ⅩⅤ.岩屋戸の宴~宴の支度~
―――ビュン!
大きな角を持った立派な鹿が、森の中に入り込み一様の景色を駈けてゆく。青々とした繁みの所々に白い斑点が浮び上がる。
その鹿は、とても足が速かった。
もうすぐで、森の外へと出る事が出来る。視界が開けて、遠くまで景色を見渡す事が出来る。
その矢先であった。
バキッ!
鹿の悲鳴が森中に響き亘る。その悲鳴に、森の動物達はうろたえたじろぎ、樹上の烏は卑怯にも皆を措いて逃げて往った。
人間の手が石を持って振り下ろされる。ガッ!という不快な音が何度かされると、森に響くは風の音だけになった。
人間が立ち上がり、鹿の身体が滑り落ちて草の地面に抛って置かれる。その頭部は最早鹿と特定できない程に粉砕されており、真紅の血は周りに在る緑や白をどくどくと染めていった・・・・・・紅に染まりゆく白の欠片は、鹿の頭蓋骨の一部分であろうか。
「――――・・・」
民族衣装に真紅が飛び散る。返り血を浴びた。包帯だらけの手にはもう、内側の皮膚にまで真紅が入り込んでいる。
「―――御見事」
何処からともなく布刀玉が現れ、珍しく息をついて目配せして笑った。
「上手だね、アメノコヤネ」
鹿に刺さった弓矢を引き抜く。矢尻に刺さったどろどろの真紅がかれの白い包帯に触れようとした。が、つかなかった。
天児屋命。彼は苦笑して、真紅のついた包帯の頸を、ゆっくりと左右に揺らした。
「・・・まだまだだな。君がその弓矢で援護をしてくれなかったら、私は今頃どうなっていた事かと思うよ」
「・・・・・・いやいや。前と較べても相当に上手くなっていると思うよ」
他の神には見せない安らかな姿、色々な表情。“ふたりきり”だとこんな刻もある。“普段”と違ってよく話してくれる。
「・・・・・・君との付き合いも、もう長いんだねぇ」
「嫌かい?」
布刀玉がイジワルく微笑ってみせる。時にはこの様な冗談も言うものだ。天児屋は笑いながら、首をゆっくり左右に振った。
「さぁ肩の骨を採ろう。太占をしないと」
「・・・・・・ふむ」
布刀玉が布帛を掛け、玉祖が八尺瓊勾玉を、伊斯許理度売が八咫鏡を奉納する。更に上から御幣を被せると、漸く岩戸が宴らしい雰囲気になってきた。
本日は十五夜、宴の日だ。
思兼神は満足そうに、顎に手を当てて肯いた。その背後には、珍しく単独行動をやめて見学へ来た天津麻羅が居た。
「天津麻羅。集団規律で厳しい中を来てくれて本当に助かった。礼を云おう」
思兼が細い腕を差し出して、天津麻羅に握手を求めた。天津麻羅は寂しそうな笑顔で、黒く全身を巻いた手で握り返す。
「如何だ?今宵の宴に君も参加してみないか。数が多い方が、天照大御神を引き出し易くなる」
思兼が天津麻羅を誘う。だが、天津麻羅は首を左右に振ると、衣装を翻して早くも立ち去ろうとしていた。
「有り難い御言葉・・・・・併し、契約は全てが揃うのを見届けるまで・・・・・・もう、揃いましたね」
天津麻羅が壇上の三神を見る。加え、岩戸の側には既に天手力男が控えており、天児屋は祝詞を詠む練習をしていた。
「もう往かなくてはなりません。貴方がたと過し、一刻でも外の世界に居られた事を深く感謝します」
「・・・そうか」
天手力男や天児屋は集中していて気がつかなかった。
天津麻羅は彼等も忘れず惜しむ様に見ると、早急に天上の階段を下りて往った。
「・・・・・・大変なのね」
伊斯許理度売が同情の眼で天津麻羅の背を見送る。その台詞の御蔭で辺りは急速に静まり返ったが、すぐに玉祖がぱんぱん!と手を打って空気を入れ換えた。
「・・・おし!今宵は宴だ!おい伊斯許理度売!私達が落ち込んで如何する!何としても今日中に天照大御神を出さないとだなぁーー!!」
ひとり気合い充分の玉祖。思兼はフゥ・・・とわざわざ余韻の残る長い溜息を吐くと
「・・・やれやれ。大声を出さないと己を律せないとは・・・大きな子供だな」
と、捨て台詞を残して祭壇へ向かう。其を聞いた玉祖は黙っている筈も無く、血気盛んに大手を振って
「何だと!?女神にいじめられて泣き出す御前ほど子供じゃ無いわっ!!」
と、思兼を追いかけて奔ろうとした。だが、直後布刀玉にぽん、と肩を叩かれたかと思うと、へなへなとその場にくずおれてしまった。
「!?」
全身に力が入らない。
「やい!布刀玉!御前何をした!!」
情けなくも動けないまま伊斯許理度売の抱擁を受け、猶もぎゃんぎゃん喚き立てる玉祖。布刀玉は涼しい顔をして、一度も振り返る事無く思兼について歩いて往った。
顔色を変えずに、颯爽と歩く思兼。見かける事の少ない組み合せだ。
布刀玉も澄ました顔をして黙ってついて来ていたが、玉祖達の居る場所から距離がだいぶ離れた処で
「その御様子・・・・・天宇受賣命から振られましたかな」
と、ぼそりと言った。
「振られたという表現は如何なものかと思うが?」
思兼の表情は先程から全く変っていなかった。まさに鉄壁の理性である。併し、布刀玉は直感した。
「先程、貴方に呼ばれた気がしましたのでついて参りましたが」
「・・・フッ。よもや、テレパシーだとかいう戯言では有るまいな。実に非・科学的だ。考想吹入という統合失調症の自我障害の一種やも知れぬな。一度病院へ行く事をお奨めする」
この二柱、有り得ない組合せではあるが、思兼、実に散々な物言いである。元々、論理を得意とする彼と祭祀を担当する布刀玉は相容れない仲だ。布刀玉にとって、テレパシーや統合失調症といった横文字現代用語は意味が解らないが、彼が言わんとする心の中は一言一句逃さずに読む事が出来た。
「別に非科学が珍しい事でもありませぬに。我々は神ですぞ。人類から見いしは神は非科学極りない」
布刀玉は占い・神事・更には憑依術まで専門とする極めて霊的で精神性の高い神だ。その技術は天児屋をも凌ぐ。
天児屋も読心術に優れる祭祀の神だが、彼は精神性を重視するよりは他と足並を揃える傾向にある。故に、優しい。横文字現代用語で謂えばスピリチュアルとカウンセリングの違いだ。
布刀玉の中にある厳しさが、同じく厳しい思兼と特に仲を悪くする。
併しながら、布刀玉は思兼の心を読む事が出来る。思兼も感情より理性を優先させる。思兼が布刀玉の莫大な霊力を必要としている事はすぐに判るし、思兼の方も素直に布刀玉に依頼する事が出来た。
交渉は、あっという間に成立だ。
用件を終えた布刀玉が去ろうとする。思兼がかれを引き止め、最後にこんな依頼をした。
「―――今宵の宴は、私と共に司会を頼む」
布刀玉は軽く肯くと、足音を立てる事無く欝蒼と繁った森の中へと消えて往った。