意富加牟豆美命がけせせせと哂ったが、素戔嗚は気づかない。
しゃらん・しゃらん・・・と鈴の音が聴こえる。山伏の格好をした男が意富加牟豆美を拾い上げ何かを囁くと、意富加牟豆美は何だか悲しげな顔をした。手甲の手が桃を撫でる。
「・・・・・・クラマ」
素戔嗚がぽかんとした顔で山伏を見上げる。額に視えていた第三の眼はもう見えず、代りに素戔嗚を視る際に閉じていた両の眼が、ぱっちりと開かれていた。クラマの元持つ両の眼の色を、素戔嗚が目にするのは初めてだった。
「あんた―――・・・・・・視えるのか?」
素戔嗚が額と眼窩周辺を代る代るに視ようとする。クラマは両眼を細めると、安心した様に微笑んだ。
「―――・・・視えし也。素戔嗚―――・・・汝が還って来たから也」
――――黄泉へと繋がる穴が塞がる。




