Ⅱ.禍(マガ)
「・・・禍」
クラマは水の入った猪口を揺らす・・・あの男は確かに禍と云った。禍とは何ぞ。
猪口の中の水を一口、飲んだ。
水を見、触れ、口に入れる。身近になればなるほど神秘的な物質だ。無色・無臭・透明。無味・・・だが、甘味が有るといえばその様な気もする。不思議な気分だ。
(―――この美しき液体をば、あの鳥も飲んでいたのか―――)
クラマは水の神秘に魅せられながらも、男が言った“マガ”という言葉が引っ掛っていた。
人類、未だ生れず。加え、女、篭りしに出ず。クラマが地球に来た意味は皆無だ。何十・何百と年月を掛け、旧い技術で来た努力が水の泡である。だからといって、金星へ還るとなってもまた何十・何百という年月が掛る。
(―――其の間に、人類、生れるやも知れぬ―――)
彼としては、故郷の星との袂を分つ覚悟でこの星へ来た。其なのに、まんまと女の気紛れに弄ばれたという訳か。
どれほど月が綺麗であっても、どれほど水が美しくとも、自分の故郷ほど恋しいものは無い。クラマは溜息を吐いた。
(―――我、如何すればよい―――?)
―――禍。
(―――其にしても―――)
クラマは周囲を見回す。祠の様なこの建物に、彼は独り、坐していた。男は自分が此処に居ては“マガ”を呼び寄せてしまうと云って階段を下りて往った。
闇は“マガ”を呼び寄せると云う。“マガ”を呼び寄せぬ為に女は光を呼び、男は“ツク”を呼ぶのだと云う。“ツク”は闇より生れしもので同じく“マガ”を引き連れん強力なモノだが、日の沈む頃、耀き光の形代となって“マガ”を逆にはね返す性質を持つ。光と“ツク”は均衡を保っていたが、女が光を呼ばぬ今“ツク”の力が大きくなり過ぎ、男に引き寄せられ、暗き日の時刻にも顕れると云う。暗き空に“ツク”は“マガ”。“ツク”は“マガ”を引き連れん。
(―――あの男が“素戔嗚”では無いのか―――?)
ぞくりとした。クラマはちらと戸を見た。戸に張られた障子紙が震えている様に見えたのは気のせいか。
クラマは思考を戻して更に考える。“素戔嗚”が、月を操るあの男だとは、如何も考え難いのだが―――
アマテラスからはよく弟に関する愚痴を鏡を透して聞かされていたが、彼女の言う粗暴で複雑な性格には如何しても視えない。
“素戔嗚”の他に兄弟がいるとは聞いていぬし―――
―――禍。
クラマは立ち上がって、木で出来た戸を開ける。先程から何かぬめりとした、どす黒い妖気を感じていたのだ。廊下へ出て、緑の美しい周囲を見回す。素早く動いたと思ったのだが・・・・・・誰もいない。
(―――否“妖気”は消えぬ―――)
金星の地表で感じる“妖気”を今、此処で感じる。視界の澄んだこの地球で、金星の様な熱っぽい、重苦しい妖気を体験するとは思わなんだ。
堂々と横を掏り抜けて、己が背に潜む男がいた事に、クラマは気づかない。辺りを伺い続けるクラマを見て、男は嗤った。
男が、先日ツクを呼んでいた男が使っていた杖を手にし、祠の障子を突く。破れた障子の音は気を張っていたクラマを大いに愕かせた。
「!!」
男が一つ突いただけで、木で四角に仕切をしてある障子紙の一枡一枡が一遍に穴開く。クラマが眼を白黒させるさまを、男は愉しんだ。
(―――之“禍”―――?)
クラマが外へ出て、祠の様子を外側から見んとす。だが、彼が外へ出る直前に祠の天井が崩れ、彼を捲き込んで建物が倒潰した。男が杖で天井を突いたからだった。
「??」
潰れた祠から這い出、当惑するクラマ。更に、白い髪にひどい悪臭のする泥が落される。クラマは咳き込んだ。
彼の白い髪だけでは無く、祠の破れた真白な障子・紙垂にも汚泥が落され、白という白が汚されていた。白という色を嫌うかの様に。
「素戔嗚!」
切り裂く様な声がした。男がおっ、兄貴!と叫んで滑稽に飛び跳ねる。無論、クラマには視えないが声は聞えたらしく、辺りを不思議な表情で見回した。
「御客さまに、何て事をするのです!」
“ツク”を呼ぶ男が駆け寄り、祠からクラマを引張り出す。男は祠の裏に撓う樹の枝で前回りをし、器用に足を枝に引っ掛け上に立つと、見下した様な眼で“ツク”を呼ぶ男を見、くっくっと嗤った。
「姉貴は出て来そうかい?」
「何を他人事な!御前が姉さんをあそこまで追い遣ったくせに!」
ぽかんと、荒々しく野太い声のする裏の樹の方を見るクラマ。やはり彼には其処で戯れる男の姿は視えない。
仏には視えない神というものもいるのか―――クラマはとん、と己が額を押えた。盲者の如く両眼を瞑って声のみを聴く。
「他人事はあんたの方だろう、なぁ、兄貴?自分の姉貴があんなーに悩んでいたのに、相談相手にさえなって遣らなかったじゃねぇか。あんたも一応三貴子だよな?めーちゃ影薄いけど」
「私は・・・」
「『夜を統べる姉貴とは対極に位置する神だから』・・・?そりゃいい逃げ道だなぁ」
よっ、と別の枝に跳び移る素戔嗚。今度は雑技団の様に、足の甲を枝に引っ掛けてくるくると回る。
「べっつにあんたと姉貴が一緒に居ると力が半減しまーすとか、逆にまたマガ来まーすとか、そんなん無いんでしょ?だから今更になって岩屋戸に見舞行っちゃったりしてる訳だし」
男が苦い顔をする。併し表に出すまいと努めて、撓う樹の枝の方を向き、落ち着かせた声で言った。
「・・・その杖を返しなさい、素戔嗚。其はツクを呼ぶものであって、禍を呼ぶものでは無い」
「またまたぁ~。そう遣っていっつも自分はいい子ですー、姉弟ゲンカしませんー、アマテラスとスサノヲケンカしても関係有りませーん。の優等生ヅラ。ムカツクんだよね、それ」
「私だって問題行動ばかり起す不良は嫌いです」
睨み合いをする二人。クラマは困惑した。之って、早い話が兄弟喧嘩―――?
そんなくだらない理由の為に、地球は禍に追い遣られ、自分は金星を捨てさせられたのか。怒りを通り越して、呆れ果ててしまう。
「おーおー。初めて利害が一致したねぇ。なら兄だからってそんな重く考えないで、別に俺の遣ってるコト無視してていーよ。そっちの方が俺も、うっとうしくなくていいからさ」
言いながら、目を瞑った侭のクラマに視線を移した。馬鹿にした笑みを浮べて、散々に言い始めた。
「あーその女みたいなヒトが、姉貴が呼んだ“助っ人”ってやつ?なんつーか?ひ弱だねぇ。目ぇ、視えないみたいだし?」
「・・・・・・サナト=クラマ?」
言われて男は初めてクラマを見る。心配そうに身体を揺すって、男はクラマに焦った声で呼び掛けた。
「どうなさいました!?クラマ。眼に泥が・・・・・・!?」
「おいおい~。そんなんじゃ逆に足手纏いになりそうだな。“人類救済”する側がされちまってよー。而も人類まだ生れてないし?何の為に遠路遙々金星から地球に来たんだろーねー」
枝の上に座って肩をすくませる素戔嗚。男ははっとした表情になり、愕きを隠せず素戔嗚を見た。
「待ちなさい素戔嗚。何故御前がその様な事を知っている?」
きっとした眼で睨みつける男に、素戔嗚はくっくっと喉を鳴らして嗤い始めた。男は隠していた不快の感情を顕にする。
「・・・何がおかしい」
「・・・いやぁ?若しかして“知らなかった”のかと思っただ・け」
「・・・・・・?」
意味深に人さし指を立て横に振る素戔嗚に、男は困惑の表情を浮べる。素戔嗚は益々(ますます)つけ上がり、顔も横に傾けて
「知りたい?知りたい?」
と、訊いた。完全におちょくられている事を最も身に沁みて感じている“ツク”の男は、少しムキになり掛りながら
「その様な子供だましは効きませんよ」
と、声を低くして言った。素戔嗚は両手を頭の後ろで組んで、詰らなさそうな顔をする。枝を足で掴まり一回転した。
「ほーらすぐそう。可愛げが無いよねー。兄貴さぁー“知りたがらない”事が大人だとでも思ってんの?まーだ俺の方が物識りだよ?」
「・・・どういう事です」
「“気づいたら全てが終ってる”って事だよ。心当り有るだろう?姉貴の事にしてもそうさぁ。フツーに天屋戸に篭るまで気づかなかっただろ?知ろうとしなかったじゃねぇか。あんたはツクの様に、照らされなければ見つける事が出来ないのさ」
はっはっは!と豪快に嗤い飛ばす素戔嗚。男は反論も出来ず、悔しげに顔を歪ませるばかりである。
「ツクは常に同じ面を見せている。あんただって、裏の面には蓋をしてるんだもんな」
「・・・・・・」
辛辣な弟の指摘に、クラマも黙って耳を澄ませていた。
「さて、と」
言うだけ言って気が済んだ様で、素戔嗚は大車輪をして立ち上がってから、大手を振って樹の幹に沿って歩き始める。
「んーじゃ俺、往くわ」
「待ちなさい!何処へ往くというのです。きちんと貴方の治めるべき海へ還るのでしょうね!?」
気を張って言う男に、素戔嗚は片眉を上げて不思議そうな顔をした。次の瞬間、歯を見せて、はっ!と歪んだ笑みを見せた。
「・・・何言ってんの?俺が往くのは根の国だよ。海原を治めろなんて、親父が勝手に決めただけじゃん」
「其でも私と姉上は、高天原と夜を治めている」
「・・・」
素戔嗚は唾を吐いた。すると唾の掛けられた新緑の土は枯れ、どす黒く変色して煙が揚った。
其が―――禍。
「素戔鳴―――御前・・・「あーあーヤダヤダ。之だからいい子ちゃんは」
素戔嗚はもう聞きたくないといった様に横を向いた。口調はそう変らないが、先程と較べると余裕が無い様にも感じる。話すのが早い。
「あんたいいよね?ツクさえ呼べばいいんだから。俺みたいに土地に縛られてない。“夜”なんてそんな抽象的なコトバ、ドコに居たっていいって事じゃん」
男は上目遣いで素戔嗚を見ていた。よく回る口。この時、男はどの様な気持ちでこの言葉を聴いていたので有ろう。
「んで、嫌だっつったら親父、淡道に引き篭ってんの。今回とイッショ。思い通りにいかないとすぐ引き篭る。引き篭りゃ周りが気を利かせて動いてくれますか?そういう甘えた態度、俺、大っ嫌いなんだよね」
「御前も甘えているではないか」
素戔嗚は目線を横に向けた。幹に水平に歩いているので、横目で見えるのは兄の顔。あ?と訊き返した。
「いつまでも、死んだ母親を忘れられずに義務を怠り、そのうえ根の国に会いに往くとまで言い、蛆やケガレといった様々な禍をこの地へ持ち込もうとしている。根の国である分、父上や姉上の其より質が悪い」
「其は、御袋が不浄なものだとでも謂いたいのか?」
・・・男は口を噤む。認めたくはない顔だった。だが、謂っているのはその様な事だ。素戔嗚はちっ、と舌打をすると、男がツクを呼ぶ時に使う杖を振り上げた。
「・・・はっ。あんたサイアクだな。そんなあんたに呼ばれるんだ。ツクなんてのも大した事無いんだろうな」
「!返しなさい其を!その杖が無ければ、ツクが接近するのを止められない!」
「へぇ~。接近したらどうなるだろうな。ぶつかって壊れるかな。地球割りかな。ならばこの星は、其程大した事無いんだろうな。なぁ金星から来たクラマさんよ。宇宙から見える地球なんての、タダの青いビーダンなんだろ」
「スサノヲ!」
男が声を張り上げれば張り上げる程、素戔鳴の意地悪は増長する。単なる兄弟喧嘩が、ここまで発展するとは。セカイ系とは、まさにこの事。
「頼みますから、どうか、返して・・・・・・!」
男が懇願する。だが素戔嗚は、せせら嗤って、杖を指先で嫌らしくつつく。杖を舐めると、木で出来た部分が腐り堕ちて往った。
「!」
「あはは。そのカオ、姉貴とそっくり。やっぱ姉弟なんだなぁ。どう?解った?姉貴の気持ち。引き篭りたくなった?」
「貴様―――!!」
「あらら。貴様なんて。俺のコト、敬ってくれちゃってるわけ?其はどーもアリガト」
喉を鳴らして宙返りすると、遠くの、背の高い針葉樹の葉のてっぺんへ立って杖を振る。浮んでいる様だった。
「あー今夜が愉しみだな。題名『これから地球はどうなってしまうのか!?』今流行の題材だねぇ。売れるかもよ?」
んじゃーねぃ、と飛ぶ様に去ってゆく素戔嗚。飛べない男は追い駆ける事も出来ずに、彼が去るのを見届けるとその場にへたり込んでしまった。
クラマが眼を開ける。
「―――大丈夫か」
クラマが声を掛ける。と、男はふっと我に返って、慌てた様子でクラマに飛び付いた。
「いえ、貴方こそ―――!御怪我はございませんか!?」
「怪我は、在らぬ―――」
併し、全身が汚泥に塗れている。どす黒さが似ている汚泥は禍を取り込み兼ねない。
「すぐさま“禊”を行ないましょう。直ちに“糞戸”を祓います」
・・・・・・何だか、響きが嫌だと思った。