ⅩⅦ.岩屋戸の宴~宴の裏側~
・・・ツクは、望を指していた。クラマが金星から地球へ来て5日が経っていた。
手持ち無沙汰の男は、水鏡と化した草原に腰を下ろし、独り、月見をしていた。昨日までは只の細長い葉っぱの草原であったのが、今日は月見らしく穂が出来て、全体が白っぽくなっている。
里芋と栗を盛って、神酒を供える。自らも片手に杯を掲げて、月に向かって乾杯をした。
「・・・今年も、御世話になりました」
男はそう呟いて、杯の中にある神酒を飲み干した。えらく深沈とした表情で飲む。杯を芒の中に埋めると、静かな声で
「之からもまた、よろしくお願いします」
と言った。
〔―――よいのですか〕
月が問う。
「・・・・・・何がですか」
〔―――宴に、参加なさらなくて〕
・・・・・・すると、男はふっと哂ってみせ、自虐的にこう言ってみせる。
家族に対して、こんな寂しい感情になるのは初めての事だった。
「・・・・・・私がいれば、出来るものも出来なくなりますよ。姉上は、私を嫌っていますのでね」
悲しげな笑顔だった。この様な表情を見せた事は、之迄に無い。
姉にも弟にも、私は信用されていない。肝心な時に、どちらも助けにいけなかった。併し其は、自らが望んだ結果であるのも確か。
「・・・・・・其に、今宵は十五夜―――いつもの様に、あなたと二人で居る方が」
〔嘘はやめて―――〕
男はくらっときた。まだ大して――というか、全然飲んでいないのに、もう酔いがきたのかと思う。我ながら、笑ってしまう。之では完全に酔いどれではないか。月の声が聞えていると思い込んで、独り言を喋っている。
「可笑し・・・・・・」
〔泣いていいのよ〕
顔を埋めて其でも猶笑っている男に、月は言った・・・可哀相に。この神は、哀しむべき場面でも笑って誤魔化し其がくせになっている。
男が顔を上げた・・・愕いている。
まさか――月を宛てにした自らの空想遊びだと思っていたのに。
「―――ツク―――?」
〔はい―――〕
月が返事をする。男は呆気に取られて月を見つめていた。男が敏感になり過ぎて他人を信じられなくなったのも、月を読むのと同様に他人の心まで読むくせがついてしまったからかも知れない。
優しい月は少し、責任を感じる。
〔―――之から日月はこのツクが、貴方さまの心に御伝えします〕
「―――?」
そういう意識の無い男は、よく解らないといった顔をする。
〔貴方さまはもう、わざわざ私の心を察さなくていいのです。安心して。衛星は決して、嘘をつかない。いつだって、時代がどう変移しようとも、ツクはずっと、地球の周りを回っています―――!〕
男は呆然と、変らず白銀に耀く月を見つめていた。だがやがて、目許から、その端整な顔が崩れてゆく。
「―――でも・・・私は、臆病だから・・・・・・読んで、しまうかも、知れない―――」
そう言いつつ、もう既に読んでいる臆病さを、男は呪った。信じられていないと嘆く以前に、自らが他人を信じ切れない。信じてくれない相手を、如何して信じてくれようか。
―――併し、月は、こう云った。
〔―――構わないわ。そうすれば、そうする程、貴方さまはツクを好きになる〕
―――嘘じゃない。男は子供の様に涙を拭い、可笑しいな・・・と呟き微笑んだ。
「実感できない。まるで夢の様だ―――私の望んだ様に、事が動いている」
〔すぐに実感できるわ。ツクはいつだって、貴方さまの心に語り掛けてあげますし、貴方さまが泣く日も、笑う日も、ツクは変らず回り続けて差し上げます。貴方さまに振り回されてなんか、あげません〕
男は滑稽だと笑った。何と気風のよい天体だ。
不変であるという、単純だが難しい臆病な男の要求。でも、其を守ってくれたからこそ今も月は変らず耀いている。
泣けてしまう日も笑う日も、朝がきて、夜がきて、月が出る。其がたとえ人の生死に関る日だとしても。
各々歩調は存在するが、離れてしまう事なんて無い。
振り回されて欲しくないくせに、変る事を嫌う、あの方のワガママ。
月がこの時、こう誓っていたから、地球と月が45億年、ずっと離れる事は無かった
―――月と地球の距離が、毎年少しずつ離れつつあるのは、地球から神がいなくなってしまったから―――
かも知れない。
「・・・・・・やはり、此処に入らしたか」
往き着く先は、桃の咲く坂。黄泉比良坂。島根県安来市。宮崎で開かれし宴会の、徒歩で遠い位置に在る。
しゃらん・しゃらん・しゃらん・・・
錫杖の修験を窮めし厳しい音が、一歩一歩を着実に踏み締めて、我を忘れし素戔嗚に近づく―――兎と亀。素戔嗚は、桃を抱きうずくまっていた。
素戔嗚は、とても愕いた顔をしてサナト=クラマを振り返る。併しすぐに叉、憎まれ口を叩き始めた。
「・・・よーぉ金星から来たクラマさん。わざわざその白杖使って、俺を捜しに来てくれたって訳かい?」
「・・・左様然らばそうであろう」
クラマは眼を瞑った侭笑う。素戔嗚は益々卑屈になって
「視えてないのに御苦労さんよ。俺を捜しに来るヤツなんて、家族入れてもアンタだけだぜ」
と、挑戦的な口調で言った。まるで誰からも、愛された事の無い子供の様に。
「・・・・・・こうした方が、実はよう視ゆる」
クラマは微笑みを崩さない。寧ろ嬉しそうに、益々(ますます)頬を綻ばせる。他人の不幸を悦ぶ様な、意味深な笑みを、素戔嗚は不快に思った。
「・・・・・・視える?」
あっはっはっは。素戔嗚は声高らかに大声で嗤った。握っていた桃を手から転がし、地面に棄てて潰す。
「俺に泥を塗られた事が、そんなに悔しかったか?視えないから反撃も出来ないもんなぁ」
「・・・・・・否。断然」
クラマは澄ました顔をして、首を横に振る。素戔嗚は益々逆上した。こう遣って見るとクラマの方が、根は狡猾で汚く見える。
「左様なくだらぬ所業はせぬ」
「けっ。くだらないのはアンタの意地だろ。大事な装束に泥塗られて、腹立たしいんだろ。そうなんだろ」
「・・・確かに、秘仏に相当する高貴本尊である我に泥を塗るとは、真に罰当りな所業であろう、が」
クラマは漸く開眼し、灰緑に薄く光る両の眼で素戔嗚を捉えた。
高天原の神々には、黒の眼を持った者しか在ない。素戔嗚は怯んだ。
「寧ろそちが、この眼に映りよく正体が掴めし。素戔嗚―――汝、叉も根の国へ往ったであろう」
「あぁ往ったよ。そんなの、俺が黄泉比良坂に居る事から推理できるよな?だまされねぇよ。親の面会に行ってただけだ。其とも何だ?アンタまで、兄貴と同じく御袋が不浄なモノだって言うのか?」
「――――」
クラマは何も答えなかった。其については、かれも複雑な感情を懐いていたから。
だが、根が子供な素戔嗚にはその本心を察せない。答えて貰えない事に、素戔嗚は益々荒れた。
クラマは眼を瞑って素戔嗚の吹いた嵐が横で通り過ぎるのを耐え、落ち着いてから
「・・・・・・汝、我と同じ“にほひ”がする」
と、冷やかな声で呟いた。
「・・・・・・は?」
予期せぬ展開に、素戔嗚は思わず、之迄の怒りを忘れる。逆立った毛髪をツンツン掌の表面で撫でながら
「・・・俺のニオイ、嗅いでたのか!?フェチ!?其ともストーカー!?」
と、とぼけてみせた。クラマは軽くスルーする。
「・・・・・・金星、まさに“地獄”。気温平均464度の大焼処、無間の日々に硫酸の風雨吹き荒れ、海に沈められし苦行を味わう。公転に背き、一日を全うするにもたゆまぬ苦行を強いられる」
「・・・・・・アンタ、すごいトコロで生きてんだな・・・」
落ち着きを通り越し、軽く落ち込んでいた素戔嗚が、之迄の怒り・落ち込みも忘れて感歎の息を上げた。
「生きとし生ける物は幸い也。他化自在天の法に依り、金星の一日は――地球の、凡そ117日にもなる」
「そんなに!?」
そして、クラマの棲みし金星話に素戔嗚は段々と惹きつけられてゆく。好奇心が旺盛なのだろう、素戔嗚の性格もあるが―――サナト=クラマの放つこの妖しい不思議さにも、カリスマを感じ離れられない。
「――金星と地球は元来、同じ星だという説、存じるか」
「俺は無学なんだ。聞いた事無い。聞かせてくれ!」
そして益々、話の続きを聞きたくなるのだった。
「―――金星と地球は太古、濃厚な二酸化炭素の大気を持っていた」